リード(読み)りーど(英語表記)Carveth Read

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リード」の意味・わかりやすい解説

リード(Jimmy Reed)
りーど
Jimmy Reed
(1925―1976)

アメリカのブルース・シンガー、ギタリスト、ブルース・ハープ(ハーモニカ)奏者。本名マティス・ジェームズ・リードMathis James Reed。ゆったりと揺れるスロー・ブギ・ウギ・ビート、けだるそうなボーカル、シンプルなブルース・バンド・サウンドに乗せたポピュラー・ソング的歌詞で1950~1960年代に大人気を博した、ヒット・チャートの常連だったブルースマン。

 ミシシッピ州南部のダンリースで生まれる。のちにジミー・リード・サウンドを決定づけることになるエディ・テーラーEddie Taylor(1923―1985)とは幼なじみで、ギターとブルース・ハープも少年時代にテーラーに教わった。1943年にシカゴに移住直後海軍に入隊、1945年に故郷に戻るものの、すぐにインディアナ州のゲーリーに移り、ジョン・ブリムJohn Brim(1922―2003)、またこの当時ドラマーだったアルバート・キングAlbert King(1923―1992、のちにギタリストとしてビッグ・ネームになる)らと活動するようになる。

 1953年チャンス・レーベルで初のレコーディングを経験、ついで黒人経営のインディー・レーベルとしてはモータウン以前では最大規模だったビージェイ・レコードとの契約に成功。テーラーの参加を得てリリースした「ユー・ドント・ハフ・トゥ・ゴー」が1955年にヒットし、リード特有のシンプルなブギ・ウギ・ビート・サウンドの魅力を広く世に知らせた。ギター奏法は初歩的なものだが、舌が口の中に入りきらないかのように時にろれつの回らない、しかしメロディアスに歌うボーカル、およびテーラーのギターのソリッドなブギ・ウギ・パターン、リードの特徴ある高音主体のブルース・ハープが一体となり、だれもまねできないジミー・リード・サウンドの世界となっていた。ロックン・ロール時代も人気が衰えなかったことが、そのビートの魅力の深さを物語るが、その一方、自分の作った曲さえ覚えられず、アルコール依存、また持病のてんかんに悩まされ録音時も妻のママ・リードMama Reedに耳元で歌詞をいってもらいながら吹き込むといった苦労もあった。「エイント・ザット・ラビン・ユー・ベイビー」「ユー・ガット・ミー・ディジー」(ともに1956)、「オネスト・アイ・ドゥー」「アイム・ゴナ・ゲット・マイ・ベイビー」(ともに1958)、「ベイビー・ホワット・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ドゥ」(1960)、「ビッグ・ボス・マン」「ブライト・ライツ・ビッグ・シティ」(ともに1961)といった曲はいずれもヒット・チャートで上位に登場し、第二次世界大戦後のブルース系ミュージシャンとしては、ヒット曲の数も群を抜いていた。

 リードのブルースはアメリカのメインストリーム社会にも最も抵抗なく入っていくことのできたスタイルでもあった。ビージェイ・レコードが倒産の憂き目をみる1965年まで100曲以上のレコーディングを残し、発表したLPも10枚以上に達していた。ブルースのクロスオーバー時代となった1960年代中期からはABC(現、ユニバーサル)系のブルースウェーにアルバム単位でレコーディング、ユーモラスな感覚の佳曲を残した。ユニークな音世界は広い影響力を持ち、南部のブルースマンたちへの影響力は絶大であった。

[日暮泰文]

『Jimmy Reed Interview(in Living Blues Magazine #21, 1975, University of Mississipi, Jackson)』


リード(Carol Reed)
りーど
Carol Reed
(1906―1976)

イギリスの映画監督。ロンドン生まれ。父親は舞台の名優ハーバート・ビアボーム・トリーHerbert Beerbohm Tree(1852―1917)。舞台活動を経て、1935年『ミドシップマン・イージー』で監督デビュー。『銀行休日』(1938)、『星は見下す』(1939)で新鮮な作風を印象づけたあと、第二次世界大戦中はイギリス陸軍映画班に属し、ドキュメンタリー『真の栄光』(1945)をアメリカのガースン・ケニンGarson Kanin(1912―1999)と共同監督する(アカデミー長篇ドキュメンタリー賞受賞)。戦後はいずれもサスペンス・タッチの『邪魔者は殺(け)せ』(1947)、『落ちた偶像』(1948)、『第三の男』(1949)を立て続けに発表、一躍世界の頂点に登りつめる。3作とも映像演出、話術、雰囲気醸成、いずれをとっても完璧(かんぺき)に近い傑作であった。その後の作品は『文化果つるところ』(1951)、『文なし横丁の人々』(1955)、『鍵(かぎ)』(1958)、『フォロー・ミー』(1972)など。舞台ミュージカルの映画化『オリバー!』(1968)でアカデミー監督賞を得た。

