ロアイエ=コラール
Royer-Collard, Pierre-Paul
        
              
                        [生]1763.6.21. マルヌ,ソンピュイ
[没]1845.9.4. ロアールエシェール,シャトービュー
フランスの政治家,哲学者。フランス革命中の 1790年にパリのコミューン書記に選ばれたのをはじめ,97年マルヌ党から五百人議会に出,1815~42年下院議員をつとめた。穏健な革命派で,自由主義的正統王朝派に属し,ルイ 18世の信任を得た。 19世紀初頭の約 10年間に哲学者として活動し,11~14年ソルボンヌの哲学史教授をつとめた。 T.リードに準拠して知覚の哲学を展開し,判断における精神の働きを強調して É.コンディヤックの感覚論を批判するとともに,独我論に陥るのを救うものとして常識をおいた。スコットランド哲学 (→常識哲学 ) の導入で弟子 V.クーザンに影響を与えた。王政が復古すると立憲王党派の理論家として,純理派を形成し,国家権力の根源を人民にも王にも求めず,王と国民の合意の結果である「憲章 (シャルト) 」によって構成された主権のなかに求めることを主張した。
                                                          
     
    
        
    出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
	
    
  
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                    ロアイエ・コラール
Pierre Paul Royer-Collard
生没年:1763-1845
        
              
                        フランスの政治家,哲学者。シャンパーニュ地方のジャンセニストの家庭に生まれた。パリで弁護士となり(1783),フランス革命が勃発するとパリ・コミューンの書記に任命された。総裁政府下で五百人会議員に選出されたがフリュクティドールの政変のために取り消された。第一帝政期にソルボンヌの哲学教授に就任(1811-14),デカルトらの研究を通してコンディヤックの感覚論に反対した。1815年下院議員となり,ギゾーらとともに〈ドクトリネール〉の理論的代表として活躍し,王政復古末期には下院議長を務め,シャルル10世の反動政策に抗議した。雄弁家で鳴らしたが,主著を残さなかった。
執筆者:中谷 猛
 
    
        
    出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
	
    
  
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		世界大百科事典(旧版)内のロアイエ=コラールの言及
    		
      【ドクトリネール】より
        
          
      …純理派などと訳す。呼称の由来はさだかでないが,一説にこの小党派の指導的理論家[ロアイエ・コラール]の巧みな弁舌を揶揄(やゆ)してある時論家がドクトリネール(〈空論家〉の意)と呼んだことに由来するという。ドクトリネールは学者,法曹,官僚や軍人らで構成され,その代表の双璧がロアイエ・コラールと[ギゾー]であった。…
      
     
         ※「ロアイエ=コラール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 
        
    出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
	
    
  
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