アントニオ猪木(読み)アントニオイノキ

デジタル大辞泉 「アントニオ猪木」の意味・読み・例文・類語

アントニオ‐いのき〔‐ゐのき〕【アントニオ猪木】

[1943~2022]プロレスラー・政治家神奈川の生まれ。本名、猪木寛至かんじ。新団体「新日本プロレス」を立ち上げるなどプロレス界を牽引し、ジャイアント馬場人気を二分。モハメド=アリとの異種格闘技戦は大きな話題となった。後年国会議員としても活躍した。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アントニオ猪木」の意味・わかりやすい解説

アントニオ猪木
あんとにおいのき
(1943―2022)

昭和・平成期のプロレスラー。本名・猪木寛至(かんじ)。昭和18年2月20日、横浜市鶴見区で猪木家の9番目の子供として生を受ける。1957年(昭和32)2月に一家でブラジルへ移住し、コーヒー園で重労働に従事するかたわら、陸上競技の砲丸投げ円盤投げで多くの記録を残す。1960年4月、ブラジルに遠征中の力道山サンパウロでスカウトされ、4月10日に帰国し、17歳でプロレス界に入門。同時期に入門した馬場正平(しょうへい)(ジャイアント馬場)、2年前に韓国を脱国して力道山門下に入っていた金一(キムイル)(1929―2006。大木金太郎)と共に若手三羽烏(さんばがらす)とよばれて、早くから将来を嘱望された。1964年3月、力道山死後にプロレスリングの本場アメリカに武者修行の旅に出て、約2年間主要テリトリーで実績を積む。1966年3月、日本プロレスに凱旋(がいせん)帰国する途上で兄貴分だった豊登(とよのぼり)(本名・定野道春。1931―1998)に勧誘され、新団体の「東京プロレス」に参加。エースとして活躍したが豊登のずさんな経営で団体は長続きせず、1967年4月に日本プロレスに復帰。その後は馬場との「BI(ビーアイ)コンビ」で日本プロレスの看板選手となった。1971年3月には人気女優の倍賞美津子(ばいしょうみつこ)(1946― )と婚約するなど、スポーツ界、芸能界の両方から注目される存在となる。

 1971年12月、日本プロレス内部の経理不正問題に巻き込まれて日本プロレスを退団。翌年1月に新会社「新日本プロレス」を結成して3月6日に旗揚げ興行を行った。1973年4月に日本プロレスから坂口征二(せいじ)(1942― )が合流し、NETテレビ(現、テレビ朝日)が毎週金曜日に放送を開始してからは興行成績、視聴率共に安定し、それまでタブーとされていた大物日本人レスラーとの対決を次々に実現するなど、日本のプロレス人気をつねにリードした。1973年12月、アメリカの五大湖地区で権威のあったNWF世界ヘビー級選手権を獲得し、団体の看板タイトルとして定着させた。1976年6月26日、日本武道館で当時のプロボクシング世界ヘビー級王者だったモハメド・アリとの異種格闘技戦を実現し、15ラウンド引き分けに終わったものの世界的な話題をよび、知名度を国際的なものにアップさせた。

 その後も異種格闘技戦の路線を継続するとともに、プロレスでもアメリカの既存メジャー団体を超えた「IWGP(インターナショナル・レスリング・グラン・プリ)構想」を発表してタイトル化するなど、現在の新日本プロレス隆盛につながる基盤を構築した。

 1989年(平成1)7月、参議院議員選挙に立候補し当選。プロレスラーとして初めての国会議員となり、2019年6月まで合計2期(12年)の重責を全うした。プロレスラーとしては1998年4月4日、東京ドームに7万人を集めて引退試合を行い55歳で引退。以降はプロレスと政界で築いた独自の外交ルートを生かして、北朝鮮をたびたび訪問するなど各方面で活躍した。令和4年10月1日、難病「心アミロイドーシス」のため死去。

[流 智美 2022年11月17日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「アントニオ猪木」の解説

アントニオ猪木 アントニオ-いのき

1943- 昭和後期-平成時代のプロレスラー。
昭和18年2月20日生まれ。35年移住先のブラジルで力道山にスカウトされる。47年新日本プロレスを設立して,ジャイアント馬場に対抗。ボクシングのモハメッド=アリらとの異種格闘技戦をおこなう。平成元年参議院議員(スポーツ平和党)。10年プロレスラーを引退。25年参議院議員に2度目の当選(日本維新の会)。神奈川県出身。本名は猪木寛至。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「アントニオ猪木」の解説

アントニオ猪木 (あんとにおいのき)

生年月日:1943年2月20日
昭和時代;平成時代の格闘技プロデューサー;元・プロレスラー

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアントニオ猪木の言及

【プロレス】より

…力道山は62年に日本人で初めてWWA世界チャンピオンになったが,63年に不慮の死を遂げた。その後一時低迷したが,元プロ野球巨人軍投手で身長2.09mの巨漢ジャイアント馬場の登場,さらにアントニオ猪木の台頭,元柔道日本一の坂口征二の転向などによって人気を挽回した。72年にアントニオ猪木が新日本プロレスを,ジャイアント馬場が全日本プロレスを結成し,以後は2団体を中心とした時代へ移行した。…

※「アントニオ猪木」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android