[宮本高晴]

資料 監督作品一覧(日本公開作)

星は見下す The Stars Look Down(1940)
最後の突撃 The Way Ahead(1944)
真の栄光 The True Glory(1945)
邪魔者は殺せ Odd Man Out(1947)
落ちた偶像 The Fallen Idol(1948)
第三の男 The Third Man(1949)
文化果つるところ Outcast of the Islands(1951)
二つの世界の男 The Man Between(1953)
文なし横丁の人々 A Kid for Two Farthings(1955)
空中ぶらんこ Trapeze(1956)
鍵 The Key(1958)
ハバナの男 Our Man in Havana(1960)
逃げる男 The Running Man(1963)
華麗なる激情 The Agony and the Ecstasy(1965)
オリバー! Oliver!(1968)
最後のインディアン Flap(1970)
フォロー・ミー Follow Me!(1972)


リード(Sir Herbert Read)
りーど
Sir Herbert Read
(1893―1968)

イギリスの詩人、批評家。批評活動は社会、美術、文学など諸分野にわたり、イギリス・ロマン主義研究および美術史の業績でも知られる。ヨークシャーの農家に生まれ、郷土の生活は後の戦争体験とともに決定的役割を果たした。リーズ大学に学び、エジンバラケンブリッジなどの大学で美術講座を担当、1953年ナイトを受爵。『詩集』(1926)、唯一の小説『グリーン・チャイルド』(1935)、自叙伝『無垢(むく)と経験の記録』(1940)はいずれも幼年期体験の結晶。戦争体験を反映する詩『ある戦争の終わり』(1933)は、国家と個人、運命と神を論じる注目すべき作品。そのなかの一節、「最終的な神の恩寵(おんちょう)が、一羽の鳩(はと)が/天から降りてきて心を目覚ませるまでは疑う」が彼の根本思想で、自ら「私は政治的にはアナキスト、宗教的には無神論者、文学的にはロマン主義者」と宣言した。美術評論には高名な『芸術の意味』(1931)、『今日の芸術』(1933)、『インダストリアル・デザイン』(1934)、『芸術による教育』(1943)のほか、『モダン・アートの哲学』(1952)、『イコンとイデア』(1955)、『彫刻の芸術』(1956)、『芸術形式の起源』(1965)などがある。

[河村錠一郎]

『相良幸一著『ハーバート・リード研究』(1971・研究社出版)』『北条文緒訳『ハーバート・リード自伝――対蹠的な経験』(1970・法政大学出版局)』『滝口修造訳『芸術の意味』(1958・みすず書房)』


リード(John Reed)
りーど
John Reed
(1887―1920)

アメリカのジャーナリスト、詩人。ハーバード大学卒業後、数冊の詩集を出版。雑誌『ザ・マッセズ』に加わり、メキシコに渡って革命家たちと寝食をともにし、『反乱するメキシコ』(1914)を書き名声を得た。第一次世界大戦中に渡欧し、ロシアでボリシェビキの指導者たちと親交を結び、十月革命を目撃して『世界をゆるがした十日間』(1919)を著す。帰国して共産主義労働党の結成にあたったのち再度ロシアへ。チフスのためモスクワで客死、クレムリンに葬られた。ほかに『赤いロシア』(1919)などの著作がある。

[寺門泰彦]

『小笠原豊樹・原暉之訳『世界をゆるがした十日間』(1977・筑摩書房)』『野田隆・野村達郎・草間秀三郎訳『反乱するメキシコ』(1982・筑摩書房)』


リード(Thomas Read)
りーど
Thomas Reid
(1710―1796)

