神奈川(読み)かながわ

精選版 日本国語大辞典 「神奈川」の意味・読み・例文・類語

かながわ かながは【神奈川】

[一] 神奈川県横浜市の地名。もと東海道五十三次の三番めの宿駅で、商港としてもにぎわった。狩野川。かぬ川。金川。
[二] 横浜市の行政区の一つ。昭和二年(一九二七)成立。海岸は京浜工業地帯の一中心。

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デジタル大辞泉 「神奈川」の意味・読み・例文・類語

かながわ〔かながは〕【神奈川】

関東地方南西部の県。もとの相模さがみ全域と武蔵の一部にあたる。県庁所在地横浜市。人口905.0万(2010)。
横浜市の区名。横浜港に面する。東海道五十三次の一。神奈川条約日米和親条約)締結の地。

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改訂新版 世界大百科事典 「神奈川」の意味・わかりやすい解説

神奈川[県] (かながわ)

基本情報
面積2415.86km2(全国43位) 
人口(2010)=904万8331人(全国2位) 
人口密度(2010)=3745.4人/km2(全国3位) 
市町村(2011.10)=19市13町1村 
県庁所在地=横浜市(人口=368万8773人) 
県花=ヤマユリ 
県木=イチョウ 
県鳥=カモメ

関東地方南西部の県。北は東京都に隣接し,西は山梨・静岡両県に接する。南は東京湾,相模湾を経て太平洋に臨む。

明治初年までの相模国と武蔵国の南東部にあたり,幕末には相模国に小田原藩荻野山中藩,武蔵国に金沢藩が置かれたほか,天領,旗本領,寺社領,飛地が混在していた。1868年(明治1)神奈川奉行所に代わって神奈川裁判所が置かれ,神奈川府,神奈川県と改称,天領などは韮山(にらやま)県に属し,翌年金沢藩は六浦(むつら)藩と改称した。71年廃藩置県をへて相模国は伊豆国とともに足柄県に,他は神奈川県に統合された。76年足柄県が廃されて旧相模国は神奈川県に編入され,93年三多摩が東京府に移管し,1912年現在の県域が確定した。

先縄文文化の遺跡は,近年かなり発見されており,北関東から信州にかけての文化の影響の強いことがわかっている。月見野遺跡群(大和市)では立川ローム層中に13枚の文化層が把握され,各文化層中の礫群(れきぐん)と石器の集中地点の分析から,この期の遺跡を理解するための方向が示されたことで重要である。しかし,本県はなんといっても縄文文化,とりわけ早期の標式遺跡や代表的遺跡が多く,その編年を確立した県といってよい。その中でも早期初頭の夏島貝塚(横須賀市)が著名である。同じ撚糸文系土器でも井草・大丸式に後続する夏島式土器の存在が確認され,炭素14法によりその貝層の年代が9240±500年B.P.と測定された。しかしこの年代がそれまで一般に信じられていた早期の年代より2000~4000年も古く,土器としては世界最古となることからその後の論議を呼んだ。このほか大丸遺跡(横浜市南区),大浦山遺跡(三浦市),平坂貝塚(横須賀市),三戸遺跡(三浦市),田戸遺跡(横須賀市),子母口(しぼくち)遺跡(川崎市高津区),野島貝塚(横浜市金沢区),鵜ヶ島台(うがしまだい)遺跡(三浦市),茅山(かやま)貝塚(横須賀市)など早期の遺跡は多く,しかもそのほとんどが重要な標式遺跡である。なお,平坂貝塚からは人類学上貴重な早期の人骨が発見されている。菊名貝塚(横浜市港北区・鶴見区),折本貝塚(横浜市都筑区),諸磯(もろいそ)貝塚(三浦市),南堀(なんぼり)貝塚(横浜市都筑区),十三菩提(じゆうさんぼだい)遺跡(川崎市宮前区)などは前期の代表的な遺跡で,なかでも南堀貝塚は,1955年に貝塚を伴う集落の全貌を明らかにした点で画期的な調査が行われた。五領ヶ台貝塚(平塚市)は中期初頭の,勝坂(かつざか)遺跡(相模原市南区)は中期前半中ごろの,称名寺(しようみようじ)貝塚(横浜市金沢区)は後期初頭のそれぞれ標式遺跡である。晩期では杉田遺跡(横浜市磯子区),桂台遺跡(横浜市栄区)がある。

