日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガラス工業」の意味・わかりやすい解説
ガラス工業
がらすこうぎょう
窯業の一部門で、板ガラス、瓶・管球などのガラス製品、ガラス繊維の3分野からなる。板ガラスは、普通板、フロート板、合わせ板、強化板、複層板などの種類がある。板ガラスの用途は、建築、自動車、その他産業用の三つがおもなものである。建築用にはフロート板が用いられ、自動車用には合わせ板、強化板が使われる。合わせ板というのは、2枚のガラスの間にプラスチック膜を挟んだもので、割れても飛散せず、また強化板は焼入れで強度がフロートの3~5倍あり、これらの板ガラスは安全ガラスともいわれる。複層板というのは、2枚のガラスの間に空気を挟み、断熱効果を高めたものである。
日本の板ガラス工業は、旭硝子(あさひガラス)(現、AGC)、日本板硝子、セントラル硝子の3社によって国内市場が占められる寡占体制が確立されている。このような状態は欧米でも共通しており、アメリカではコーニング社、ヨーロッパではピルキントン社、サン・ゴバン社の2社およびその系列を中心とした寡占状態が続いている。これは、板ガラスの製造が、設備・装置に莫大(ばくだい)な資金を要すること、熟練の蓄積を前提としており新規参入を困難にしていること、販売ルートとの緊密な結び付きを必要としていること、などの理由によるものである。日本では、自動車用合わせ板・強化板などを除き、板ガラスの大部分は、板ガラス・メーカーと特約した卸商に販売され、卸商はさらに小売商、建築業者などの大口需要家に販売している。特約卸商は全国9地域で協同組合をもち、全国的な連合会を形成しており、また、小売商も府県単位での協同組合とその全国連合組織をもっている。このような販売ルートと板ガラス製造会社との結び付きは強固であり、寡占状態を維持している大きな理由ともなっている。
ガラス製品分野では、その製品は多種多様で、瓶、食器、理化学用ガラス、魔法瓶、ガラス管、光学ガラス、工芸ガラス、電球バルブ、ブラウン管などがおもなものである。ビール瓶などの瓶類やブラウン管などは、自動化された機械によって大量に大工業的に製造されるが、ほかのガラス製品は、猫壺(ねこつぼ)(形がネコのからだに似た、ガラス溶融に用いる壺)のような小規模な生産設備を備えた町工場でつくられている。このような中小企業の生産性は板ガラスや自動製瓶の大工業に比べて著しく低く、また高熱作業など労働環境も劣悪な状態にある。
ガラス繊維分野は、1950年代、1960年代に旭硝子、日本レイヨン(現、ユニチカ)など数社で長繊維、短繊維が生産されるようになった。長繊維はFRP(繊維強化プラスチック)の素材や工業用材料に、また、短繊維はグラスウールとして住宅用断熱材や保温、保冷、吸音材として使用された。その結果、小型の船舶では船体をつくるのに木材が使われることが少なくなり、住宅では土壁が消えるなど材料分野で大きな変化がおきた。
日本のガラス工業は、明治初期、生活様式の変化とともに著しく増したガラス需要に対応するため品川におこされた官営興業社に始まる。のちに改称して品川硝子製造所(この工場建物は現在愛知県犬山(いぬやま)市の博物館明治村に保存されている)となった同社は、板ガラスの製造を試みたが失敗した。
1906年(明治39)には、ヨーロッパの資金と技術を導入した東洋硝子製造株式会社が設立され、日本で初めて純西洋式硝子工場が出現し、機械的製瓶も行われたが、成功しなかった。
