改訂新版 世界大百科事典 「カタルニャ」の意味・わかりやすい解説
カタルニャ
Cataluña
スペイン北東部の地方。ヘロナ,バルセロナ,レリダ,タラゴナの4県からなる。中心都市はバルセロナ。公用語として,住民の7割が話すカタルニャ語(カタロニア語)とカスティリャ語(一般にスペイン語と呼ばれる)が併用されている。北部から中央部へかけては,ピレネー山脈東端とそれに続く山脈が連なり,地形は起伏に富み,平野は少ない。気候は海岸地帯が地中海性気候で温暖であるが,内陸部は寒暑の差が激しく,さらにピレネー山脈一帯は冷涼多雨である。カタルニャ地方は鉱物資源には乏しいが,交易活動によって蓄積した富と各河川の豊かな水力資源を利用し,18世紀にイギリスから導入された織物工業によって,工業化を成功させた。バルセロナおよびその衛星都市からタラゴナへと続く地中海沿岸地帯は,現在でも国内生産の85%を占める織物工業を中心に,重工業のバスク地方と並んでスペインで有数の工業地帯を形成している。他の工業分野では,近年とくに重化学工業の発達が著しい。農業では,ブドウ,オリーブの果樹栽培とブドウ酒の生産が盛んであり,山間部では牧畜が営まれている。
歴史
ローマ時代,カタルニャはイベリア半島内で最も強くローマ帝国の影響を受けた地であった。ローマ帝国に追従した西ゴート王国がイスラム教徒の半島侵入(8世紀)により滅亡すると,カタルニャはカロリング朝フランク王国の版図に組み入れられ,諸伯領(バルセロナ,ヘロナ,アンプリアス,ウルヘル等)が築かれた。イスパニア辺境区と称された諸伯領は,イスラム勢力に対するフランク王国の防壁の役割を担った結果,イスラム教徒の影響をほとんど受けず,また半島におけるヨーロッパへの窓口となり,当時成立しつつあった西欧の封建制が移植された。このようなローマ化とヨーロッパ化の歴史は,カタルニャに固有の意識を芽生えさせた重要な要因となった。
9世紀に諸伯領は,バルセロナ伯を中心に結束し,徐々にフランク王国からの分離と自らの国家建設を意図し始めた。バルセロナ伯ビフレドは,アンドラを除く他の諸伯領を吸収し,バルセロナ伯国を樹立し,伯王ボレール(947-992)は986年にフランク王国からの独立を宣言した。現在のカタルニャの歴史的起源はこの時代に求められる。
中世のカタルニャは,伯王,貴族ならびに修道院長,司教による強固な領主支配の下に,イベリア半島内で最も過酷な状況におかれていた最下層の農民(パヘースpagés)が存在し,西欧諸国と同様に封建制が根付いていた。11世紀後半になると,〈カタルニャ慣習法典〉が編纂され,法体系をも整えるにいたった。
ラモン・ベレンゲール4世とアラゴン王国王女との結婚(1137)は,両国が一致して半島南部へ国土回復戦争を推し進め,さらに両国の連合を達成させる契機となった(アラゴン連合王国)。〈カタルニャ〉の名称が使われ始めたのもこの時代である。13世紀に入ると連合王国はマヨリカ島,バレンシア王国を征服し,そこにカタルニャ語を普及させ,さらに,地中海の交易・戦略ルートを次々と獲得していった。連合王国の地中海への進出はおおむねカタルニャの経済関係網にしたがっていたが,この地中海進出期に,交易に関する既存の諸法律を収集した連合王国の〈海上交易法典〉が編纂され,地中海におけるその後の商取引の礎を提供し,またカタラン地図にみられるようなすぐれた地図作製技術も生まれた。カタルニャは地中海に限らず,イギリスおよびフランドル,北海沿岸のドイツ諸港とも定期的な交易を行っていた。また,交易の隆盛を背景に中心都市バルセロナでは,自由な市民を目指す職人や力のあるブルジョア階級が中世を通じて形成されていった。
連合王国内のアラゴン,バレンシア,マヨリカ各王国は,主権のほか独自の王位を保持していたが,カタルニャは伯国のままであった。カタルニャの統治機構には,ジェネラリタートと法制定を主眼とした議会があり,これら2機関の承認がなければ,伯王でも独断で法を布告できなかった。ジェネラリタートは,聖職者および貴族,市民の各代表者から成る常設機関で,租税の徴収,諸法の運用・実施の監視,犯罪の追及や市民と権力者との争いの裁定,侵略された際の国家防衛など,あらゆる権能が付与されていた。