 弥生文化では,三殿台(さんとのだい)遺跡(横浜市磯子区)で,150にものぼる住居址からなる集落が調査されている。吾妻山遺跡群(横浜市都筑区)は,弥生中期後葉の宮ノ台期の環溝集落址(住居址約90)である大塚遺跡と,その墓地(方形周溝墓25)と考えられる歳勝土(さいかちど)遺跡からなる。前者は防御施設の色彩が濃く,当時のこの地域における農耕の定着と進行に伴う集団間の対立,階層分化など社会状況を反映している。朝光寺原(ちようこうじばら)遺跡(横浜市青葉区)も弥生後期中葉を中心とする東国屈指の大集落である。このほか毘沙門(びしやもん)洞穴(三浦市),間口洞穴(三浦市)など三浦半島南端の海食洞穴に弥生中期から古墳時代にかけての漁労活動を示す遺跡が残されている。

 古墳時代では前方後方墳の真土大塚山(しんどおおつかやま)古墳(大塚山古墳,平塚市),4世紀後半の前方後円墳,白山古墳を中心とする日吉加瀬古墳群(川崎市幸区),6~7世紀の横穴式石室をもつ登尾山(とおのやま)古墳(伊勢原市)などの高塚古墳,市ヶ尾横穴群(横浜市青葉区)などの横穴墓群も多い。
相模国 →武蔵国

1192年(建久3)源頼朝が鎌倉に幕府を開き武家政治を確立して以来,この県はその時代の先駆けとなったことが多い。鶴岡八幡宮を中核とした都市鎌倉の繁栄のさまは今日でもうかがい知ることができる。戦国期に入って一時衰微した相模国も,小田原北条氏の活躍を基として,近世期には小田原に城下町が成立し,繁栄をとり戻した。幕末期に入り,1859年(安政6)に運上所(のちの横浜税関)が設けられ,横浜が日本の玄関として開港された。欧米の文物は横浜港から入るようになり,文明開化の先駆けとなった。横浜は59年の開港時には戸数101,人口350人の寒村であったが,その後急速に発展し,72年東京~横浜間に鉄道が開通すると名実ともに日本の玄関口となった。当時,横浜貿易の本命であった生糸取引の盛衰が横浜経済の消長をあらわし,神奈川県の経済を象徴していた。第2次大戦後,戦災とその後のアメリカ軍の接収により,その機能の大半を喪失した横浜港も,その後の復興と日本経済の高度成長に支えられ,山下埠頭,本牧埠頭の造成が続き,日本一の大貿易港の地位を取り戻している。貿易品目も背後の京浜工業地帯の展開によって,工業原料,エネルギー資源の輸入と工業製品の輸出へと変わっている。また軍港としての横須賀,近代重化学工業の先駆けとしての川崎なども歴史上重要な役割を果たしたといえよう。

県の北西部に丹沢,箱根の山地が,中央部に相模川をはさんで台地と低地があり,東部には多摩川以南の多摩丘陵が南へ延びて,三浦半島となっている。南西部の箱根山(1438m,神山)は三重式の火山で,カルデラ内には芦ノ湖や仙石原などがあり,かつて天下の険といわれたこの山も,今では自動車専用道路が縦横に走り,多くの温泉群と合わせて日本の代表的な観光地となっている。北西部の丹沢山地は蛭ヶ岳(ひるがたけ)(1673m),丹沢山(1567m),塔ヶ岳などを主峰として,県の屋根と呼ばれ,平野部からみると高山性の沢すじをもち,沢登りの登山者も多い。その前山である大山は,山頂に阿夫利神社がまつられ,雨乞いの神として多くの農民の信仰を集めてきた。県央部には相模川を挟んで,中流部に相模原中津原の台地,下流部には低地が開け,相模湾岸は砂丘地となっている。相模川は,1887年に完成した日本最初の洋式水道である横浜水道以来,県民の都市用水,工業および農業用水の重要な役割を果たし,水系には相模湖(1947),津久井湖(1965)も造成された。3段の台地からなる相模原は,水利が悪かったため江戸中期に開発が始められ,畑作が営まれたが,明治期には広く桑畑となり,第2次大戦期には軍事的利用が進み,戦後もアメリカ軍の使用が続いた。1950年代から大規模な畑地灌漑施設が開設されたが,その後の経済成長期には北部では工業開発が,南部では住宅地化が進行した。相模川下流の低地は県内で最も広い水田地帯であったが,農業も多くは施設園芸に変わっている。相模川下流部西方に大磯丘陵があり,その西辺は直線状に足柄(小田原)平野に接する。大磯丘陵の北辺には典型的な扇状地地形がみられる秦野(はだの)盆地があり,古くからタバコ栽培で知られたが,現在はカーネーションなどの花卉園芸が盛んである。県東部の多摩丘陵(標高40~100m)は,近年急速に開発が進み,そのほとんどが都市化している。東京湾と相模湾とを分けて南方に突出した三浦半島は,とくに相模湾岸に自然の景勝地が残り鎌倉,逗子,葉山と並ぶ半島北西部は,西へ続く藤沢,茅ヶ崎,平塚,大磯とともに湘南海岸地域を形成している。この地域は北に山を負い南は海に面して,冬暖かく夏も涼しいしのぎやすい気候で,明治期以来別荘地,保養地として開発されたが,現在は一般住宅地化が著しい。