最初の板ガラスは品川硝子の伝習生であった島田孫市(まごいち)(1862―1927)によって1904年市場に出された。板ガラスの本格的生産は、1907年に岩崎一族の経営による旭硝子株式会社の設立に始まる。ここでの板ガラス生産の成功は、東洋硝子の外国人技師、職工に多くを負っている。当時の板ガラス製造技術は円筒法(棒状の鉄パイプによって円筒を吹き、これを縦に切って炉内で加熱軟化して展延する)であり、旭硝子は当初ベルギーから人口吹法によるものを導入して操業を行ったが、1913年(大正2)にはアメリカからラバース式機械的ガラス円筒吹揚機を導入し、生産は本格化した。旭硝子は第一次世界大戦後の反動不況のなかでも積極経営を続け、昭和年代に入って円筒法にかわる板引法のフルコール法などの新技術の採用などにより、1933~1934年(昭和8~9)には日本の板ガラス生産はベルギー、アメリカに次いで世界第3位を占めるに至った。しかし、第二次世界大戦中は戦時動員によって生産は停滞し、終戦時には生産設備のほとんどを失っていた。戦後復興のなかで建築用板ガラスの需要増とともに生産も増加し、1951年(昭和26)には戦前最高水準を上回った。1955年以降の高度経済成長期には、ビル建築が相次ぎ、さらには自動車工業の発展とともに安全ガラスの需要が急成長し、板ガラス工業はこれと歩調をあわせて発展した。技術的には、従来からの板引法であるコルバーン法、フルコール法、それにローラー式のフォード法に加えて、新たにイギリスからフロート法が導入された。これは、火造りのままで磨き板ガラスのように滑らかな板ガラスを製造でき、革命的技術といわれたものである。日本ではフロート法による生産は1965年に日本板硝子で、翌1966年旭硝子で開始された。
オイル・ショック(1973)以降の不況、新建築の低迷とともに板ガラス生産も減退を余儀なくされたが、1980年以降、自動車向け安全ガラス、テレビ用ブラウン管などのガラス製品の市場が広がった。さらに1990年代に入ると、エレクトロニクス、光エレクトロニクス等の高度技術の展開とともに、これまでのイメージをはるかに超えた高精度化、高機能化したニューガラス群が出現するようになった。オプティクス(光学)領域では、光ファイバー、マイクロレンズ、光導波路、エレクトロニクス用にはICフォトマスク、ガラス磁気ディスク、ディスプレー用基板ガラスなど、精密機械関連では、高純度石英ガラス、ゼロ膨張結晶化ガラス、プレス成形非球面レンズなどがそれである。また、新エネルギー分野では、太陽電池用ガラス、医療用では、人工骨、人工歯根、建築向けには、調光ガラス、結晶化ガラス建材などがつくられるようになった。これらニューガラス群の出現の背景には、高純度化技術、超急冷技術、超精密加工技術、組成制御技術など製造技術の技術革新があり、コンピュータの導入によってこの技術革新は可能になった。建築用の板ガラスについても、かつてのようにフロートガラスとして出荷されることは少なくなり、合わせガラス、調光ガラスなど高付加価値のものが中心をなすようになった。
日本のガラス工業は21世紀に入ると、電子技術の新展開に歩調をあわせて、その求めに応じた高機能の製品を提供するようになった。とくにFPD(フラットパネルディスプレー)については厳しい特性が求められ、この分野で技術の蓄積と豊かな経験をもつ旭硝子はPDP(プラズマディスプレー・パネル)用基板ガラスで世界の90%のシェアを有している。LCD(液晶)用基板ガラスではコーニング社(アメリカ)に次いで、旭硝子と日本電気硝子の日本メーカーが50%近いシェアをもっている。また、半導体製造の主役装置であるステッパーの露光装置用レンズやフォトマスク用基板として合成石英ガラスは不可欠であり、半導体レーザー用ガラス、電子部品の気密封止、被覆、絶縁、回路基板の形成などに用いられる粉ガラスなど、電子デバイス用の多様な高機能ガラスが製造されるようになり、売上高に占める比率を高めている。FPDとしては有機EL(エレクトロルミネセンス)、FED(電界放射ディスプレー)などが登場しているが、この基板ガラスにおいても日本のメーカーが主要な供給元として見込まれる。
このほか、太陽電池用ガラスの分野ではカバーガラス、TCO(透明電導性酸化物)ガラス基板などで今後大きな需要が見込まれ、旭硝子、日本板硝子などが製造している。メガネレンズの国内主要メーカーであるHOYA(ホーヤ)は、エレクトロオプティクスの分野に進出し、ハードディスクのガラス基板で世界トップのシェアをもつに至った。
[馬場政孝]