日本大百科全書(ニッポニカ) 「レーナルト」の意味・わかりやすい解説
レーナルト
れーなると
Philipp Eduard Anton von Lenard
(1862―1947)
ドイツの物理学者。オーストリア・ハンガリー帝国のプレスブルク(現、スロバキアのブラチスラバ)でワイン商人の息子として生まれる。家業に満足できず、1883年ドイツに旅行。ハイデルベルク大学でブンゼンに出会い、科学者になる決心をした。ハイデルベルク大学、ベルリン大学で物理学を学び、ヘルムホルツの示唆で落下する水滴の振動とその類似問題を研究、1886年クウィンケGeorg Hermann Quincke(1834―1924)のもとで博士号を取得した。ハイデルベルクでクウィンケの助手を3年間つとめたのち、イギリスに渡ったが、「排他的」雰囲気に失望し、わずか6か月で帰国。しばらくブレスラウ大学で助手をやり、1891年ボン大学のヘルツのもとで私講師、1894年ブレスラウ大学員外教授、1895年アーヘン工業大学助手、1896年ハイデルベルク大学員外教授、1898年キール大学物理学教授、1907年クウィンケの後任としてハイデルベルク大学教授になり、1931年退官するまでそこにとどまった。
1888年、陰極線は紫外線に類似した波動だとするヘルツの考えに従って陰極線の実験研究を開始した。1892年ヘルツが陰極線はアルミニウム箔(はく)を通過することを発見すると、翌1893年レーナルトはアルミニウム箔の窓をもつ放電管を作製、陰極線を外に取り出すことに成功した。1900年には紫外線を亜鉛板に当てたときに生じる光電子の比電荷を測定、光電子が陰極線の電子と同等であること、放出電子の速度は波長のみに依存することを実験的に示した。また電子が気体をイオン化するにはある最小のエネルギーを必要とすることを示し、1903年電気的双極子と想像される「ダイナミド」からなる原子概念を発表した。これらはアインシュタインの光量子仮説やローレンツ電子論の先駆けとなるもので、電子と物質との相互作用を調べる新しい実験的研究であった。「陰極線の研究」によって1905年ノーベル物理学賞を受賞。しかしつねに自分の業績を無視しているとしてJ・J・トムソンやアインシュタインを非難し、のちナチスが政権をとると「アーリアン物理学」を標榜(ひょうぼう)し、ユダヤ人排斥運動に執念を燃やした。
[高橋智子]