現代中国のスローガン。もともと抗日戦争を勝ちぬくために使われた。1941年,日本は中国の主要な港を占領し,つづいて,唯一残された英米の対中国援助のビルマ(現,ミャンマー)~昆明ルートを脅かした。このため,国民党内のみならず共産党内部にも抗日戦の行方について悲観論が出はじめた。このような状況下で,毛沢東は自力更生を主とし,そのうえで外国に頼るというスローガンを提唱した。新中国が成立し,経済建設期に入った中国は当初ソ連に依存したが,60年7月,ソ連は経済・技術協定を破棄した。それ以後,建設の主要方針として自力更生が提唱されるようになった。その内容は,国の独立と主権の尊厳に抵触する場合には,資金も科学技術もその相手に依存しないというものである。個別的には,各企業,人民公社,解放軍部隊が自分たちの力で自給生産を高め,国への依存度を低めることが要求された。78年12月以後,このスローガンは消えた。
執筆者:小島 麗逸
植民地下の朝鮮ではこの語は権力者側の〈農村振興運動〉のスローガンであった。もっともそれは先行する民族運動の側の自主の思想を換骨奪胎して利用したものである。真の自力更生精神は抗日民族解放闘争の中で芽生えていた。解放後の朝鮮民主主義人民共和国で新たな意味でこの語が復活したのは,1961年11月金日成のソ連からの帰朝報告以降である。一般的には〈他人の力を借りず自体の力で困難から脱出し自立的に生きていくこと〉(《朝鮮語辞典》(平壌))だが,特に中ソ論争を背景として,〈自国の革命と建設は基本的に自国人民の力量と自国の富源によって進めるべきだ〉という立場を鮮明にしたもの。この考え方が70年代にいたりいっそう包括的なチュチェ思想(主体思想)に発展していく。ただし,社会主義国際分業内で特化することなく自力で重工業を含む民族的自立経済を創出すべきだとの考え方は,1956年段階ですでに定まっていた。これはけっして民族利己主義・アウタルキー(閉鎖経済)論ではなく,そうしてこそ最も良く国際革命運動に寄与できると説明される。
執筆者:梶村 秀樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 四字熟語を知る辞典四字熟語を知る辞典について 情報
…運動の進め方をめぐって,単なる幹部の不正摘発運動にとどめようとする国家主席劉少奇と,階級闘争の大衆運動にエスカレートさせようとする党主席毛沢東との間で,具体的方針をめぐって激しい応酬があったが,毛沢東は,強引にこれを,政治,経済,組織,思想の四つを清める〈四清運動〉にもってゆき,〈官僚主義者階級〉なる新概念を提起するとともに,ターゲットとして,〈党内の資本主義の道を歩む実権派(走資派)〉の存在を人々の前に示した(1965年1月)。 こうして,〈階級闘争〉への道を準備するかたわら,現実政策面では,工業における大慶油田,農業における大寨生産大隊が,階級闘争と自力更生をつらぬいたモデルとして樹立された(1964)。 いっぽう,彭徳懐の後を襲った林彪国防相の下で始められた人民解放軍内の毛沢東思想学習運動は,65年に入ると,政治,経済,文化のあらゆる領域で,その唯一無二の有効性がキャンペーンされるようになり,それはそのまま文革のための直接的世論作りの役割を担うことになった。…
…続いて56年から58年ころにかけて,崔昌益(さいしようえき)らの延安・ソ連派,旧朝鮮共産党国内ML派系グループが主導権の奪取を企図して失敗し,一斉に政権から放逐された。これは,北朝鮮での経済建設の基本路線をめぐる対立で,彼らはソ連依存を前提とする消費財部門中心の建設路線を主張したが,金日成主流派の〈自力更生〉路線に敗れたものといわれる。 こうして,系譜を異にする諸要素が排除されて金日成主導下の一枚岩の指導体制が確立され,50年代末から60年代前半にかけてはチョンリマ(千里馬)運動が提唱され,〈千里馬のスピード〉で社会主義経済建設が推進された。…
※「自力更生」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新