イギリスの哲学者。スコットランドアバディーンに生まれ、同市のマリシャル・カレッジに学び、同大学およびグラスゴー大学教授を歴任。イギリス啓蒙(けいもう)哲学の派であるスコットランド常識学派の創始者で、イギリス経験論、とくにヒュームの懐疑的帰結に反対し、常識と伝統的諸学と宗教とを擁護した。彼はまずデカルトからロックが、そしてロックからヒュームが継承した、知識の対象を心の内部の観念だとする根本前提自体を批判する。

 さらに、単純観念でなく判断を知識の基本的単位と考え、感覚作用にも判断は含まれ、イギリス経験論は知覚の論理的単位を認識発生の直接所与と混同していることを指摘する。人間には習慣でなく、本源的な常識の諸原理が共通にあり、それによって観念間の関係や外界存在への確信が与えられ、論理学、数学、形而上(けいじじょう)学、倫理学などの必然的真理が示唆されると考える。主著に『常識の原理に基づく人間精神の探究』(1764)、『人間の知力についての試論』(1785)など。

[杖下隆英 2015年7月21日]


リード(気鳴楽器の発音体)
りーど
reed 英語
Rohrblatt ドイツ語
Blatt ドイツ語
Zunge ドイツ語
anche フランス語
ancia イタリア語

気鳴楽器の発音体の一種。舌(した)または簧(した)と訳される。葦(あし)、竹、木、金属などでつくられた弾力性に富む薄片で、おもに管楽器の歌口にはめ込んで吹奏される。リードは一般に次のように分類される。(1)打簧(だこう)beating r. オーケストラの木管楽器のリードに代表されるもので、これには、1枚のリードが管の内側やベックを小刻みにたたくようにして振動する単簧(シングルリード)と、2枚のリードが相互に打ち合うように振動する複簧(ダブルリード)とがある。クラリネットサクソフォーン、パイプ・オルガンのリード管などは単簧の代表、オーボエ、ファゴット、篳篥(ひちりき)、チャルメラなどが複簧の代表といえる。これらの多くは葦からつくられるが、その材質や作製、調整は製作者や奏者の重要課題となっており、一般に仕上げの削りは奏者に任される。(2)自由簧(フリーリード) リードが周縁に触れずに自由に往復して振動するリード。金属製のものが多く、それ自体が発音源となるのでかならずしも管を必要としない。笙(しょう)、アコーディオン、ハーモニカ、リード・オルガンなどに応用されている。

[川口明子]


リード(Carveth Read)
りーど
Carveth Read
(1848―1931)

イギリスの哲学者。ケンブリッジ大学、ドイツのライプツィヒ、ハイデルベルク両大学に学び、ロンドン大学教授となる。イギリス経験論、とくにミルの伝統にたって思索。論理を事実にかかわる学と考え、意識を主客の別が相関的にそこから生まれる唯一の実在とみ、絶対的実在も意識を離れてはありえぬ可能的可感体とみる。倫理学では自己完成説と功利主義の折衷的傾向をみせる。著書に『論理学論』(1878)、『演繹(えんえき)的・帰納的論理』(1898)、『自然的・社会的道徳』(1909)、『人間とその迷信の起源』(1920)など。

[杖下隆英 2015年7月21日]


リード(Charles Reade)
りーど
Charles Reade
(1814―1884)

イギリスの小説家。オックスフォード大学のモードリン学寮に学び、特別研究員となった。リンカーン法学院で弁護士の資格を得たが開業せず、最初劇作に手を染め、のち小説に転じ、『改むるにはばかるなかれ』(1856)では監獄の、『現金』(1863)では精神科病院の害悪を攻撃し、『悪だくみ』(1869)では船舶保険を扱うなど、時事的問題や社会批判を取り込んだ作品を書いたが、今日では宗教改革時代の歴史ロマンス『僧院と炉辺』(1861)で記憶される。

[佐野 晃]


リード(William Ried)
りーど
William Ried
(1791―1858)

イギリスの気象学者、陸軍工兵中佐。熱帯暴風の風系について研究し、1836年、反時計回りの渦であることを明らかにした。南半球の暴風についても調査し、北半球とは反対に時計回りの渦になっていることを実証した。また、これらの暴風系がほぼ放物線を描いて移動することも解明している。

