行政権を担当する内閣が議会(またはその一院)の信任を在職の要件とする制度をいう。近代憲法の定める統治機構を,議会と行政府の構造上の関係に着目して分類する場合,この制度は,議会に対する行政府の責任という要素によって,他の二つ,すなわち,大統領制および議会統治制régime d'Assemblée(会議政)から区別される。アメリカ型の大統領制では,行政府は議会の信任に依存することなく自立しており,スイス連邦の統治機構を例として説明される議会統治制では,それと正反対の意味で行政府の対議会責任性が欠けていて,行政府は辞職の自由をもたないまでに構造上議会に従属し,議会の要求どおりに自分の政策を変えなければならないとされている(もっとも,そのような説明にもかかわらず,スイスの連邦政府は,実際には,議会に対してかなりの主導性をもっている)。
議院内閣制は,イギリスの近代議会史のなかでしだいに成立してきた。18世紀初頭になると,大臣副署制の運用によって,君主権力の実質が大臣たちの手に移行しはじめ(1714年にハノーバー王朝の初代として王位についたジョージ1世が英語を解さなかったことが,大きな転機となった),それとともに,大臣たちは君主により任命されると同時に,議会とりわけ下院の信任を得ていることが必要とされるようになった(1742年,R.ウォルポール首相は,国王の信任を得ていたのに,下院の支持を失って辞職した)。もともと,大臣の対議会責任は,法によって定められた弾劾事由にもとづいて個々の大臣の責任を問うために,下院が上院に対して弾劾impeachmentの手続をとる,という形で追及された。そのような個々の大臣についての弾劾手続から出発して,しだいに,弾劾を避けるために議会の支持を失った大臣はみずから辞職するようになった。同時に,大臣たちが共通の政策を基礎として行動するところから,議会に対する内閣としての連帯的政治責任という原則(責任内閣制)ができあがってくるのである。その際,君主の手になんらかの実質権能がのこっている段階では,君主と民選議院の二元的な対抗状況を前提とし,内閣はその両者に責任を負う。これが二元主義型の議院内閣制であり,議院内閣制の機能が君主と民選議院の間の〈均衡と抑制〉(チェック・アンド・バランス)にあると説明する図式は,この時期の制度を念頭においたものである。
それに対し,普通選挙の原則が成立し,権力の正当性根拠がもっぱら国民意思に一元化されるようになると,国王が行政権の実質をあげて内閣に譲り渡し,その内閣は国王の信任によっては左右されず,議会の信任だけに依存することとなる。このような一元主義型の議院内閣制は,1832年の第1次選挙法改正以後確立していくが,そこでは議院内閣制は,二権の均衡と抑制という要素を本質にするのではなく,民意を基礎とする議会が行政権の担い手である内閣をつくりだし,それをコントロールするという,議会優位の原則によって説明されるにふさわしいものとなる。議院内閣制において重要な意味をもつ解散権の意味も変化をとげる。解散権の実質上の主体は,君主ではなく内閣,とりわけ首相となり,その機能も議会に対する君主の武器ではなく,選挙民の意思表示による裁決を首相のイニシアティブによって求めるという意味のものとなってくる。イギリスの場合,いわゆる二大政党制が一元主義型議院内閣制の枠組みとむすびつくことによって,選挙民の意思→議会選挙→行政権(内閣)という回路が効果的に機能する一方,堅固な議会多数派に支えられた内閣はリーダーシップと安定性を維持することが可能であった。
フランスでは,イギリスでまず成立した二元主義型議院内閣制が,1830年ルイ・フィリップの七月王政時代に,導入された(オルレアン議院内閣制という)。のちに,1875年憲法のもとで,大統領が実質権能を行使しない名目的元首となり,行政権の実質上の担い手である内閣が議会のみの信任に依存する,一元主義型の議院内閣制が確立する。ただし,フランスではイギリスと対照的に,解散権が行使されず,そのうえ,何よりも多党制(それも,政党規律がおおむねゆるやかで,政策上の争点が多元的なために政党連合も形成されにくい多党制)という状況下にあったため,選挙民の意思が議会選挙を通じて内閣をつくりあげるという回路が作用せず,不安定な連立のうえに立つ内閣は,弱体・不安定であった。そのような状態は第四共和政憲法(1946)のもとでもつづき,さまざまな形での議院内閣制改革論が出されたが,結局,第五共和政憲法(1958)のもとで,行政権の実質的担当者として強大な権能をもつ大統領を国民の直接公選によって選び,その大統領と議会の媒介者として内閣がおかれるという,二元主義型議院内閣制の変種が成立している。
