改訂新版 世界大百科事典 「カトリック改革」の意味・わかりやすい解説
カトリック改革 (カトリックかいかく)
Catholic Reform
ルターやカルバンの宗教改革以前から存在していた,カトリック教会独自の自己改革,革新運動。カトリック改革は,ルターの出現以後,ルターに反対する反動としての反(対抗)宗教改革Counter-Refor-mationという形をとったが,カトリック改革すなわち反宗教改革ではない。かつてはカトリック史家もプロテスタント史家も宗教改革ないし教会改革の時代を,ルターやカルバンの〈宗教改革〉とそれに対抗して起こった〈反(対抗)宗教改革〉(たとえばトリエント公会議)という二つの概念だけで説明し,カトリック改革という概念を用いても,それは反宗教改革と同義語として用いられてきた。最近の研究で明らかになったのは,カトリック改革すなわち反宗教改革ではないこと,カトリック改革には反対・反動という否定面と同時に,自発的肯定面があり,その根源はルター以前にまでさかのぼるということである。この新しいカトリック概念によって初めて,トリエントの会議に見られる否定と肯定,消極と積極の両面がよりよく理解される。ルター以前にさかのぼる教会改革運動を指す呼称としての〈カトリック改革〉を最初に用いたのは19世紀のプロテスタント史家マウレンブレッヒャーWilhelm Maurenbrecher(1838-92)であった。彼はプロテスタント的改革とそれとは別なカトリック改革をいずれもReformationと呼んだが,今日では後者を前者と区別するためにReformと呼ぶことが多い。
カトリック改革の第1期は,14世紀末から15世紀末にかけてイタリア,スペインだけでなくフランス,ネーデルラント地方,ドイツなど,キリスト教世界の各地で,個々の司教,修道院長,司祭,一般信徒が,いわば〈下から〉始めた〈肢体〉の生活改革運動である。これに含まれるのはイタリアではサボナローラの大衆教化活動,〈神愛祈禱団〉の自己改革と使徒的活動,スペインのフェルナンド王とイサベル女王による司教団と修道会の改革,ネーデルラント地方やドイツでは《イミタティオ・クリスティ》を書いたトマス・ア・ケンピスやエラスムスの属した〈共住生活兄弟団〉やアウグスティヌス戒律の共住司祭団の活動,各地のカルトゥジア会の禁欲運動,T.モアのような人文主義者たちの改革運動である。第1期のこのような〈肢体〉の改革運動にもかかわらず,いわゆる〈ルネサンス教皇たち〉は文学・美術の促進ほどには信仰生活の革新には熱心でなかった。したがって1512-17年の第5ラテラノ公会議に提出された教会改革案も実行には移されなかった。第1期の個々の改革は一時期には〈エラスムス派Erasmiani〉によって教会内の一つの大きな流れに統合されるかに見えたが,その夢はルターの出現によってついえ去った。
いわば多くの小川のせせらぎにたとえられる〈肢体〉の改革が,教会改革を真剣に考える教皇,とくにパウルス3世(在位1534-49)の手で一つの大きな潮流に統合されるのがカトリック改革の第2期である。ルターの出現はこの発展を促す一つのきっかけとはなったが,第2期の改革の活力の源泉は第1期の改革である。したがって第1期と第2期の間には思想や人物の明らかな連続がある。たとえば第2期の改革の担い手のひとりであるイグナティウス・デ・ロヨラに大きな影響を与えたのは第1期に属するカルトゥジア会修道士ザクセンのルドルフLudolf von Sachsenの《キリスト伝》であった。第2期に属するできごとにはイエズス会(1540創立)をはじめとする新修道会の設立と活動があるが,最も重要なのはトリエント公会議の開催とその第1会期(1545-47)と第2会期(1551-52)の〈信仰教義の決定〉である。トリエントの会議は一方ではルターやカルバンなどのプロテスタント改革者の教説のなかでカトリック教会が誤りであると判断するものを指摘して糾弾すると同時に,他方では根本的な論争点たとえば義化(成義)についての解釈的な説明を展開し,それまであった神学上の不安を除去した。さらに司教の在地義務の強調など教会の司牧上の新しい理想を示し,教義のうえでも生活のうえでも世俗的富や権力ではなく〈魂の救い〉が最高の規範であることを明らかにした。2名の有力な改革者がつぎつぎにマルケルス2世(在位1555),パウルス4世(在位1555-59)として教皇座についた1555年は,カトリック改革が教会の〈肢体〉だけでなくその〈頭〉をも決定的に支配するに至ったことを示す意味で象徴的な年であった。
カトリック改革の第3期は,トリエントの第2会期で示された教会生活の新しい理想を第3会期(1562-63)において〈改革諸法〉として具体化した時代であり,その改革諸法が教皇の指導のもとに実施されるのがカトリック改革の第4期である。第4期は一応ピウス4世(在位1559-65)の治世から,みずからローマ教区の監察を行ったクレメンス8世(在位1592-1605)の時代と考えられるが,部分的には18世紀にまでおよぶ。1622年の信仰弘布聖省の設置も,トリエントの改革精神の具体化例である。第4期の決定的事実は,教皇が教会改革の潮流をみずから操縦し,教皇制を再び教会生活の中心に置いたことである。そのために一方ではローマの中央集権主義が生まれた。一つの〈ローマ・ミサ典礼式文〉(1570),一つの〈グレゴリオ暦〉(1582),一つのラテン語訳聖書《ウルガタ》(1590)が制定され,ローマが世界教会の統一的規範となった。中央集権主義のよしあしは別として,新しい中央集権主義は,14世紀のような教皇の財政政策によるものではなく,宗教的精神的権威による中央集権主義であった。信仰弘布聖省による宣教活動の統合も中央集権化の表現ではあるが,同時にそれは宣教活動への世俗諸王権の介入の排除,宣教活動の非政治化を目ざしたものであった。ただし,第4期の改革の評価には,制度面からだけではなく,この時代を動かした人々,十字架のヨハネ,アビラのテレサ,ボロメオ,フランソア・ド・サールなどの精神面からの評価が必要である。
第1期においては個々の,複数の現象であったカトリック改革は第2期以来一つの大きな流れとなった。第1期から第2期にかけて明らかな連続が見られるので,これらの諸時期を統一的に把握して,単数で〈カトリック改革〉と呼ぶことができる。このような改革があったがゆえにカトリック教会は,14~15世紀のさまざまな悪弊や16世紀の分裂の危機を克服して,新世界から東洋にまで宣教活動を拡大しうるまで活力を回復した。広い意味での対抗改革はプロテスタンティズムに対する反動,防衛,対決精神のすべてを含むが,狭い意味では,トリエントの会議によって再建された教皇権の指導のもとにカトリック教会が皇帝や王,領邦君主などの世俗権の助けを借りて,プロテスタント化された領地を政治的,軍事的に奪回しようとする行動を指す。イギリスのメアリー1世の治世,ユグノー戦争,三十年戦争などがその例である。このような形の対抗改革を〈カトリック復古Restoration〉と呼ぶこともある。カトリック改革の第4期は,そのような意味での対抗改革ないし復古という政治的反動の重荷を担う時代ではあったが,教皇制の道徳的権威は強化された時代でもあった。対抗改革時代のいわゆるバロック時代の教会は,ルネサンス時代の教会に比べてはるかに浄化,改革されていた。
→宗教改革 →反宗教改革
執筆者:澤田 昭夫
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