イサベル(読み)いさべる(英語表記)Isabel Ⅱ

デジタル大辞泉 「イサベル」の意味・読み・例文・類語

イサベル(Isabel)

[1451~1504]カスティーリャ女王。在位1474~1504。アラゴンの王子フェルナンド結婚し、スペイン統一の基礎をつくった。コロンブスの新大陸発見を援助イサベラ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「イサベル」の意味・わかりやすい解説

イサベル(2世)
いさべる
Isabel Ⅱ
(1830―1904)

スペイン女王(在位1833~68)。フェルナンド7世の子。2歳で母マリア・クリスティナ摂政として即位したが、叔父ドン・カルロス王位を要求したため内乱となり、カルリスタ戦争が始まった。1843年、政治的混乱を収拾すべく摂政を廃し、幼くして親政を開始した。しかし、カルリスタの蜂起(ほうき)、保守的な穏健派政権に対する進歩派のクーデターが繰り返され、政治不安が続いた。穏健派に支えられたイサベル体制は徐々に支持基盤を狭め、1868年九月革命で倒れた。革命後、亡命先のパリから復位工作を続けたが、その専横的な政治干渉、保守性のために支持されず、子アルフォンソに王位を譲渡した。王政復古(1874)後も帰国を許されないままに、1904年4月9日パリで死去。

[中塚次郎]


イサベル(1世)
いさべる
Isabel Ⅰ la Católica
(1451―1504)

カスティーリャ女王(在位1474~1504)。カスティーリャ国王フアン2世の王女として生まれ、18歳でアラゴン王子フェルナンドとひそかに政略結婚(1469)。彼女の異母兄王エンリケ4世の死去(1474)後、ただちにカスティーリャの王位継承を宣言した。しかし王位をめぐる争いは内乱状態になり、1479~80年にようやく決着、正式にカスティーリャ女王となった。1479年アラゴンのフアン2世が死去、フェルナンド(2世)がアラゴンの王位についたため、両国の統合が実現し、スペイン王国が誕生した。しかし統合は王冠の合併にすぎず、両王国は独自の法律と制度を維持した。イサベルの治世最大の事業はイベリアの統一であり、そのための父祖伝来のレコンキスタ国土回復戦争)の終結を目ざし、イベリアに残った最後のイスラム王国グラナダを1492年攻略した。また、宗教上の統一を図るため、1478年に異端審問所を開設し、隠れユダヤ教徒の追及に乗り出した。1492年にはユダヤ人追放令を出し、改宗か国外退去を命じた。同年、コロンブスの航海を援助し新大陸到達に成功した。国内的には1484年のカスティーリャ条例の発布にみられるように、法整備を図るとともに、王室諮問院やカスティーリャ諮問院の再組織化など官僚組織を整備し、諸税の徴収の効率化によって王室収入の増加を実現した。これらの政策の最終的意図は王権の強化であり、以降の絶対王制確立への強力な第一歩であった。この意味で、イサベルの治世は中世から近世への重要な橋渡しとなった。

[飯塚一郎]

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百科事典マイペディア 「イサベル」の意味・わかりやすい解説

イサベル[1世]【イサベル】

カスティリャ女王(在位1474年―1504年)。アラゴン皇太子フェルナンドと結婚。夫がアラゴン王になると,両王国を統一するスペイン王国創建に向け共同統治を行う。熱烈なカトリック信徒で国土回復戦争を完了した。その功績を賛えられ夫のフェルナンド2世(カスティリャ王としては5世)とともに〈カトリック両王〉と称される。また国内では中央集権化に努め,コロンブスを援助した。
→関連項目カスティリャ王国スペイン

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旺文社世界史事典 三訂版 「イサベル」の解説

イサベル(1世)
IsabellaⅠ

1451〜1504
カスティリャ王国の女王(在位1474〜1504)
アラゴン王国の王子フェルナンドと結婚し,フェルナンドが王位につくと,アラゴンとカスティリャを合併してスペイン王国をつくった(1479)。1492年グラナダを占領してイスラーム教国ナスル朝(グラナダ王国)をイベリア半島から追い出し,その後コロンブスのアメリカ大陸探検に援助を与えた。

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