1883年フランスとベトナム(阮(げん)朝=グエン朝)の間に結ばれた条約。フエ条約ともいう。1874年の第二次サイゴン条約の内容は、トンキンにおけるフランスの独占的な地位を保障するものではなく、また黒旗軍などの中国人勢力の存在はフランス側の不満を募らせていた。1882年コーチシナ総督にトンキンの制圧を命ぜられたアンリ・リビエールは、4月にハノイを攻略、ついでナムディンなどを占領した。しかし彼は翌1883年5月ハノイ郊外で、ベトナム官軍と黒旗軍の連合軍に敗れ戦死した。フランス本国は、1873年のトンキン事件当時とは異なって植民地拡張積極策に転じていたので、ただちにブーエ陸軍大将とクールベ提督の増援軍をベトナムに派遣。フランス軍は1883年8月にフエ(ユエ)を攻撃した。7月の嗣徳(ツードック)帝の病死によって混乱していたフエ朝廷は、8月25日駐在文官ジョセフ・アルマンHarmandとの間にフエ条約を結んだ。これによってフランスは、ベトナムに対する保護権と外交関係の管理権、トンキンにおける行政権、ビントゥアン省の割譲などを、ベトナム側に認めさせた。この条約は、翌1884年の第二次フエ条約(パトノートル条約)によって修正、補強された。しかし他方では、このようなフランスの積極策は、ベトナムに対する宗主権を主張する中国清(しん)朝との抗争を激化させ、清仏(しんふつ)戦争を引き起こすに至った。
[白石昌也]
『桜井由躬雄・石沢良昭著『東南アジア現代史Ⅲ』(1977・山川出版社)』
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…これによってベトナムはフランスの保護国となり,トゥーラン(現,ダナン)など3港が開港され,フランス軍による黒旗軍の駆逐が公認された。これを第1次フエ条約(アルマン条約)という。しかし北部の官吏はこれを認めず,清も大兵を派遣して黒旗軍とともにフランスに対抗したため,フランスは北部全域の完全占領を行い,他方84年6月パトノートルはフエで実力者グエン・バン・トゥオン(阮文祥)との間に第2次フエ条約19ヵ条(パトノートル条約)を結んだ。…
※「アルマン条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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