[根本順吉]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リード」の意味・わかりやすい解説

リード
Read, Sir Herbert

[生]1893.12.4. ヨークシャー,カービームーアサイド
[没]1968.6.12. モールトン
イギリスの詩人,芸術評論家。銀行勤めののちリーズ大学に入学。第1次世界大戦に従軍,戦後ビクトリア・アンド・アルバート美術館に勤務し,美術批評を始めた。 1931年エディンバラ大学教授,53~54年ハーバード大学教授。詩人として出発し,『裸の戦士』 Naked Warriors (1919) 以下の詩集を出すかたわら,『ワーズワス』 Wordsworth (30) ,『感情の真実の声』 The True Voice of Feeling (53) などの評論でロマン主義研究に新生面を開いた。美術批評,芸術学の領域ではフロイト,ユング,ウォリンガーの影響を受け,美学的にはクローチェの影響を受けたが,インダストリアル・デザインや芸術教育の領域をも含めて造形美術全般にわたってすぐれた研究を示している。主著『芸術の意味』 The Meaning of Art (31) ,『芸術と社会』 Art and Society (36) ,『詩とアナーキズム』 Poetry and Anarchism (38) ,『芸術による教育』 Education Through Art (43) ,『モダン・アートの哲学』 The Philosophy of Modern Art (52) ,『イコンとイデア』 Icon and Idea (55) 。

リード
Reed, Walter

[生]1851.9.13. アメリカ,バージニア,ベルロイ
[没]1902.11.23. アメリカ,ワシントンD.C.
アメリカの陸軍軍医。メソジスト派牧師の子に生れ,1870年ベルビュー医科大学で学位を取得。 75年軍医となり細菌学を研究,93年少佐でワシントンの陸軍軍医学校教授。 98年のアメリカ=スペイン戦争の際には腸チフス防疫団の委員となり,次いで 1900年キューバで黄熱が流行したため,調査団長として現地におもむき,従来の細菌感染説を否定,団員 J.ラジアの自己犠牲による実験でカで伝播されることを証明し,黄熱の防疫法を確立した。また 01年には磁器ろ過器を通る病原の存在を発見した。その業績をたたえて,ワシントン D.C.にウォルター・リード陸軍病院が設立された。

リード
Reed, John

[生]1887.10.22. オレゴン,ポートランド
[没]1920.10.19. モスクワ
アメリカのジャーナリスト,社会主義者。ハーバード大学卒業後,1917年に左翼系雑誌『マッセズ』の編集員となってから社会主義への道を歩み始め,メキシコ革命や第1次世界大戦で優れた報道活動を行なった。 1917年ロシアに入り,十月革命をつぶさに目撃,ルポルタージュ文学の傑作『世界をゆるがした十日間』 Ten Days that Shook the World (1919) を生んだ。レーニンの友人となり,アメリカ共産党の結成に携わったが,アメリカでは歓迎されず,旅行中チフスに感染してモスクワで急死。遺体はレーニンらの哀悼のうちにクレムリンに埋葬された。死後アメリカ各地に左翼の作家,芸術家の団体「ジョン・リード・クラブ」が結成された。

リード
Reed, Willis

[生]1942.6.25. ルイジアナ,ハイコ
アメリカ合衆国のバスケットボール選手,監督。グランブリング州立大学在学中の 1961年,全米大学バスケットボール選手権大会で優勝した。 1964年NBAのニューヨーク・ニックスに入団。同 1964年に1試合平均 19.5得点を上げて最優秀新人賞を受賞。 1970年ニックスは NBAファイナルで優勝し,シーズン最優秀選手 MVP,ファイナル MVP,オールスターゲーム MVPを獲得,同一シーズンに三つのカテゴリーで MVPをとった最初の選手となった。生涯通算得点1万 2183点,リバウンド 8414本の記録を残し,1974年引退。 1977~79年ニックスの監督を務めた。 1982年ネイスミス記念バスケットボール殿堂入り。

リード
Reade, Charles

[生]1814.6.8. オックスフォードシャー,イプスデン
[没]1884.4.11. ロンドン
イギリスの小説家。オックスフォード大学,次いで法学院に学ぶ。熱心な社会改革論者であり,『仮面と素顔』 Masks and Faces (1852) などの劇作ののち,『改むるにはばかるなかれ』 It Is Never Too Late to Mend (56) ,『現金』 Hard Cash (63) ,『反則』 Foul Play (69) ,『彼に代われ』 Put Yourself in His Place (70) などのプロパガンダ小説を書いた。代表作は,エラスムスの父を主人公にした歴史小説『僧院と家庭』 The Cloister and the Hearth (61) 。