ドイツでは,1871年憲法による帝国統一のもとで,内閣の対議会責任制を要求する主張がおこなわれたが,そのような主張は結局実現されなかった。その際,責任内閣制が〈議会主義〉の名のもとに主張され,それに対して,〈権力分立〉が対抗原理として援用された。ドイツで責任内閣制が成立するのは,1919年憲法(ワイマール憲法)によってであるが,それは,1930年代の危機状況のなかで崩壊した。1919年憲法の議院内閣制が実質権能をもつ公選大統領と議会の二元的並立を骨組みとするものだったのに対し,1949年憲法(ドイツ連邦共和国基本法)は,大統領の権能を名目化し,内閣が議会のみに依存する一元主義型の議院内閣制を規定している。
明治憲法では,国務各大臣が天皇を輔弼(ほひつ)する旨を定めていた(55条)が,大臣の対議会責任は定められておらず,半官的註釈書である《憲法義解》も,責任内閣制を否定していた。第1次(1912),第2次(1924)の護憲運動は,〈憲政の常道〉の名のもとに責任内閣制を強く要求し,1924年の加藤高明内閣成立から,32年の五・一五事件による犬養毅首相の死まで,一種の二元主義型議院内閣制の慣行が成立したが,その際にも,統帥権独立,元老・重臣制,枢密院制などによって何重にも掣肘(せいちゆう)をうけていた。第2次大戦後の日本国憲法は,天皇の権能をまったく名目的なものとする(1条,4条)とともに,国会を国権の最高機関の地位におき(41条),その国会に内閣が連帯責任を負うことを明記しており(66条3項),国会により指名される(67条)内閣総理大臣が国務大臣の任免権(68条)をもつこととあわせて,典型的な一元主義型議院内閣制を採用しているといえる。衆議院の解散権については,名目上の権能は天皇にある(7条3号)が,実質的決定権は内閣にあり,69条所定の場合(内閣不信任案の可決,または信任案の否決)にかぎられず行使されうる,という慣行が確立している。
ところで,議院内閣制は,君主と議会の対抗関係が一定の均衡状況にあった段階で二元主義型の類型として登場し,つぎに,選挙民意思による国政支配を議会優位の統治構造によって実現しようとする一元主義型の類型へと展開してきた。そして,政党規律を伴った二大政党制ないし二大政党連合制のもとでは,一元主義型の議院内閣制は,選挙民意思による行政府首長の選択を可能にし,その点では大統領の公選制と似た機能を演ずる。他方,行政府に対するコントロールという点でいえば,議院内閣制のもとではかえって,堅固な与党ないし与党連合を媒介として,行政府が,自分にとって必要な法律や予算を議会で通過させるためのはたらきかけをすることは容易になり,解散権行使の威嚇を伴うときはなおさらである。一元主義型議院内閣制のもとで安定した与党ないし与党連合がある場合,与党という媒介物によって議会多数派と内閣は一体化しているのであり,それだけに,政権交代の現実的可能性を背景とした野党の抑制機能が,とくに重要な意味をもってくる。
→議会 →権力分立 →内閣
執筆者:樋口 陽一
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内閣(政府)の在職要件が議会の信任に基づく、という政治制度。イギリスで古くから発達し、今日では多数の国々がこの制度を採用している。
[田中 浩]
議院内閣制下の内閣は、議会内での多数党(単独内閣)あるいは多数を制する複数政党による連合(連立内閣)によって組織されるから、当然に政党内閣(国務大臣は原則として国会議員)であり、内閣は議会に対して連帯責任を負いながら政治を運営する。したがって、下院や衆議院(日本)において内閣不信任決議案が可決、または内閣信任決議案が否決された場合には、内閣は議会(下院や衆議院)を解散するか、総辞職するかしなければならない。
[田中 浩]
イギリスにおいて、以上に述べたような議院内閣制という政治運用上の制度やルールが慣行として定着するまでには長期にわたる歳月を要した。すなわち、名誉革命(1688)によって議会がイギリス政治における最重要な政治機関としての地位を獲得し、さらに第一次選挙法改正(1832)後、ホイッグ、トーリー両党がそれぞれ自由党、保守党と改名し、ここに名実ともに二大政党制による議会政治が確立する時点まで、議院内閣制はゆっくりした足どりで着実に発達してきたものと考えられる。
まず、名誉革命後ウィリアム3世はホイッグ、トーリー両党員のなかから大臣を任命したが、1695年には下院の多数党であったホイッグ党が単独内閣を組織し、イギリス史上初めて下院の多数意志を反映した政党内閣が出現した。次に、1742年にホイッグ党内閣の首相ウォルポールは議会で信任を失うや、いまだ国王の支持があったにもかかわらず辞職した。これは、不信任決議によって内閣が辞職するという慣行の始まりを意味した。内閣が総辞職するいわゆる連帯責任制の慣行は1766年のロッキンガム内閣の事例に始まる。彼は内閣を組織した(1765)際に、すべての大臣をホイッグ党議員から選び、不信任されたときには全員辞職したのである。そして1830年のウェリントン内閣(トーリー党)の総辞職とグレー内閣(ホイッグ党)の成立は、イギリスにおける政党政治・二大政党制の本格的幕開きを告げるものとして注目されよう。
