デンマークの理論物理学者。1903年コペンハーゲン大学入学、1906年学士院の懸賞論文「液体の表面張力」の研究に応募し、金メダルを受賞した。学位論文のテーマに、金属の電気伝導性、熱伝導性などの諸性質を自由電子の運動状態から包括的に論ずる理論的研究「金属の電子論の研究」を選び、熱輻射(ふくしゃ)や磁性などを考察して古典的電子論の無力さを知り、原子内部の運動を記述するにはプランクの量子仮説の導入が必要であることを認識し始めた。1911年学位を取得してイギリスに留学、まずキャベンディッシュ研究所のJ・J・トムソンを訪れたのち、マンチェスター大学のラザフォードの研究室に移り、放射線を研究する実験コースに入り、物質によるα(アルファ)線のエネルギー損失の計算を行うなど、原子に関する多くの知見を得た。翌1912年帰国、コペンハーゲン大学で教鞭(きょうべん)をとる一方、ラザフォードの有核模型を出発点に、原子・分子の諸性質を包括的に説明する原子構造の理論的考察を開始し、1913年水素スペクトルのバルマー公式などを理論的に説明する論文「原子および分子の構造について」を発表、いわゆるボーアの原子模型を明らかにした。原子は定常状態においては古典論によって記述できるが、光の放出・吸収を伴う電子がとびとびのエネルギー状態間を移行する遷移状態においては量子仮説による。ボーア模型は物理学界の注目を集めるところとなり、彼の学問的地位を不動のものにした。コペンハーゲン大学は理論物理学の教授のポストを用意した。その直後、誘いを受け、ふたたびマンチェスター大学に講師の身分で赴いた。なお、このときの共同研究者モーズリーは第一次世界大戦に通信将校として従軍し、戦死した。
1917年、コペンハーゲン市当局や財団の援助を得て理論物理学研究所の建設に着手し、1921年開設した。翌1922年原子構造論に基づいて元素の周期律を説明、同年ノーベル物理学賞の栄誉に輝いた。研究所は国外から新進気鋭の若い研究者たちを集め、自由で活力のある研究者集団の活躍の場となった。ドイツのハイゼンベルク、スイスのパウリ、イギリスのディラック、ソ連のランダウ、日本の核物理学の礎(いしずえ)を築いた仁科芳雄(にしなよしお)もその一人である。古典論と量子論とは極限において一致し、形式上の対応性があるとのボーアの対応原理(1918)を指針にして、原子の世界の運動法則を記述する力学の理論的研究が展開され、1925年ハイゼンベルクは行列力学を発見した。そのころチューリヒ大学のシュレーディンガーは波動力学に到達、両者の同等性を数学的に示した。ところが、ハイゼンベルクの示した電子の位置と速度とを同時には絶対的精度をもっては観測できない「不確定性関係」にかかわって、量子力学の非決定論的性格という認識論的問題が浮上した。ボーアは、古典論的には背反的な波動性と粒子性の二重性も相補うもので、時空記述と因果律の問題も「相補性」の原理によって統一的に解釈できるとした。1933年にはローゼンフェルトLéon Rosenfeld(1904―1974)と共同で量子電磁力学における観測問題を「相補性」の原理を用いて分析した。この「コペンハーゲン解釈」に関するアインシュタインとの論争は有名である。1936年原子核の複合核モデルを、1939年にはホイーラーJohn Wheeler(1911―2008)と共同で核分裂反応の包括的理論を発表した。
なお、ナチスによるユダヤ人の迫害に対して亡命知識人の救援、毒ガス患者の治療器具(鼻孔導管)の製作などを行う一方、王立科学院の院長を務めるなど、平和と科学の発展に尽くした。1943年自身に身柄拘束の危険性が訪れるやイギリスに脱出。アメリカに渡り、進行中の原爆製造(マンハッタン計画)の実情を知り、将来における原爆開発競争の破滅的結果を予知し、翌1944年英米両首脳に会見し、原子力の国際管理案を提言した。1945年帰国。戦後、国連での原子力管理案の審議が暗礁に乗り上げるや「国際連合への公開書簡」(1950)を発表、またデンマーク原子力委員会の長を務めるなど、世界平和と原子力の平和利用の実現を図った。さらにはヨーロッパ原子核研究機構(CERN(セルン))、北欧理論原子物理学研究所の設立に参加、研究所を一時そのセンターとして提供するなど、科学の国際協力に努めた。なお息子オーゲ・ボーアも物理学者で原子核構造理論の研究により1975年ノーベル物理学賞を受賞した。
[兵藤友博]
『ローゼンタール編、豊田利幸訳『ニールス・ボーア』(1970・岩波書店)』
デンマークの物理学者。高名な物理学者ニールス・ボーアの息子としてコペンハーゲンに生まれる。1940年コペンハーゲン大学に入学し物理学を学んだが、第二次世界大戦が始まり、ドイツがデンマークに侵攻したため、父とともにイギリスに亡命、戦後に帰国し、1946年大学を卒業した。1956年コペンハーゲン大学の教授となり、1962年父が死去すると、ニールス・ボーア研究所の所長を引き継ぎ、1970年まで務めた。1975年から1981年まで北欧理論原子物理学研究所の所長を務めた。
