エラスムス(読み)えらすむす(英語表記)Desiderius Erasmus

日本大百科全書(ニッポニカ) 「エラスムス」の意味・わかりやすい解説

エラスムス
えらすむす
Desiderius Erasmus
(1466―1536)

オランダの人文学者。ロッテルダム司祭非嫡出子として生まれる。少年時代、デベンテルの「共同生活兄弟会」の学校で教育を受け、「新しい献身」の名でよばれる敬虔(けいけん)心を植え付けられた。1488年にステインのアウグスティヌス派の修道院に入ったが、晩年には教皇に請願して僧籍を脱した。カンブレーの司教の秘書を務め、その援助で1495年パリに遊学、もっぱら古典ラテン文芸の研究に没頭した。自活をするためにイギリス貴族の子弟の個人教授をし、1499年教え子といっしょにイギリスに渡り、トマス・モアやジョン・コレットらの人文学者と知り合った。とくにコレットのパウロ書簡の研究に刺激され、翌1500年パリに戻ると、ギリシア語の勉強をやり直して聖書研究に専心した。その成果は『キリスト教戦士必携』(1504)に示されている。1506年にはイタリアからイギリスへ旅行中に着想して、ロンドンのトマス・モアのところで一気に書き上げたのが有名な戯文(げぶん)『愚神礼賛(ぐしんらいさん)』(1511)である。それは「愚(おろ)かさの女神」が世にいかに愚かごとが多いかを数え上げ、自慢話をするという形式をとり、哲学者・神学者の空虚な論議、聖職者の偽善などに対する鋭い風刺が語られている。

 1516年、キリスト教君主たちの間でキリスト教的平和の締結されることを切望した『キリスト教君主の教育』を公刊。またギリシア語『新約聖書』の最初の印刷校訂本を上梓(じょうし)したり、『ヒエロニムス著作集』(ともに1516)を公刊するなど、多彩な活動をなし、「人文学者の王」と仰がれるに至った。晩年はスイスバーゼルに住み、そこで死去した。彼は教会の堕落を厳しく批判し、聖書の福音(ふくいん)の精神への復帰を説いたので、その弟子からは多くの宗教改革者を出した。彼自身もルターの宗教改革に初めは同情的であったが、その熱狂的な行動には同調できず、『自由意志論』(1524)を書いて論争してからはルターと決定的に分裂した。彼の思想はプラトン主義に立脚したパウロのキリスト教に基礎を置いているが、より実践的であり、なによりも思慮と節度を重んじた。ディルタイによって「16世紀のボルテール」とよばれたように、コスモポリティック(世界的)な精神の持ち主で、近代自由主義の先駆者であるばかりでなく、ラブレーをはじめフランス文芸思潮に大きな影響を及ぼした。 
[伊藤勝彦 2015年11月17日]

『J・ホイジンガ著、宮崎信彦訳『エラスムス』(1965・筑摩書房/ちくま学芸文庫)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エラスムス」の意味・わかりやすい解説

エラスムス
Erasmus, Desiderius

[生]1469頃.10.27/28. ロッテルダム
[没]1536.7.12. バーゼル
オランダのユマニスト。幼少の頃から聖職者の教育を受け司祭になり,のちパリに出て神学を研究し,ギリシア・ローマの古典を学んだ。膨大な著作と書簡により中世以来の腐敗したローマ教会を鋭く批判,人間の痴愚と狂気を風刺し,宗教改革の嵐のなかでは教会の自己粛正を信じ,聖書の福音主義と寛容を説き,ヨーロッパ思想界に君臨した。後年は諸国を遍歴,スイスのバーゼルで没した。主著『格言集』 Adagiorum collectanea (1500) ,『痴愚神礼賛』 Encomium moriae (1511) ,『平和の訴え』 Querela pacis (1517) ,『対話集』 Familiarium Colloquiorum Opus (18~33) 。

エラスムス
Erasmus

[生]?
[没]303
聖人。アンチオキアの司祭。殉教者。初めアンチオキアで,次いでイリリアで宣教中に迫害,拷問を受けたといわれる。 14救難聖人の一人で,船員の保護聖人。祝日6月5日。

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