県の北西部に山地があることから,県域の40%が森林で,台地,低地も工業地域化,住宅地化が著しいため経営耕地面積は8%にすぎない。また,就業者の産業別人口比(1995)では第1次産業は1.3%にすぎず,第2次産業の34.7%,第3次産業の63.3%に比べてはるかに低い。第1次産業の中で農業は京浜の大都市地域をひかえるため都市近郊型で,1995年の粗生産額の比率は,野菜46%,畜産28%,花卉7%,果実9%となっている。近年は,米とミカンの生産調整による減少,施設園芸によるキュウリ,トマトなどの作付面積の増加が目だっている。また古くから沿岸で水産業が営まれ,とくに三浦半島南端の三崎は遠洋漁業の基地として,大正から昭和前期にかけては日本の代表的な漁港であったが,近年は三崎漁港の水揚高は減少の一途をたどっている。

県の産業を代表する工業では,1995年の製造品出荷額が24兆1438億円で,愛知県に次いで全国第2位,全国の7.9%を占めている。事業所当り出荷額では全国都道府県中第1位にあり,県の工業が大規模事業所で営まれることが多いことを表している。

 県の近代工業は明治初期の造船業などに端を発しているが,京浜工業地帯の中枢部をなす川崎から横浜市鶴見区にかけての東京湾岸に臨海工業地帯が確立したのは,鶴見川河口付近の埋立地が完成した昭和初期のことであった。ここに鉄鋼,セメント,電機,肥料,造船などの重化学工業地帯が成立し,第2次大戦中の軍需に支えられて充実していった。川崎市の内陸部にも原料,製品の輸送に容易な電気通信関係の工場が立地し,大戦末期の戦災で大きな損害を受けたが,朝鮮動乱を契機とした特需やその後の経済成長によって発展を続けた。臨海部では多摩川河口の延長として埋立地が造成され,浮島町には石油化学コンビナートが成立した。また京浜工業地帯の主要航路であった京浜運河の外側に扇島の大埋立地が造成され,日本鋼管の新鋭設備が並んだ。東京湾南岸では,横浜市の根岸湾岸一帯の埋立てが進み,横須賀市最北部の旧軍用地には日産自動車,さらに住友重機の大工場が立地している。

 東京湾臨海部の工場群の増加に伴い,多摩丘陵西部から相模湾臨海部にかけて,すなわち東海道本線の戸塚,大船,藤沢,茅ヶ崎,平塚,小田原の各駅周辺にも工場地を展開させていった。1955年以降の日本経済の成長期には,内陸部への交通路の整備と相まって,県央部への工場の進出はめざましく,相模原,大和,座間,海老名から,相模川を越えて厚木,伊勢原,秦野の諸都市域の工業化が進む。