早くから父のもとで理論物理学を学んでいた。1950年に、留学先のコロンビア大学でともに研究していたレインウォーターが発表した原子核内の構造に関する理論に強い関心をもち、デンマークに戻ってからモッテルソンと共同で、その理論の検証に力を注ぎ、1953年に原子核構造の集団運動模型を提唱した。これは、原子核内の核子が集団を形成し、互いに作用しあって原子核が変形を起こすというものであった。1975年に「原子核の集団運動模型の発見と原子核構造理論の発展」により、レインウォーター、モッテルソンとともにノーベル物理学賞を受賞した。
[編集部]
『A・ボーア、B・R・モッテルソン著、有馬朗人他訳『原子核構造』第1・第2(1979、1980・講談社)』
デンマークの理論物理学者。コペンハーゲンに生まれ,コペンハーゲン大学で学ぶ。1911年の学位論文のテーマは,金属の諸性質を包括的な理論によって説明しようと多数の理論物理学者が取り組んでいた〈金属の電子論の研究〉であった。徹底した古典物理学による検討にもかかわらず,熱放射や磁性などの合理的説明を与えることはできなかったが,この検討によって,彼は原子内部の運動を記述する新理論にはプランクの量子仮説が不可欠であることを認識した。11年秋,イギリスに留学,キャベンディシュ研究所を経て,翌年春マンチェスター大学のE.ラザフォードの研究室に赴き,金属電子論の研究で培った原子についてのアイデアを実験物理学の成果の上に展開した。そして12年に帰国後,ラザフォードの原子の有核模型をもとに,ただちに各種放射線による散乱,吸収,電離,原子スペクトル,原子容の周期的変化などの実験事実を踏まえて,原子,分子の構造を解析した。ついに13年,ボーアの学問的地位を不動のものとした水素原子のボーア模型を提唱した。ボーアの理論の核心は,原子が定常状態にある限りは古典力学によって,しかし光の放出,吸収が伴うような場合は量子仮説によって説明されるという点にあった。この新旧の理論をうまく使いわける方法は,のちの対応原理に発展していくものであった。14年,ラザフォードの招請でマンチェスター大学講師として出張,16年帰国してコペンハーゲン大学教授となる。17年理論物理学研究所の建設に着手,21年研究所が開設されるや所長として世界各国から集まった新進気鋭の研究者たち(仁科芳雄もその1人であった)の指導・教育にあたった。この間,1918年ボーアは量子論と古典論とは極限において一致し,両者には形式上の対応があるとする対応原理を提起したが,W.K.ハイゼンベルクはこの原理をもとに,マトリックス力学という形式の量子力学を完成した。ついで27年ボーアは,ミクロな世界では粒子性と波動性とが相補って正しい自然の姿を与えるという相補性の考え方を発表し,新しい時空記述の基本的なアイデアを示した。今日〈コペンハーゲン解釈〉として広く承認されているものである。その後,36年原子核反応についての複合核モデルを発表,39年には液滴模型に基づいて核分裂のメカニズムを説明,多くの成果をあげた。このように彼の指導の下,コペンハーゲンは原子物理学研究の中心地となり,いわゆる〈コペンハーゲン学派〉を形成するに至った。また量子力学の解釈をめぐってのアインシュタインとの論争も有名である。
ところで,ボーアはナチスによる政権奪取後,ユダヤ人科学者を救出するデンマーク委員会を組織し,またナチスによるデンマーク攻略後もあらゆる手だてを尽くして,祖国と研究所と若き学生のために闘ったことで知られている。43年みずからの身柄の危険性を感じてイギリスに逃れ,その後,アメリカの原爆製造計画に顧問として参加,その進展ぶりに驚くと同時に,戦後における原爆開発競争の破滅的結果を予知し,44年英米両首脳に訴え,原子力の国際管理を説いたが,その努力は実らなかった。第2次世界大戦終結後コペンハーゲンに戻り,〈国際連合への公開状〉など機会あるごとに国際平和実現のために科学者の立場から尽力する一方,CERN(セルン)(ヨーロッパ合同原子核研究機関),北欧理論原子物理学研究所の創設に加わり,科学の国際協力に貢献した。1922年ノーベル物理学賞受賞。
なお,彼の四男Aage Niels Bohr(1922-2009)も原子物理学者として活躍しており,75年ノーベル物理学賞を受賞している。
執筆者:兵藤 友博
デンマークの数学者。原子物理学者N.ボーアの弟。コペンハーゲン大学においてツォイテンH.G.Zeuthenの指導を受け,C.ジョルダンの《解析教程》やL.ディリクレの《整数論講義》などを勉強した。卒業後,ゲッティンゲンのE.ランダウ,ケンブリッジのG.H.ハーディ,オックスフォードのJ.E.リトルウッドなどをたびたびおとずれて解析学の研究を進めた。1910年に学位論文《ディリクレ級数のチェザロ総和法》によって博士号を授けられ,コペンハーゲン大学の教員となった。30年には同大学に新設された数学教室の主任教授に任命された。彼はディリクレ級数で与えられた関数のとる値に関する多くの論文を発表した。ランダウと共同してB.リーマンのゼータ関数を研究し,1914年にこの関数の零点に関する優れた結果を得た。これは今日ボーア=ランダウの定理と呼ばれている。ボーアはフーリエ級数で与えられる周期関数を一般化して概周期関数を発見した。