15世紀に,ヨーロッパ経済の中心が地中海地域から,勃興してきた中央部へと移り,さらにオスマン帝国の出現によって東地中海の覇権を失うと,連合王国の権勢に陰りが見え始め,徐々に衰退の道をたどっていった。カタルニャでも,バルセロナを頂点とする沿岸都市の政治的成熟が内陸部へと及び,封建制を突き崩す要因となっていった。
同じトラスタマラ朝に属していた,アラゴンのフェルナンド王子とカスティリャのイサベル王女の結婚(1469)は,両国の統一を成立させたが,それはカタルニャの没落を決定づけるものであった。人口数でも,15世紀末,アラゴン連合王国が約100万人(そのうち約30万人がカタルニャ人)で,人口密度は半島内で最も低いのに対して,カスティリャ王国は約750万人にも及んでいた。まして,15世紀末に発見された新大陸との交易をカスティリャ王国の港セビリャが独占し,カタルニャと新大陸の交易は禁じられたため,カタルニャの商工業発展の道は閉ざされた。両王の結婚による半島の統一はこのように,決して画一的ではなかったし,また両国の諸制度,法体系,言語はそれぞれ生き続けていたのである。
ところが,1620年代にカスティリャのオリバレス伯公爵が画一的に半島を統治する政策を打ち出したため,カタルニャでは暴動が勃発した(1640)。このとき,フランスはカタルニャを支援し,オリバレス伯公爵の政策は失敗に帰したが,カスティリャとフランス王国の間で結ばれたピレネー条約(1659)により,ルーシヨン(ピレネー山脈の東端にあったカタルニャ領土)はフランスに奪い取られてしまった。外国の介入を招いたスペイン人同士の戦いは,続く18世紀初頭のスペイン継承戦争においても展開された。この戦争でカタルニャは,カスティリャを援助したフランス・ブルボン王朝の中央集権主義を恐れ,ハプスブルク朝の戦列についたが,1714年9月11日バルセロナが陥落し,敗北を喫した。戦争の結果生まれたスペイン・ブルボン王朝の創始者フェリペ5世は,フランス中央集権主義の流れにそう,画一的なスペイン国家の建設を意図して,16年に国家基本令を布告した。その内容はカタルニャに厳しいもので,諸特権ならびに独自の法体系,政治・行政組織は廃止された。だが皮肉にも,画一的な政策は,カスティリャと同等の権利・機会をカタルニャに与え,18世紀後半のカルロス3世の時代には,中南米との直接交易権を付与されて,カタルニャ経済には活気がよみがえった。
1808年ナポレオンが半島に侵入すると,カタルニャでは,愛国的な書籍へのカタルニャ語の自発的な使用,あるいは旧来の地理的領土区分単位である各コマルカ(郡に相当)に抵抗の拠点として設置した評議会を通して,固有の民族的意識が鼓舞されていった。また,フランス革命に触発され,発布された1812年憲法も,スペインが画一的に統合される,という理由で,カタルニャでは承認されるべくもなかった。
19世紀半ば,スペインでは連邦主義の台頭をみたが,カタルニャ出身のピ・イ・マルガルはそのなかで際だっていた。しかし中央(カスティリャ)中心の思考を脱却できなかった連邦主義はカタルニャでは受け入れられず,その理想を実現すべく73年に樹立された第一共和国は,1年もたたずに崩壊した。これに対して,自らの手で歴史的・民族的主体性を確立し,自治の権利を守りぬくことを目ざして,19世紀末から1930年代にかけ展開されたカタルニャ主義運動は,〈地方〉の視座からの発想であり,カタルニャのあらゆる政治グループに共通した理想を示すものであった。
1830年代,18世紀後半にバルセロナを中心として発展した織物工業に,蒸気機関が導入され,生産高は飛躍的に向上した。1848年には,スペインで最初の鉄道がバルセロナ~マタロ間に敷設された。そのため,他の貧しい地方,特に南部アンダルシア地方からの移民の流入が相次いだ。例えば1833年に約44万あったバルセロナ県の人口は,57年には約71万,約1.6倍に急増している。だが,こうした国内移民の大多数は未熟練労働者であり,パンと職を容易に手にできるわけではなかった。実数は定かではないが,1850年,社会的にも労働運動でも重要な地位を占めた熟練工は,バルセロナ市の場合,全労働者の約1割強にすぎなかった,と言われる(現在でもカタルニャ総人口の約38%は国内移民)。そして,他の西欧諸国同様,19世紀半ばの工業化と都市化の現象は,スペイン社会に社会・労働問題を噴出させ,カタルニャでは1855年,団結権をかちとるべく大規模なストライキが行われ,やがて,アナーキズムの影響をうけた労働運動の拠点となっていった。
