ガリシア(スペイン)(読み)がりしあ(英語表記)Galicia

翻訳|Galicia

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガリシア(スペイン)」の意味・わかりやすい解説

ガリシア(スペイン)
がりしあ
Galicia

スペイン北西端の歴史的地方名。北と西は大西洋に臨み、南はポルトガルに接する。ポンテベドラ、ラ・コルニャ、オレンセ、ルーゴの4県を含み、面積2万9434平方キロメートル、人口269万5880(2001)。カンタブリカ山脈の西端にあたり、大部分は標高1800メートル以下の花崗(かこう)岩からなる緩やかな山地地域である。中央をミーニョ川が西に流れて大西洋に注ぐ。西縁は低平で、沈降して多数の細長い入り江(リアría)を形成し、出入りに富んだ美しい海岸線をなしている。リアス海岸という名称はこの地に由来する。東方の山脈の頂には長期間積雪をみるものの、大部分は温暖な海洋性気候下にあり、とくに海岸部は一年中温和である。年降水量は、西岸のポンテベドラ市で1727ミリメートル、内陸のオレンセ市でも810ミリメートルと多く、ブナカシなどの森林、永年牧草地がみられる。全般に山がちで耕地に恵まれず、1戸当りの平均耕地面積はルーゴ県でやや大きい(20ヘクタール前後)が、全体としては零細である。とくにポンテベドラ県では、その71%が2ヘクタール以下である(1972)。そのため農業と牧畜業が多角的に営まれる。トウモロコシ作付面積は約16万ヘクタール(国内の36.4%)で、生産高では国内の23.9%(1978)、ジャガイモは10.8万ヘクタール(国内の29.0%)で、国内生産の25.4%を産する。牧畜は、ウシブタを主とする。ウシは国内の23.5%(1979)を飼育しており、北部では酪農が盛んである。

 おもな都市は海岸部に立地し、これらの地域では人口が比較的稠密(ちゅうみつ)である。しかし、他の工業都市や国外への人口流出、内陸部から海岸部への人口移動によって、全体に老齢化が著しい。リアに臨むラ・コルニャ、ビーゴ漁業の中心地で、魚の缶詰工場が多数立地するほか、大西洋航路の起点でもある。また自動車工場もあり、エル・フェロル・デル・カウディリョは軍港で、造船所がある。住民はケルト系が多く、ポルトガル語に近いガリシア語を話す。

[田辺 裕・滝沢由美子]

歴史

紀元前2世紀にローマに征服されるが、それ以前にはケルト系とされるガラエキ人が居住しており、地名はこの部族名に由来する。ローマ支配下の時代に、南はドゥエロ川、東はレオンまで領土を拡大した。その後、5世紀からスエビ人のもとで独立王国を形成したが、6世紀に西ゴート人に滅ぼされた。8世紀には一部をイスラム教徒に占領されたが、その後、レコンキスタ(国土回復戦争)によりレオン王国の支配を受けた。レコンキスタの進展に伴ってカスティーリャ王国領に入ったが、アラゴンのフェルナンド2世(カスティーリャ王としては5世)とカスティーリャのイサベル(1世)との結婚(1469)により「カトリック両王」が結ばれると、スペインの統一を迎えた(1479)。この間、ガリシア語が成立、また西部のサンティアゴ・デ・コンポステラは、ヨーロッパ・キリスト教徒の一大巡礼地となった。

 さらにフォロという借地による土地耕作形態が発展し、17~18世紀には借地権をめぐる係争が起こったが、その後、土地は細分化し、それは20世紀まで連続した。土地の細分化による零細経営の一般化は、他地域との地理的隔絶と相まって、アメリカ大陸への多数の移民者を生み出す原因となった。1936~1939年のスペイン内戦では、当初から反乱軍に占領されたが、フランコ死去後の民主化によって1982年に自治権を獲得した。

[深澤安博]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android