江戸時代の街道として,江戸と上方を結ぶ東海道は県域を海岸沿いに走り,川崎,神奈川,保土ヶ谷,戸塚,藤沢,平塚,大磯,小田原,箱根の9宿があった。裏街道として矢倉沢往還(厚木街道,大山街道ともいう)があった。また,江戸と甲府を結ぶ甲州街道も小仏峠(現在の大垂水峠)を越えて,県域内に小原,与瀬,吉野,関野の4宿をもっていた。明治期に入り,東海道本線(1889全通)は旧東海道沿いに走り,旧東海道は国道1号線となった。また軍港であった横須賀と東京を結ぶ横須賀線が1889年大船から分岐して開通し,1908年には八王子の機業地域と横浜港を結ぶ横浜線が開通した。甲州街道沿いには中央本線が走り,甲州街道も国道20号線として整備された。第2次大戦後,64年に開通した東海道新幹線は内陸部を通過して,県内には新横浜,小田原の2駅をもち,東名高速道路は69年,中央自動車道路は82年全通している。そのほか,県域内を通過する高速道路には,首都高速道路横浜羽田線,第三京浜道路,横浜新道,横浜横須賀道路,西湘バイパス,小田原厚木道路,箱根新道などがあり,いずれも東西方向を結んでいる。こうした県の交通体系は,経済活動においても東西性が強く,本県域がすっぽりと太平洋ベルト地帯に包含されていることをあらわしている。

 また首都圏の中での神奈川県は,東京の工業地帯,住宅地の拡大に伴って衛星都市的役割を果たしてきた。第2次大戦前は川崎,横浜の市街地を飛び越えて,鎌倉,逗子,藤沢など湘南の保養地に住宅地が開発され,京浜への通勤者が増加した。大正末から昭和初期には現在のJR相模線,南武線,鶴見線,私鉄の相模鉄道,東急東横線,小田急電鉄,京浜急行電鉄など,東京から放射状に延びる鉄道網が整い,沿線からの通勤が容易になったが,戦前は県央部の宅地化はあまり進まなかった。戦後は川崎・横浜の西郊,南郊にあたる丘陵部の開発が著しく進み,渋谷から溝ノ口を経て横浜線の長津田まで通じ,さらに中央林間まで延長された東急田園都市線,桜木町駅から大船駅に通じたJR根岸線など,1970-80年代にかけても発展が続き,それらの各駅ごとに計画的な都市づくりが行われた。その他小田急の新設多摩線,京浜急行線の三崎口までの延長,相模鉄道線の支線の延長など,私鉄各線の延長が住宅地開発に拍車をかけ,県内全域が首都圏内の住宅地となっているといっても過言ではない。また97年12月には東京湾をまたいで,神奈川県川崎市と千葉県木更津市との間に東京湾横断道路が開通した。

神奈川県はその自然的,経済的条件などから6地域に分けられる。(1)京浜地域は県内では東京と最も関係の深い地域で,かつての武蔵国南東部にほぼ相当する。川崎市と横浜市の全域がこれにあたり,県域の1/4弱の面積に県人口の55%が集中し,県の政治,経済,文化,交通の中心をなしている。(2)三浦地域は多摩丘陵の南に続く三浦半島全域にあたる。明治中期以後軍港として成長した横須賀市一帯は工業地区,南部の三浦市の台地一帯は近郊農村地区,相模湾岸の逗子市,葉山町一帯は保養地から発展した住宅地となっている。(3)湘南地域は相模川下流部低地の相模湾岸一帯を指し,相模国の南で相南というところを,中国の景勝地の地名にちなんで湘南がとられた。鎌倉,藤沢,茅ヶ崎,平塚の4市と寒川,大磯,二宮の3町を含む。(4)西湘地域は県西あるいは西相ともいうが,湘南にあやかり,西湘という。丹沢山地南部から箱根山にかけての広い山地部と,酒匂川の形成した足柄平野からなる。足柄平野の南端に発達した県内唯一の城下町小田原を中心とした地域である。小田原,南足柄の2市のほか,足柄上郡の5町と足柄下郡の3町を含む。箱根山一帯は富士箱根伊豆国立公園,丹沢山地一帯は丹沢大山国定公園に含まれている。(5)県央地域は,相模川を挟んで両岸の台地上に主として展開する。西岸には中心都市の厚木のほか,伊勢原,秦野の3市と愛甲郡愛川町,清川村があり,東岸には相模原,大和,座間,綾瀬,海老名の5市がある。近年は花卉園芸などが行われ,都市化の著しい地域である。(6)北相地域は県域の最北部,相模川中流部にある津久井郡の4町からなり,津久井地域とも呼ばれていたが,2006年相模湖,津久井の2町が,07年城山,藤野の2町が相模原市に合併し,現在は相模原市の一部となっている。北部は相模湖,津久井湖を含む観光地,水源地,南西部は丹沢山地北部の山村地域で,養豚,酪農が盛んであったが,近年の住宅地化も著しい。
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神奈川 (かながわ)

