アン・ブーリン
Anne Boleyn
生没年:1507-36
イギリス国王ヘンリー8世の2番目の王妃。トマス・ブーリン(のちのウィルトシャー・オーモンド伯)の次女。姉とともにフランスに滞在し,フランス王妃の侍女となり,1522年帰国,イギリス宮廷に出仕した。姉メアリーはすでにヘンリー8世の愛人であったが,アンも国王の寵を得,これが国王と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの離婚問題を引き起こした。アンは33年1月ひそかに国王と結婚し,5月クランマー大主教はこの結婚を合法と宣言した。9月には女児(のちのエリザベス1世)が誕生する。しかし男児出生を望む国王はジェーン・シーモアへと傾き,アンを不義密通の理由でロンドン塔で処刑した。国王のキャサリンとの離婚,アンとの結婚はイギリス宗教改革の原因というよりは,むしろ契機とみなされるが,アンは聖書の英訳・出版に好意的であり,国王の忌避したティンダル聖書を底本の一つとしたカバーデール聖書刊行(1535)の国王認可に貢献した。
執筆者:栗山 義信
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
百科事典マイペディア
「アンブーリン」の意味・わかりやすい解説
アン・ブーリン
イングランド王ヘンリー8世の2度めの王妃。エリザベス1世の母。初めは王妃キャサリンの侍女であった。のち王の寵(ちょう)を得て1533年結婚したが,教皇クレメンス7世はこれを認めず,イギリス宗教改革の原因となる。不義を理由にロンドン塔で処刑された。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
アン・ブーリン
Anne Boleyn
1507~36
イングランド王ヘンリ8世の2番目の妃(1533~36年)。王との恋愛が,王妃キャサリンの離婚ひいてはイングランドの宗教改革の原因となった。のちのエリザベス1世を生んだが,王の寵を失い,処刑された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
アン=ブーリン
Anne Boleyn
1507〜36
イギリスの国王ヘンリ8世の2番めの妃。エリザベス1世の母
王の寵愛 (ちようあい) を得て,1533年王妃キャサリンとの離婚事件を機に王妃の侍女から王妃となった。エリザベスを生んだが男子がなく,姦通罪の汚名をきせられて処刑された。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
世界大百科事典(旧版)内のアンブーリンの言及
【ヘンリー[8世]】より
…国内ではフェルナンドの娘キャサリンとの離婚問題を起こした。王妃との間には男子が育たず,[アン・ブーリン]との恋愛によってキャサリンとの結婚解消の認可を教皇に求めたが,教皇クレメンス7世はキャサリンが神聖ローマ帝国皇帝カール5世の伯母に当たることから承認を引き延ばし,最終的に拒絶した。ここに責任者である大法官ウルジー枢機卿は失脚し,大法官職はトマス・モアによって引き継がれたが,政務はトマス・クロムウェルによって行われ,イギリスにおけるローマ教皇権のすべてを取り除くことによって離婚問題の決着が図られることになった。…
【ワイアット】より
…しかし近年ではむしろワイアットの側に独創性や強い個性を見る傾向が強い。ヘンリー8世によって2度投獄され,なかでも王妃アン・ブーリンの愛人であったとする嫌疑をかけられた事件はよく知られるが,当時の宮廷の身分上の不安定さを語るエピソードであろう。幾編かの詩はアンとの交情をうたったものとする説もあるが,宮廷恋愛の共通のテーマを扱ったものである。…
※「アンブーリン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」