精選版 日本国語大辞典 「議院内閣制」の意味・読み・例文・類語
ぎいん‐ないかくせい ギヰン‥【議院内閣制】
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内閣(政府)の在職要件が議会の信任に基づく、という政治制度。イギリスで古くから発達し、今日では多数の国々がこの制度を採用している。
[田中 浩]
議院内閣制下の内閣は、議会内での多数党(単独内閣)あるいは多数を制する複数政党による連合(連立内閣)によって組織されるから、当然に政党内閣(国務大臣は原則として国会議員)であり、内閣は議会に対して連帯責任を負いながら政治を運営する。したがって、下院や衆議院(日本)において内閣不信任決議案が可決、または内閣信任決議案が否決された場合には、内閣は議会(下院や衆議院)を解散するか、総辞職するかしなければならない。
[田中 浩]
イギリスにおいて、以上に述べたような議院内閣制という政治運用上の制度やルールが慣行として定着するまでには長期にわたる歳月を要した。すなわち、名誉革命(1688)によって議会がイギリス政治における最重要な政治機関としての地位を獲得し、さらに第一次選挙法改正(1832)後、ホイッグ、トーリー両党がそれぞれ自由党、保守党と改名し、ここに名実ともに二大政党制による議会政治が確立する時点まで、議院内閣制はゆっくりした足どりで着実に発達してきたものと考えられる。
まず、名誉革命後ウィリアム3世はホイッグ、トーリー両党員のなかから大臣を任命したが、1695年には下院の多数党であったホイッグ党が単独内閣を組織し、イギリス史上初めて下院の多数意志を反映した政党内閣が出現した。次に、1742年にホイッグ党内閣の首相ウォルポールは議会で信任を失うや、いまだ国王の支持があったにもかかわらず辞職した。これは、不信任決議によって内閣が辞職するという慣行の始まりを意味した。内閣が総辞職するいわゆる連帯責任制の慣行は1766年のロッキンガム内閣の事例に始まる。彼は内閣を組織した(1765)際に、すべての大臣をホイッグ党議員から選び、不信任されたときには全員辞職したのである。そして1830年のウェリントン内閣(トーリー党)の総辞職とグレー内閣(ホイッグ党)の成立は、イギリスにおける政党政治・二大政党制の本格的幕開きを告げるものとして注目されよう。
[田中 浩]
議院内閣制と対置されるものにアメリカ型の大統領制がある。大統領制においては三権分立主義が厳格に守られ、したがって、行政府の長である大統領は国会議員とは別の方法で選挙され、行政府を構成する各長官(大臣)は議席をもたない者から選任される。したがって、この制度の下では解散制度もない。議院内閣制と大統領制の利害得失については議論の分かれるところだが、前者については、解散制度の運用の妙によって国民の意志を柔軟に政治の世界に反映できる、また後者については、解散制度がないことによって政治指導者は強力な安定した政治を実現できる、という長所がそれぞれ主張されている。いずれにせよ、今日、議会政治をとる国々では、各国の伝統・実情にあわせてそれに議院内閣制や大統領制をさまざまに組み合わせた政治形態がとられている。
[田中 浩]
プロシア型憲法に範をとった大日本帝国憲法においては、議院内閣制に関する明文の規定はなく、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其(そ)ノ責ニ任ス」(55条)とだけあった。この条文は、内閣が議会に対して連帯責任を負わず天皇に対して各大臣がそれぞれに責任を負うことを意味したから、第二次世界大戦前の日本においてはイギリス流の健全な政党政治や議院内閣制はなかなか定着しえず、官僚・軍閥などによる超然内閣が勢いを振るった。しかし、1898年(明治31)の大隈(おおくま)・板垣内閣から、1931年(昭和6)の犬養(いぬかい)内閣までの時期には政党による内閣が組織されたこともあったから、運用の面では議院内閣制をとった時期も存在したということもできよう。
しかし、民主政治の確立を目ざした戦後の日本国憲法では、「行政権は、内閣に属する」(65条)、「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」(66条3項)として議院内閣制の原則を明文化した。そのほかこの憲法では、「解散と総辞職」(69条)、「内閣総理大臣の指名」(67条)、「国務大臣の任命及び罷免」(68条)など、議院内閣制が成立するための条件を規定し、ここに日本でも議院内閣制、政党内閣による議会政治が展開される基盤が生まれた。
[田中 浩]
『稲田正次著『憲法提要』(1954・有斐閣)』▽『田中浩・安世舟著『政治学への接近』(1978・学陽書房)』▽『中村英勝著『イギリス議会史』(1977・有斐閣)』
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(新藤宗幸 千葉大学法経学部教授 / 2007年)
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国民が選出した議会の意思で内閣の存立が決定される制度。市民革命後のイギリスで発達。通常は政党内閣の形態をとる。権力分立を特徴とする明治憲法下では制度的には成立しないが,政党の力の拡大とともに政党政治を常態とする憲政常道論が唱えられた。1924~32年(大正13~昭和7)のいわゆる政党内閣期には,内閣が倒れると野党第1党の総裁が首相に任命されるという方式が続いたが,後継首相の選定は元老の判断であり,本来の議院内閣制が確立したとはいえない。第2次大戦後日本国憲法で議院内閣制の条件が規定された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…幕末以降,福沢諭吉を先頭にイギリスの政治制度の紹介は飛躍的に質を高め,富国強兵の手本としてのみならず,政治的自由主義の源泉としても,近代日本に大きな影響を与え続けた。議院内閣制に代表される政治上の制度や技能が,近代世界におけるイギリスの最も卓越した貢献だとする主張には十分な根拠がある。他面で,それはヨーロッパの伝統的階層秩序が歴史変化に適応しながら生き延びようとした努力が,好運な条件に恵まれて,最も成功を収めた特異な例でもあり,移植困難な個性を色濃く帯びている。…
…そこで狭い意味では,行政部の首長である大統領が,立法部とは無関係に直接国民によって選ばれる統治形態を大統領制と呼ぶ。この意味での大統領制は,議院内閣制と並ぶ現代の主要な統治形態である。 歴史的にみると,アメリカ型の大統領制が成立したのは合衆国憲法制定のときである。…
…規模は国や時期によって一定しないが,現代では20名前後が普通であり,日本の内閣法(1947公布)は定員を21名と定めている。日本やイギリスなど議院内閣制の国では国家行政の最高機関である。その会議を閣議,構成員を閣僚,首相が閣僚を選任し内閣を組織することを組閣という。…
※「議院内閣制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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