相模国(神奈川県)の湊,宿場町。《鶴岡八幡宮文書》所収の文永3年(1266)5月2日北条時宗下文に,同宮領神奈河郷とあるのが初出とされる。南北朝時代には神奈河浦出入りの船から帆別銭を徴収しており,円覚寺仏日庵造営費として寄付されたり,武蔵金沢称名寺に納められたりした。1395年(応永2)神奈河郷は上杉憲定に安堵され,後北条氏の時代には奉行人宗甫が8貫500文,南条馬寄矢野彦六が100貫文の役高を神奈川にもっていた。
執筆者: 徳川氏の関東入国後の1601年(慶長6)家康の伝馬掟朱印状が下され,のち,青木町と神奈川町の2ヵ所を合わせて一宿とし,神奈川宿と称した。そして近辺の40ヵ村が助郷村に指定され人馬を提供した。当宿は神奈川湊と呼ばれる江戸湾の入海に面し,東海道五十三次の一つで東は川崎宿,西は保土ヶ谷宿である。問屋場(とんやば)と助郷会所が神奈川町荒宿の海側に,本陣は同町と青木町のそれぞれに,飛脚屋が本陣の近くにあった。宿場内の往還道の両側に旅籠屋(はたごや)と茶屋がたちならんだ。宿場としての役割のほか,江戸湾と相模国内陸の諸村を結ぶ商業上の中継地点であり,また,農漁村的性格をもつ。江戸時代中期以降,宿内に廻船問屋,仲買商人と,日本橋魚問屋の中継商人の店があり,商業都市的な役割を果たすようになった。農村的な面については青木町が合併前に一村であったことがあげられる。神奈川町では1695年(元禄8)の検地帳によれば,屋敷の筆数が313筆,田畑屋敷地あわせて107町歩の地積,810石余の石高となる。宿場の外辺には耕地がひろがっていたようすがうかがえる。また,神奈川湊の漁師町には数十軒の漁師の家がたちならび,浜辺には30艘前後の漁船が出入りしている漁村の風景が展開していた。さらに特徴的なことは社寺参詣,行楽客でたいへんにぎわったことである。江戸日本橋から7里(28km弱)の1日行程であるため,女,子ども連れで先を急がない旅人に多く利用された。さらに江戸時代中期以降になって,上総・下総から江戸湾を渡って富士登山,大山詣の参詣客や,金沢,三浦半島方面から江戸に行くために上陸する庶民でつねににぎわっていた。その状況は旅籠屋が1826年(文政9)で72軒もあり,茶屋が55年(安政2)で神奈川町・青木町合わせて45軒もあったことからも推察できる。人口は1705年(宝永2)に4817人(1088戸),1855年には6528人(1477戸),72年(明治5)には8890人(2106戸)となる。幕末の人口の中には,他地域からの流入がかなりの数を占めている。結局,神奈川宿は宿場の役割を中心とした近世都市であった。1858年の日米修好条約にもとづく開港場となり,アメリカの駐日領事ハリスはじめ外国人が宿場内に居住したが,実際の開港場は横浜となり,商業的活動は神奈川宿から横浜に移ったのである。1889年,神奈川町となり1901年横浜市に編入,27年区制施行。
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百科事典マイペディア 「神奈川」の意味・わかりやすい解説

