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イレネ Irene

翻訳|Irene

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イレネ
Irene

[生]752. アテネ
[没]803.8.9. レスボス
ビザンチン皇帝 (在位 797~802) 。イサウリア朝最後の皇帝。聖像崇拝の支持者でレオ4世の皇妃となる (768) 。夫の死により息子コンスタンチヌス6世 (10歳) が即位 (780) ,みずから摂政地位につく。 787年第7回公会議をニカイアで開催し,念願の聖像崇拝を再び公認した。その功により東方正教会から聖人に列せられた (聖イレネの祝日8月9日) 。摂政の地位を不満とし,息子の陰謀を機にこれを捕え,その両眼をえぐり,失脚させ,797年ビザンチン帝国最初の女帝に即位。その治世下,国庫はイスラム,ブルガリアへの貢納金,教会,修道院への寄進,首都住民税の廃止などにより多大の経済的負担を受けた。 802年宮廷の陰謀によりその地位を追われ,レスボス島に流され,その地で没した。

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世界大百科事典 第2版の解説

イレネ【Irēnē】

752‐803
ビザンティン皇帝。在位797‐802年。夫レオ4世の死後,息子コンスタンティノス6世(10歳)の摂政として第7回公会議をニカエアで開催し,長年のイコノクラスム(聖画崇拝禁止令)の破棄を決議。一方,教会・修道院の再建等に多額の国庫金を浪費し,経済の混乱を招いた。後継者問題で不仲になった息子を退位させ,史上初の女帝となる。西方のカール大帝との婚姻が計画されるうちに,宮廷革命により追放され,レスボスで没した。

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世界大百科事典内のイレネの言及

【ニカエア公会議】より

…しかしアリウス問題の根本的解決にはいたらなかった。 第2ニカエア会議は,第7回公会議にあたり,787年にイコノクラスムの解決のためにビザンティン皇妃イレネによって召集された。この会議は,イコン破壊派が開いたヒエリア会議(754)の決議を取り消し,イコン崇敬は神に対する真の崇拝とは区別すべきであるとして,イコン崇敬を擁護した。…

【ビザンティン帝国】より

…しかし両帝が開始した宗教政策イコノクラスム(第1期726‐787,第2期813‐843)は,対内的に混乱を招く一方,ローマ教皇庁との断絶を生み,報復措置としてビザンティン側はシチリア,カラブリア,イリュリアの教会管轄権をローマからコンスタンティノープルに所属替えした。またラベンナがランゴバルド族の手に落ちた(751)結果,コンスタンティノス5世は西方の実力者,フランク国王ピピン3世と結んでイタリアの事態を収拾しようとし,イコン崇拝を復活したイレネ(在位797‐802)は,ローマ皇帝に戴冠されたピピンの息子カール大帝と新しい関係に立った(中世キリスト教世界の2皇帝問題)。 イコン崇拝の最終的復活(843)は,政治的,文化的にも,暗黒時代を乗り越えたビザンティン帝国の出発点を意味した。…

【フランク王国】より

…フランク王国側は,790年代初頭,〈カールの書〉を公表して,ビザンティンの〈王〉に対し,フランクの〈王〉の対等性の主張を掲げていた。他方ビザンティン帝国では,コンスタンティノス6世の摂政として実権を握っていた母后イレネが,797年息子の皇帝を廃位して,自ら帝位に就くという異例の事態が発生していた。女帝支配の合法性についてはビザンティン帝国内部にも異論が多く,各地で反乱が生じつつあった。…

※「イレネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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