ジャイアント馬場(読み)ジャイアントババ

デジタル大辞泉 「ジャイアント馬場」の意味・読み・例文・類語

ジャイアント‐ばば【ジャイアント馬場】

[1938~1999]プロレスラー。新潟の生まれ。本名、馬場正平。プロ野球選手を経てプロレス界に転身。2メートルをこえる長身から繰り出す技で活躍し、アントニオ猪木と人気を二分。新団体「全日本プロレス」を立ち上げるなど、プロレス界の発展に尽力した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャイアント馬場」の意味・わかりやすい解説

ジャイアント馬場
じゃいあんとばば
(1938―1999)

昭和・平成期のプロレスラー。本名・馬場正平(しょうへい)。新潟県三条市生まれ。高校2年時に読売ジャイアンツにスカウトされ、1955年(昭和30)、プロ野球界に入る。2メートルを超す長身投手として1957年には一軍で登板する機会を得るが定着できず、1960年1月に肘(ひじ)のけがでプロ野球選手生活を断念。一時は帰郷も考えたが、4月に友人のつてで東京・日本橋浪花(なにわ)町(現、日本橋富沢(とみざわ)町)の力道山道場を訪ね、プロレスラーに転向。同年9月30日、台東区体育館で田中米太郎(よねたろう)とのデビュー戦に勝利し、早くから力道山の後継者候補として注目を浴びた。1961年7月、プロレスリングの本場アメリカに武者修行に出されて活躍し、当時アメリカにあった4大世界選手権のうちの三つ(NWA、WWWF、WWA)に連続挑戦するという快挙を成し遂げて1963年3月に凱旋(がいせん)帰国。同年12月に力道山が暴漢に刺殺されたときは二度目のアメリカ遠征中であったが、所属していた日本プロレスと日本テレビの要請に応じて1964年4月に帰国し、以降は日本プロレスのエースとして力道山没後の日本プロレス界を牽引(けんいん)した。1965年11月には力道山が残したインターナショナル選手権を獲得し、日本テレビが独占放送していた「日本プロレス中継」の顔として、幅広い世代に親しまれる人気者の地位を築いた。

 1972年7月、日本プロレスに辞表を提出して独立し、9月に日本テレビの全面的な資金バックアップを受けて「全日本プロレス」を設立し、社長兼エースとして活躍。1974年12月には世界最高の権威を誇ったNWA世界ヘビー級選手権を日本人として初めて獲得したほか、ジャンボ鶴田(本名・鶴田友美(ともみ)。1951―2000。1972年入門)、天龍(てんりゅう)源一郎(本名・嶋田源一郎。1950― 。1976年入門)、三沢光晴(みつはる)(1962―2009。1981年入門)など多くの優れた後進を育てて経営基盤を盤石にした。現役レスラーとしては、50歳ころからメインイベントの座を弟子たちに譲ることが多くなったが、「生涯現役」をモットーに60歳を過ぎてもリングに上がり続けた。平成11年1月31日、大腸がんによる肝不全のため61歳で死去。4月に日本武道館で開催された「お別れの会」には日本各地から1万人を超す馬場ファンが献花に訪れて、往年の国民的ヒーローぶりを証明した。

[流 智美 2022年11月17日]