[田中 浩]
議院内閣制と対置されるものにアメリカ型の大統領制がある。大統領制においては三権分立主義が厳格に守られ、したがって、行政府の長である大統領は国会議員とは別の方法で選挙され、行政府を構成する各長官(大臣)は議席をもたない者から選任される。したがって、この制度の下では解散制度もない。議院内閣制と大統領制の利害得失については議論の分かれるところだが、前者については、解散制度の運用の妙によって国民の意志を柔軟に政治の世界に反映できる、また後者については、解散制度がないことによって政治指導者は強力な安定した政治を実現できる、という長所がそれぞれ主張されている。いずれにせよ、今日、議会政治をとる国々では、各国の伝統・実情にあわせてそれに議院内閣制や大統領制をさまざまに組み合わせた政治形態がとられている。
[田中 浩]
プロシア型憲法に範をとった大日本帝国憲法においては、議院内閣制に関する明文の規定はなく、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼(ほひつ)シ其(そ)ノ責ニ任ス」(55条)とだけあった。この条文は、内閣が議会に対して連帯責任を負わず天皇に対して各大臣がそれぞれに責任を負うことを意味したから、第二次世界大戦前の日本においてはイギリス流の健全な政党政治や議院内閣制はなかなか定着しえず、官僚・軍閥などによる超然内閣が勢いを振るった。しかし、1898年(明治31)の大隈(おおくま)・板垣内閣から、1931年(昭和6)の犬養(いぬかい)内閣までの時期には政党による内閣が組織されたこともあったから、運用の面では議院内閣制をとった時期も存在したということもできよう。
しかし、民主政治の確立を目ざした戦後の日本国憲法では、「行政権は、内閣に属する」(65条)、「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ」(66条3項)として議院内閣制の原則を明文化した。そのほかこの憲法では、「解散と総辞職」(69条)、「内閣総理大臣の指名」(67条)、「国務大臣の任命及び罷免」(68条)など、議院内閣制が成立するための条件を規定し、ここに日本でも議院内閣制、政党内閣による議会政治が展開される基盤が生まれた。
[田中 浩]
『稲田正次著『憲法提要』(1954・有斐閣)』▽『田中浩・安世舟著『政治学への接近』(1978・学陽書房)』▽『中村英勝著『イギリス議会史』(1977・有斐閣)』
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(新藤宗幸 千葉大学法経学部教授 / 2007年)
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国民が選出した議会の意思で内閣の存立が決定される制度。市民革命後のイギリスで発達。通常は政党内閣の形態をとる。権力分立を特徴とする明治憲法下では制度的には成立しないが,政党の力の拡大とともに政党政治を常態とする憲政常道論が唱えられた。1924~32年(大正13~昭和7)のいわゆる政党内閣期には,内閣が倒れると野党第1党の総裁が首相に任命されるという方式が続いたが,後継首相の選定は元老の判断であり,本来の議院内閣制が確立したとはいえない。第2次大戦後日本国憲法で議院内閣制の条件が規定された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…幕末以降,福沢諭吉を先頭にイギリスの政治制度の紹介は飛躍的に質を高め,富国強兵の手本としてのみならず,政治的自由主義の源泉としても,近代日本に大きな影響を与え続けた。議院内閣制に代表される政治上の制度や技能が,近代世界におけるイギリスの最も卓越した貢献だとする主張には十分な根拠がある。他面で,それはヨーロッパの伝統的階層秩序が歴史変化に適応しながら生き延びようとした努力が,好運な条件に恵まれて,最も成功を収めた特異な例でもあり,移植困難な個性を色濃く帯びている。…
…そこで狭い意味では,行政部の首長である大統領が,立法部とは無関係に直接国民によって選ばれる統治形態を大統領制と呼ぶ。この意味での大統領制は,議院内閣制と並ぶ現代の主要な統治形態である。 歴史的にみると,アメリカ型の大統領制が成立したのは合衆国憲法制定のときである。…
…規模は国や時期によって一定しないが,現代では20名前後が普通であり,日本の内閣法(1947公布)は定員を21名と定めている。日本やイギリスなど議院内閣制の国では国家行政の最高機関である。その会議を閣議,構成員を閣僚,首相が閣僚を選任し内閣を組織することを組閣という。…
※「議院内閣制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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