1884-85年の間,ベトナムに対する宗主権を主張する清と,これを植民地化しようとするフランスとのあいだでおこなわれた戦争。中国では〈中法戦争〉と呼ぶ。アジアにおける植民地獲得競争でイギリスによってインドから締め出されたフランスは,ナポレオン3世の治世以来,積極的なインドシナ政策を推し進め,その橋頭堡としてベトナムの支配に乗り出した。1862年の第1次サイゴン条約についで,74年の第2次サイゴン条約によってフランスがベトナムを実質上保護領化すると,清は宗主権を主張してフランスに抗議した。82年,劉永福の率いる黒旗軍がソンコイ川流域の鉱山を調査していたフランス隊を妨害したとの口実でフランスはハノイを占領し,清もこれに対抗して北ベトナムへ出兵した。この紛争は84年(光緒10)5月,天津において北洋大臣李鴻章と海軍中佐フランソア・エルネスト・フルニエとのあいだで協定(李=フルニエ協定)が調印されて解決したかにみえたが,協定の撤兵に関する条項が不備であったため,同年6月に再び両国は武力衝突した。いわゆる清仏戦争はここに始まるが,国際法上は最後まで宣戦されない戦争であった。
この戦争で両国は北ベトナムで戦ったが,同時にフランス艦隊は台湾の基隆(キールン)を攻撃し,馬江の福州艦隊を壊滅させ,また澎湖島を占領した。当時,清内部では主戦論と和平論が対立していたが,結局北京政府は講和を望むようになった。ここに総税務司ロバート・ハートが仲介にのりだし,総税務司のロンドン局長ダンカン・キャンベルにフランス政府との秘密交渉を命じた。その結果,85年4月に李=フルニエ協定を確認するパリ議定書が作成され,それに基づいて同年6月に天津でフランス公使パトノートルと李鴻章との交渉がおこなわれ,同月9日に全文10ヵ条から成る天津条約が締結されて戦争は終結した。
この条約で清は間接的にベトナムに対する宗主権を放棄し,ここに伝統的朝貢体制の一角が崩された。また,内政面では従来の洋務運動に対してその限界が痛感され,変法論(戊戌変法)の台頭を促した。他方,フランスはベトナム支配をより確固にし,仏領インドシナ連邦の成立に向けて大きく前進したのである。
執筆者:井上 裕正
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ベトナムの支配権をめぐる,清国とフランスとの1884年7月~85年6月の戦争。ベトナムは清国と藩属関係にあったが,フランスは38年のフランス人宣教師殺害および57年のスペイン人宣教師殺害を理由に,スペインと連合して58年からベトナム侵略を始めた。62年,第1次サイゴン条約を結んでコーチシナ南部3省を奪い,さらに74年,第2次サイゴン条約を結んでベトナムを保護国にした。その後清国の抗議によって,82年フランスはいったん保護権を取り消し,ベトナムの独立を認めたが,83年には一転して遠征軍を増派してベトナム政府に迫り,アルマン条約を結んでフランスの保護権を承認させ,さらにトンキンの武力占領を企てた。これに対して清国は積極的な対抗手段をとらず,84年5月には清国の譲歩によって妥協の動きもあったが,6月国境付近で清仏両軍の衝突が起きた。フランスはこれを清国に対する開戦の口実とし,海軍をもって台湾,福州を攻撃したので,9月清国も宣戦を布告した。清国はフランス海軍に台湾を封鎖され,澎湖(ほうこ)諸島を占領されたが,広西から進出した清軍は善戦してしばしばフランス軍を破った。しかし,85年1月からイギリスの調停によって講和交渉が進められ,6月,李鴻章(りこうしょう)とフランス全権パトノートルの間で天津条約が調印された。この条約で,清国はベトナムに対する宗主権を放棄してフランスの保護権を認め,さらに清国南部数省における通商,鉄道建設に関する特権をフランスに与えた。
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ベトナムの宗主権をめぐって、中国とフランスの間に1884年6月~85年6月にかけて行われた戦争。フランスは1862年以降、南部ベトナムを占領、植民地化したが、82年、北部利権の確保を目的として、H・リビエールを派遣、ハノイを占領した。1883年、劉永福(りゅうえいふく)に率いられた黒旗軍はリビエールを倒し、フランス軍を駆逐した。フランスのフェリー内閣は強硬政策に転じ、フエ(ユエ)に派兵してアルマン条約を強制し、フランス保護権の設定、黒旗軍の否認、駆逐を約束させた。ベトナムの宗主国清はこれに対し、黒旗軍の指導者、劉永福を越南東京(トンキン)(ベトナム北部)経略大臣とする一方、大兵を北部に派遣した。フランス軍はこれを駆逐して北部一帯を占拠したため、李鴻章(りこうしょう)は1884年5月、天津(てんしん)協定を結んで北部からの撤兵を約束した。しかし6月、中越国境に近いバクレで清軍はフランス軍を大敗させた。フランスはこれを口実に、8月、クールベ提督をして福州の清国南洋艦隊を壊滅させ、さらに台湾を封鎖した。その一方で、清軍は中越国境でフランス軍占拠地を奪回し、善戦を繰り返した。1885年3月、クレマンソー内閣の成立とともに和議が進み、6月、李鴻章とパトノートル間に清仏天津条約が締結された。これにより、清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権を認め、また雲南を開放した。しかし、ベトナムの民族派官人はこれに対し、咸宜(かんぎ)帝(ハムギ帝)を擁して1888年まで抵抗を続けた。清仏戦争はフランス帝国主義政策の端緒をなしたとともに、清の無力を暴露、民衆レベルの反帝国主義闘争を活発化させる因をつくった。
[桜井由躬雄]
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…一方フランスも1866年からメコン川経由で雲南に至る通商路の調査を始め,その後仏商ジャン・デュピュイはソンコイ川経由で武器や塩を雲南に運んだ。74年サイゴン条約でフランスがベトナムを保護領化すると,ベトナムに対する宗主権を主張する清朝はこれに反発し,84年の清仏戦争に至った。清朝軍と劉永福の黒旗軍はベトナム北部に進軍するが,後に戦線は拡大し,フランス軍はソンタイ,基隆(キールン),馬江で清軍を破り,85年パトノートル公使と李鴻章は天津条約を結んだ。…
※「清仏戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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