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20世紀日本人名事典 「ジャイアント馬場」の解説

ジャイアント馬場
ジャイアントババ

昭和・平成期のプロレスラー 全日本プロレスリング社長。



生年
昭和13(1938)年1月23日

没年
平成11(1999)年1月31日

出生地
新潟県三条市西四日町

本名
馬場 正平

学歴〔年〕
三条実業高(現・三条商)〔昭和29年〕中退

経歴
高校時代は野球と卓球の選手。中退後、昭和29年投手として巨人に入団。その後、大洋にテスト生として入団するが、キャンプ中に転倒、腕を負傷したため選手生命を絶たれた。35年プロレスに転向、力道山門下に入る。36〜39年2度米国へ武者修業に出かけ、帰国後の40年インターナショナル・ヘビー級の王座につく。47年独立して全日本プロレスリングを創設、アントニオ猪木らとともに黄金時代を築いた。48年PWFヘビー級、49年NWA世界ヘビー級のチャンピオンとなり、日本マット界の大黒柱となった。平成5年4月5000試合出場を達成。209センチ、140キロの巨体から繰り出す16文キックなどの得意技で人気を得た。還暦を過ぎてもリングにあがり、生涯現役レスラーとして活躍した。また、ユニークなキャラクターで親しまれ、クイズ番組やCMなどにも数多く出演した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジャイアント馬場」の意味・わかりやすい解説

ジャイアント馬場
ジャイアントばば

[生]1938.1.23. 新潟,三条
[没]1999.1.31. 東京
プロレスラー。本名馬場正平。 1955年に三条実業高校を中退し,プロ野球の読売ジャイアンツに投手として入団。のち大洋ホエールズに移籍するが,けがで退団。 1960年に力道山に誘われプロレスリングに転向。 2mをこえる身長を利した 16文キック,力道山譲りの空手チョップなどの得意技で大型新人として注目を集めた。力道山死後の 1965年に,インターナショナル・ヘビー級タイトルを獲得。中心選手として外国人レスラーとの名勝負を繰り広げ,同門のアントニオ猪木とともに人気スターとなった。 1972年に独立して全日本プロレスを旗揚げ,社長に就任して興行手腕を発揮した。海外の大物レスラーを次々に呼んで,タイトルマッチを行なうスタイルは,王道プロレスと呼ばれ,テレビのゴールデンタイムに進出するなどプロレスの全盛期を築いた。 NWA世界ヘビー級チャンピオンの座に3度 (1974,1979,1980) ついた。死の1ヵ月前までリングに立ち続けた。

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百科事典マイペディア 「ジャイアント馬場」の意味・わかりやすい解説

ジャイアント馬場【ジャイアントばば】

プロレスラー。本名馬場正平。新潟県生れ。三条実業高中退後,1954年投手としてプロ野球読売ジャイアンツに入団。その後大洋ホエールズを経て,1960年プロレスに転向し,力道山の門下に入る。1965年にインターナショナル・ヘビー級のチャンピオンとなる。1972年全日本プロレスを創設。その後もPWFやNWAヘビー級チャンピオンとなり,アントニオ猪木と並んで日本プロレス界の大黒柱的存在として活躍。1993年4月,5000試合を達成。得意技は209cmの長身から繰り出す〈16文キック〉。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ジャイアント馬場」の解説

ジャイアント馬場 ジャイアント-ばば

1938-1999 昭和後期-平成時代のプロレスラー。
昭和13年1月23日生まれ。プロ野球巨人,大洋の投手をへて,昭和35年力道山に入門。47年全日本プロレスを設立。209cmの長身で,16文キックを得意技とし,アントニオ猪木と人気を二分。平成5年5000試合出場を達成。生涯現役レスラーとして活躍した。平成11年1月31日死去。61歳。新潟県出身。三条実業高中退。本名は馬場正平。

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367日誕生日大事典 「ジャイアント馬場」の解説

ジャイアント馬場 (じゃいあんとばば)

生年月日:1938年1月23日
昭和時代;平成時代のプロレスラー
1999年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジャイアント馬場の言及

【プロレス】より

…力道山は62年に日本人で初めてWWA世界チャンピオンになったが,63年に不慮の死を遂げた。その後一時低迷したが,元プロ野球巨人軍投手で身長2.09mの巨漢ジャイアント馬場の登場,さらにアントニオ猪木の台頭,元柔道日本一の坂口征二の転向などによって人気を挽回した。72年にアントニオ猪木が新日本プロレスを,ジャイアント馬場が全日本プロレスを結成し,以後は2団体を中心とした時代へ移行した。…

※「ジャイアント馬場」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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