文化面でも19世紀カタルニャは活気に満たされていた。アリバウの〈祖国への賛歌〉(1833)を端緒としたカタルニャ文化の再興運動は,19世紀末に〈カタルニャ・ルネサンス〉として開花し,詩人マラガル,思想家オルス,音楽家アルベニス,建築家のガウディらが輩出した。スペイン帝国の遺産である植民地を米西戦争の敗北(1898)により失い,総じて悲観的なカスティリャ知識人とは対照的に,カタルニャでは未来に対して楽観的な雰囲気が漂っていたと言える。
1932年9月,第二共和国の1931年憲法によってカタルニャは自治令を獲得した。それはアストゥリアス革命(1934)後に一時失効したが,左派(人民戦線)が勝利した36年2月の総選挙後,再度カタルニャは自治令を掌中にした。この総選挙では,カタルニャにおいても左派が自治政府の実権を握り,その約半年後に勃発した内戦では,共和国陣営の牙城の一つとなった。しかしフランコ将軍率いる国民戦線への抵抗がつづく一方で,カタルニャの政党間の対立が顕在化して,陣営内の内戦にまで発展し,結局,39年2月,カタルニャは完全にフランコ将軍の軍門にくだった。
内戦最中の1938年10月に自治令を破棄したフランコ体制は,内戦後も国家行政単位としての地方を廃止し,権威主義に依拠した画一的な国家建設を目ざした。だが,フランコ以後の民主化路線が到達した1978年憲法では,スペイン国家の多様性を尊重して,諸地方の歴史的主体性と自治の権利を認め,保障した。そして,79年10月25日に憲法の規定に従い,自治令が住民投票にかけられた結果,カタルニャは約40年ぶりに自治令を獲得した。
執筆者:フアン・ソペーニャ
美術
スペインにおけるカタルニャ地方の自立志向の強さは,美術においてはっきりと現れる。まずギリシア人植民市であったエンポリオンの遺跡,ローマ時代のタラゴナの水道橋,続いて西ゴート時代のタラサの重要な教会堂群が地中海世界との強い結びつきを示す。イスラム支配は免れたが,馬蹄形アーチ,パルメットを溝彫した柱頭などのイスラムやモサラベの要素が入り込み(サン・ミゲル・デ・クシャ,リポル),かえって新しい活力を生む。例えば図柄を表面に残して地を彫りくぼめ細部を繊細に仕上げる溝彫技法は,11世紀初めのピレネー山麓の大理石工房で継続され,イスラム風の植物文に始まり,人物をアーチ形の枠にはめ込んで表すまでに発展し(サン・ジュニ・デ・フォンテーヌ),ロマネスク彫刻誕生の一局面をなしている(12世紀以降は逆に彫刻の新しい流れは南西フランスから入る)。ヘロナ大聖堂の刺繡(〈天地創造〉図)やカタルニャ美術館に数多く収められた壁画,テンペラの祭壇画,彩色木彫像(磔刑のキリスト,聖母子)には,強い色彩と輪郭の,表現力に富む民衆的な味わいの濃いロマネスク美術が認められる。14世紀にはゴシック様式が入るが,大聖堂の飛迫(とびぜり)アーチは未発達で,代りに補強壁や礼拝堂が重圧を支えるというこの地方に合った簡素で経済的な解決が見られる。また,外国人芸術家の活躍とともに当地のマルトレルB.Martorellの壁画(バルセロナ大聖堂),フォルメントD.Formentの祭壇衝立(ついたて)彫刻(ポブレット)などが注目される。柱,天蓋,ニッチを備えた壮大な祭壇構成の伝統は,18世紀に当地方出身のチュリゲラ一家の手でチュリゲレスコ様式へと導かれる。常に外へと開かれているカタルニャ美術は,外国の様式への追従ではなく,自己の中で変革し発展させる力を備えており,それは19世紀末のバルセロナの自由で革新的な環境から,ガウディ,ピカソ,続いてミロやダリが世界へと進出して行ったことにも表れている。
執筆者:五十嵐 ミドリ
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