リード
Reed, Sir Carol

[生]1906.12.30. ロンドン
[没]1976.4.25. ロンドン
イギリスの映画監督。 1936年以後ドキュメンタリー作品を手がけていたが,第2次世界大戦後はサスペンス,ミステリー物が多い。イギリス・ドキュメンタリーの伝統とヒッチコックのサスペンス・ミステリーを継いだ作風が特徴。主作品『邪魔者は殺せ』 Odd Man Out (1947) ,『落ちた偶像』 The Fallen Idol (48) ,『第三の男』 The Third Man (49) ,『オリバー!』 Oliver! (68,アカデミー監督賞) 。

リード
Reed, Thomas Brackett

[生]1839.10.18. メーン,ポートランド
[没]1902.12.7. ワシントンD.C.
アメリカの政治家。 1865年よりポートランドで弁護士を開業し,68年メーン州下院議員となる。 70年同州上院議員。 77年共和党から連邦下院に初当選。以来 99年まで連邦下院議員をつとめた。 86~89年共和党院内総務,89~91,95~99年連邦下院議長。多数党による議会運営,委員会制度の拡充など下院の議事運営について数多くの重要な改革を実施した。多くの反対を押切って改革を推進したため「皇帝リード」とあだ名された。 99年キューバとハワイに対する膨張政策に反対し共和党を離れ,ニューヨークに戻って弁護士業と著述に専念した。

リード
Reid, Thomas

[生]1710.4.26. ストラチャン
[没]1796.10.7. グラスゴー
イギリスの哲学者,常識哲学の創始者。アバディーン大学の道徳哲学教授を経て,1764年 A.スミスの跡を継いでグラスゴー大学教授。ロックやバークリーの影響を受け認識批判から出発し,特にヒュームの認識論を研究。主著『常識の原理に基づく人間精神の研究』 Inquiry into the Human Mind on the Principles of Common Sense (1764) 。

リード
Read, George

[生]1733.9.18. メリーランド,セシル
[没]1798.9.21. デラウェア,ニューカッスル
アメリカ独立革命期の政治家。独立宣言署名者の一人。デラウェア植民地で法律家として活躍。大陸会議代表 (1774~77) 。 1776年デラウェア新憲法を起草,その批准会議議長をつとめた。 87年合衆国憲法制定会議代表として小州のために努力。 89~91年連邦上院議員。 93年以後はデラウェア州最高裁判所長官。

リード
Reed, Joseph

[生]1741.8.27. ニュージャージー,トレントン
[没]1785.3.5. フィラデルフィア
アメリカの軍人,政治家。初めフィラデルフィアで法律家となった。 1774年同市通信連絡委員会メンバーとなり,イギリスとの和解派から独立派へ移行。 G.ワシントンが大陸会議で総司令官に任命されるとその副官として活躍。 77~78年大陸会議代表,78~81年ペンシルバニア行政会議議長。

リード
Reid, Whitelaw

[生]1837.10.27. オハイオ
[没]1912.12.15. ロンドン
アメリカのジャーナリスト,外交官。南北戦争および戦後の南部の報告『戦後』 After the War (1866) を著わした。『ニューヨーク・トリビューン』紙などの編集主幹をつとめ (1872~1905) ,イギリス大使にも任じられた (1905~12) 。

リード
Lead

アメリカ合衆国,サウスダコタ州西部の町。ブラックヒルズ (山地) 北部に位置し,1876年金鉱の発見によってできた町。世界最大の金鉱の一つであるホームステーク鉱山がある。採鉱とそれに関連した産業を主とし,牧畜,林業,観光などが市の経済に貢献している。人口 3632 (1990) 。

リード
Ried, Benedikt

[生]1454
[没]1534
チェコスロバキアの建築家。ボヘミア地方,特にプラハを中心に活躍し,後期ゴシック様式の建築物を多く手がけた。主作品はブラチスラバ・ホール (1493~1502) 。

リード
Reid, Thomas Mayne

[生]1818
[没]1883
アイルランド出身のイギリスの小説家。代表作『首のない騎手』 The Headless Horseman (1866) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報