執筆者:吉田 耕作
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デンマークの理論物理学者.コペンハーゲン大学に学ぶ.ノーベル賞(1922年)の対象となった原子構造の研究(1913年)は,学位論文で金属電子論を扱い,古典物理学の限界を知ったことと,有核原子模型を発見したE. Rutherford(ラザフォード)がいるマンチェスター大学に留学したことが契機となっている.固有X線のエネルギーが光量子として放出されることから,原子は定常状態にある限り古典力学で説明できるが,光の放出・吸収に際して電子は量子仮説に従い,状態から別の状態へと励起すると考え,水素原子スペクトルのバルマー公式などを説明した.ここにはすでに,のちに対応原理として提起された新旧の理論をうまく使い分ける方法が見える.1916年コペンハーゲン大学理論物理学教授.1921年理論物理学研究所(ニールス・ボーア研究所)を創設.自由で活力ある研究者集団コペンハーゲン学派を形成し,相補性の原理の提唱など量子力学の建設に貢献した.その後,原子核構造について研究し,第二次世界大戦中は原爆計画に参加する一方,原子力の国際管理を英米首脳に提唱した.戦後は国際協力による科学研究の発展に尽力した.
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…干満の差が大きい場合や,河口がらっぱ状に開いたエスチュアリーなどでも感潮の度合が大きく,特に著しい場合には上げ潮時に潮波が水壁をなして河道内をさかのぼることがある。これはボーアbore(潮津波,海嘯(かいしよう),暴漲端(ぼうちようたん)ともいう)とよばれ,中国の杭州湾に注ぐ銭塘江やフランスのセーヌ川などのものが知られる。また,河道の幅が局部的に狭くなるところでは,下流よりも感潮度を増すことがある。…
…概周期関数の理論は,1924年にボーアH.Bohrによって展開されたもので,周期関数の概念の拡張とみなされる。ボーアによる概周期関数の定義は次のとおり。…
…概周期関数の理論は,1924年にボーアH.Bohrによって展開されたもので,周期関数の概念の拡張とみなされる。ボーアによる概周期関数の定義は次のとおり。…
…実際には,大きく進路の曲げられるα粒子があるので,このことから正電荷はほとんど広がりをもたないことが明らかにされ,この点電荷に近い正電荷の部分は原子核と呼ばれるようになった。
[ボーアの水素原子模型]
水素原子の発光スペクトルに著しい規則性のあることは,19世紀末から20世紀初期にかけてJ.J.バルマーらによって発見されていた。すなわち,水素原子のスペクトル線の波長λは,という公式で表される。…
…この分野の勃興時には,神秘そのものであった生命現象を,物理的法則で統一的に理解しようとし,生物学と物理学の融合が図られた。 歴史的には,1932年N.ボーアが〈光と生物〉と題した講演で生物学と物理学を結ぶ新しい学問を提唱し,45年E.シュレーディンガーが,著書《生命とは何か》で,遺伝現象と巨大分子の物理学を結びつけたことに端を発する。多くの物理学者の目が生物学に向かい,生物物理学の発展の大きな契機となった。…
…量子力学の解釈に関してN.ボーアが用いた考え方。古典力学では例えば電子はその位置と運動量によって状態が決まる。…
…ニュートンの力学とマクスウェルの電磁気学を主柱とする古典物理学が原子の世界で成立しないことがわかったとき,それに代わる理論をさぐりあてるまでの過渡期の道しるべとして,N.H.D.ボーアが1915年ころから提唱した原理。ボーアは,原子内の電子には古典力学の運動法則に従う多様な運動状態の中で量子条件を満たすものだけが許されるとして,これを定常状態と呼んだ。…
…これに対しアインシュタインは振動数νの放射そのものがエネルギー量子hνから構成されているとし,光(電磁波)はエネルギーhνをもつ粒子としてふるまうと考えれば光電効果が説明できることを示した(光量子仮説)。そしてこの光量子仮説を原子構造にとり入れることによって,N.H.D.ボーアは,原子の定常状態のエネルギーはとびとびの値しかとらず,原子がエネルギー2の定常状態から1(2>1)の定常状態へ遷移するとき,hν=2-1なる振動数νの光を放出するとして,原子スペクトルの規則性に説明を与えたのである。
[自然放出と誘導放出]
物質からの可視光や紫外光の放出は,通常,原子内電子の定常状態間の遷移による。…
…量子論によれば軌道角運動量の大きさはプランク定数を2πで割ったħを単位として測られるから, μB=eħ/2m=9.274015×10-24J/Tという量が電子によって生ずる磁気モーメントの単位となる。このμBをボーア磁子という。原子構造とその磁気モーメントに関し,N.H.D.ボーアが導入した量である。…
※「ボーア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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