ガリツィア(読み)がりつぃあ(英語表記)Galicja

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガリツィア」の意味・わかりやすい解説

ガリツィア
がりつぃあ
Galicja

ウクライナ西部ポーランド東部とにまたがる歴史的地域。英語名ガリシアGalicia。ガリツィアはポーランド語。面積約8万平方キロメートル。第一次世界大戦直前の人口は約800万。うち約400万がポーランド人で主として西部に居住し、300万以上がルテニア人(ウクライナ人のドイツ語名)で東部に居住した。ほかに約80万のユダヤ人、数万のドイツ人が居住していた。

 東部には、12世紀にキエフ・ロシア(キエフ大公国)から分離したガリツィア公国があった。西部は10世紀以来ポーランド王国領で、当時の同国の首都クラクフは、政治、文化の中心であった。14世紀に短期間ハンガリー王朝の間接統治を経て、14世紀の終わりにはポーランド王国の支配下に入った。だが1772年に始まったオーストリアプロイセン、ロシアのポーランド分割によって、ガリツィア全域はクラクフ大公国を含むガリツィア・ロドメリア王国の名称のもとに、オーストリア・ハプスブルク家の領土に編入された。王国はルブフLwów(現、ウクライナ領リビウ。ドイツ語名レンベルク)の地方庁のもとで、主としてドイツ人官僚によって管理された。19世紀にハプスブルク帝国内の諸民族の解放運動が活発になるなかで、ガリツィアのポーランド化が徐々に成功を収め、これが、圧倒的多数が農民であるルテニア人との民族的、階級的対立を激化させた。

 第一次世界大戦後、ガリツィアは復興ポーランドの領土に復した。1945年2月のヤルタ会談では、1919年にポーランドとソ連との国境線として定められていたカーゾン線をポーランド東部国境とすることが決定され、東部ガリツィアはウクライナ領、西部ガリツィアはポーランド領となった。

[稲野 強]

『山本俊朗・井内敏夫著『ポーランド民族の歴史』(1980・三省堂)』『アンブロワーズ・ジョベール著、山本俊朗訳『ポーランド史』(1970・白水社)』『ピーター・シュガー、イヴォ・レデラー著、東欧史研究会訳『東欧のナショナリズム』(1981・刀水書房)』『ハンス・コーン著、稲野強・南塚信吾他訳『ハプスブルク帝国史入門』(1982・恒文社)』『伊東孝之・井内敏夫・中井和夫編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』(1998・山川出版社)』『南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(1999・山川出版社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「ガリツィア」の意味・わかりやすい解説

ガリツィア
Galicja[ポーランド]
Galitsiya[ロシア]

ポーランド南東部・東部から西ウクライナ地方にかけての地域をさす歴史的名称。ウクライナのリボフ,イワノ・フランコフスク,テルノポリの諸州を含み,ポーランドでは南東部15県が含まれる。18世紀末から第1次世界大戦まではポーランド領とみなされたが,第2次大戦後カーゾン線によってポーランド領とソ連領(現ウクライナ領)に分割された。北はマゾフシェ平野からポレシエ地方,ウクライナのボリンスカ低地に接し,南はカルパチ山系ベスキド山地北斜面で囲まれる,南北300km,東西700kmにわたる範囲の地方である。地形的には広大な前カルパチ台地がビスワ川,その支流のサン川,ブーク川ならびにドニエストル川,プルート川などによって開析されて,チェンストホバ高地,シベントクシュスカ高地,ロズトーチェ山地などの高地を形成したもので,全体的に山地が多く,肥沃な低地や農業地域は少ない。古くから黒海沿岸からバルト海に至る通商路にあたり,商人たちが遠隔地貿易に活躍し,また異民族のポーランド侵入の経路ともなった。ポーランドにとって,ビスワ川以東の地は経済的に後進地域で工業の発展は遅れていた。第2次大戦後,石炭,鉄鉱石,亜鉛,鉛の地下資源の開発が進み,またウクライナ南部とシロンスク工業地帯を結ぶ産業動脈として脚光をあび,新しい工業都市が形成されている。中心都市にはクラクフ,タルヌフ,ジェシュフ,リボフ,イワノ・フランコフスクなどがある。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ガリツィア」の解説

ガリツィア
Galicja

オーストリアがポーランド分割で獲得し,1772~1918年の間領有した領土名。公式名はガリツィア‐ロドメリア王国。名称の起源はルーシのガーリチ公国にある。東西ガリツィアに分かれ,ほぼ現在のウクライナ西部とポーランド南東部にあたる。当初オーストリアの官僚の支配下にあったが,1867年の自治の確立でポーランド的要素が優位になった。ウクライナ人の民族運動も活発で,ユダヤ人も多かった。のちにポーランド領,第二次世界大戦中に東部がソ連に編入された。

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百科事典マイペディア 「ガリツィア」の意味・わかりやすい解説

ガリツィア

ポーランド南東部からウクライナ北西部を指す地方名。カルパティア山脈北麓の地方にあたり,西はクラクフから東はスタニスラフに及ぶ。古くから黒海とバルト海を結ぶ通商路および異民族のポーランド侵入経路であった。山地が多く農耕地域は少ないが,現在のポーランド領ガリツィアでは地下資源を利用した新しい工業都市が生まれている。12世紀にロシアのガリツィア公国が成立。14世紀からポーランド分割(1772年)までポーランド領,その後オーストリア領。第1次大戦後ポーランド領に復した。第2次大戦後東部がソ連(現ウクライナ)領となった。
→関連項目ロート

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世界大百科事典(旧版)内のガリツィアの言及

【ウクライナ】より

…キエフ・ロシアは,ウクライナ人が以前から住んでいたポレシエと森林ステップ地帯に加えて,〈ワリャーギからギリシアへの道〉と,黒海北岸の一部を領域として統合し支配した。
[民族意識の形成]
 キエフ・ロシアが崩壊した後,ガーリチ・ボルイニ公国(13~14世紀)はポレシエと森林ステップ西部を支配したが,14世紀にガリツィアはポーランドに,ボルイニはリトアニアに併合された。1569年のルブリン連合によりリトアニアはポーランドと合同しレーチ・ポスポリタ(共和国)が形成され,ウクライナはポーランド支配下に入ることとなった。…

※「ガリツィア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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