神奈川【かながわ】

武蔵国橘樹(たちばな)郡内,現神奈川県横浜市神奈川区南部海浜部にあった,湊および東海道の宿駅。鎌倉時代中期には神奈河郷は鶴岡八幡宮領で,1266年北条時宗により役夫工米が免除されている。1378年から3年間は神奈河湊出入りの船の帆別銭(帆1反につき300文)が,円覚寺仏日庵造営費用として寄進された。以後も帆別銭の納入は続き,1394年にはほぼ毎月10貫文が納められており,湊の規模は相当大きかったと考えられる。1395年には神奈河郷は上杉憲定に安堵されており,《小田原衆所領役帳》にも神奈川の地名がみえる。神奈川は小田原北条氏支配時からの宿駅であったが,1601年東海道の宿駅に指定された。当初は神奈川町のみで継立を行ったが,のち西の青木町が加わり神奈川宿を構成した。《宿村大概帳》によれば,東の川崎宿までの距離は2里半,西の保土ヶ谷宿までは1里9町。本陣は神奈川町と青木町のそれぞれに,問屋場は神奈川町に置かれた。1803年には旅籠屋64軒を数える。1725年には助郷村34村・助郷高1万1139石となっている。人馬継立役の負担は過重でしばしば軽減願いが出されていたが,とくに幕末のペリー来航以降増大した。 神奈川は江戸湾と武蔵・相模の内陸諸村を結ぶ,交通・商業の中継点でもあった。青木町前面の神奈川湊には諸国の船が停泊,1791年には廻船問屋10軒と仲買12軒があった。また江戸時代中期以降は,江戸や房総方面からの富士山大山への参詣客や,三浦半島方面から江戸へ向かう人々の上陸地としてにぎわい,旅籠屋も増加,神奈川宿の繁盛をもたらしている。1854年のペリー再来航の際には一行の応接場が神奈川に置かれて,幕府との交渉の第一線となった。この間黒船は神奈川湊沖に約2ヵ月間停泊していた。1858年日米修好通商条約が結ばれて翌1859年開港実施,開港場は神奈川と決まったが,幕府は交通の要地である神奈川を避け,横浜を開港場とした。開港後しばらくは各国の領事館が神奈川宿内の寺院に置かれていたが,1861年までにすべて横浜町に移った。1872年の伝馬所廃止により宿駅としての機能は衰え,商業の中心も次第に横浜町へ移った。1889年旧神奈川宿を中心に神奈川町が成立,1901年横浜市に編入され,1927年神奈川区が成立した。
→関連項目東海道

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「神奈川」の意味・わかりやすい解説

神奈川
かながわ

横浜市神奈川区の中心地区、および区名。旧神奈川町。東海道本線、JR京浜東北線、横浜線、京浜急行電鉄本線、国道1号(第二京浜)、15号(第一京浜)、首都高速道路など日本の陸上交通諸幹線が通る。地形上は多摩(たま)丘陵の南東脚部の東京湾岸低地が基幹で、南東には大正時代以後数次にわたる埋立地が続く。このあたりは南北朝時代からにぎわった神奈川湊(みなと)の地で、江戸初期に東海道の宿場に定められ、海道筋に加えて内陸部と東京湾岸諸浦にわたる広域を後背地として、陸海交通の要地としてにぎわっていた。幕末の開港(1859)にあたっては、神奈川奉行所(かながわぶぎょうしょ)が設けられて行政中心地ともなった。開港当初にはアメリカ(本覚(ほんがく)寺)、イギリス(浄滝(じょうりゅう)寺)、フランス(慶運寺)、オランダ(長延寺)の諸領事館や外国人宣教師の宿舎(成仏寺)が設けられた。こうして神奈川地区は横浜港地区(中区)とともに、開国史跡の多いことで知られる。また、浜は古くから荒波にもめげず出漁した「勇みはだの神奈川」で知られていた。しかしいまはまったくその姿を消して、広く埋立地、山内、千若(ちわか)、瑞穂(みずほ)、新浦島(しんうらしま)、出田(いづた)などが連なり、市場や貿易埠頭(ふとう)、工場街とその専用埠頭(工業港)となり、京浜工業地帯に重要な役割(重化学と石油の工業が主)を果たしている。

[浅香幸雄]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「神奈川」の意味・わかりやすい解説

神奈川
かながわ

神奈川県東部,横浜市,神奈川区南部の地区。戦国時代に神奈川湊が開かれ,江戸時代には東海道の宿駅でもあった。嘉永7 (1854) 年日米和親条約が結ばれた地で,開港場に予定されていたが,のち横浜港に変更された。大正期から地先が埋立てられて重工業地域となったため,現在は JR東海道本線,国道1号線に沿う住宅,工場の密集地となっている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「神奈川」の解説

神奈川
かながわ

現在の横浜市神奈川区内
江戸時代は東海道の要衝。宿駅として発達した。1854年日米和親条約(神奈川条約)の調印地で,日米修好通商条約により'59年7月4日開港されたが,幕府は日本人とのトラブルを警戒して開港場を,街道を離れた横浜に変更した。

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事典・日本の観光資源 「神奈川」の解説

神奈川

(神奈川県横浜市神奈川区)
東海道五十三次」指定の観光名所。

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