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クメール・ルージュ クメール・ルージュ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

クメール・ルージュ
クメール・ルージュ

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

クメール・ルージュ
くめーるるーじゅ
Khmer Rouge

カンボジアの反政府勢力。「赤いクメールカンボジア人)」の意で、シアヌークが国家元首時代に、国内の革命勢力を総称してこのようによんだことに由来する。通常はその中核組織であったカンボジア共産党勢力、とりわけその主流たるポル・ポト派を意味する。
 カンボジア共産党の前身にあたるカンボジア人民革命党は、1951年にホー・チ・ミンにより解党されたインドシナ共産党から分離する形で結成された。しかし、シアヌークの徹底的な反共政策のもとで沈滞の一途をたどった。組織再建を目ざすカンボジアの共産主義者は、1960年9月にカンボジア共産党を設立。1963年ポル・ポトが党書記に就任したが、シアヌークに弾圧され、まもなくイエン・サリIeng Sary(1930― )らとともに地下に潜行した。もう一人の幹部キュー・サムファンは、シアヌーク政権下で商務相に就任していたが、しだいに孤立、1967年ポル・ポトらと合流した。
 シアヌーク政権は、ベトナム戦争時に北ベトナム軍に対して、その出撃拠点となった「聖域」の提供を行うなど、反米・非同盟路線をとっていた。これを不満としたロン・ノルLon Nol(1913―85)は、1970年4月のクーデターでシアヌークを排除、自ら親米の「クメール共和国」首相に就任した。かくして失脚したシアヌークは、1970年5月に亡命先の北京(ペキン)でそれまで反シアヌーク派であったクメール・ルージュと手を結び、反ロン・ノル=反米のカンボジア民族統一戦線(FUNK)を成立させた。1975年、ベトナム戦争におけるアメリカの敗退を受けてインドシナ全域を席巻(せっけん)した革命機運の高まりのなかに、ついにクメール・ルージュはロン・ノル政権を打倒して首都プノンペンを軍事制圧した。
 1976年4月、クメール・ルージュは当初名目的な国家元首であったシアヌークが辞任すると、キュー・サムファンを元首、ポル・ポトを首相とする「民主カンボジア」を樹立した。ポル・ポト独裁の同国内では、旧体制派、都市住民、知識人、反抗分子は一括して排除の対象とされ、市場、通貨、宗教、家族なども否定され、国民は党指導組織(アンカー)が統括する合作社(サハコー)での強制労働を強いられた。ポル・ポト政権は、カンボジア全土を「キリング・フィールド」killing field(虐殺刑場)と化した文字どおりのジェノサイド(集団虐殺)政権であり、4年間に100万を超えるカンボジア人が生命を奪われたと伝えられる。
 クメール・ルージュの最高指導者ポル・ポトは毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)主義に傾倒しており、強硬な反ベトナム派であったため、ポル・ポト政権の民主カンボジアとベトナムの関係は悪化の一途をたどった。1978年12月、ベトナムはクメール・ルージュ離反分子であるヘン・サムリン、フン・センらを伴ってプノンペンに侵攻、ポル・ポト政権を打倒した。これにより、親ベトナム派のヘン・サムリンを中心とする事実上の傀儡(かいらい)国家「カンボジア人民共和国」(ヘン・サムリン政権、またはプノンペン政権)を樹立した。
 これに反発するASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)諸国や中国は、1982年クメール・ルージュの国際的孤立を克服しつつ反ベトナム抵抗運動を強化すべく、中立主義シアヌーク派の独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC(フンシンペック))、反共ソン・サン派のカンボジア人民民族解放戦線(FNLPK)を含む三派連合政府「民主カンボジア連合政府(CGDK)」の結成を図った。CGDKにはASEAN、中国など、ヘン・サムリン政権には旧ソ連、東欧諸国が同調した。この敵対関係が第三次インドシナ戦争としてのカンボジア国際内戦の基本的構図であった。
 冷戦構造の崩壊に始まる地域・国際環境の激変のもと、ベトナムの撤退、中国・ベトナム関係正常化などの条件が整備されたことを受けて、1991年10月に紛争終結のためのパリ和平協定が成立した。これでカンボジア紛争が終結したわけではなく、局地化はしたものの国内的には依然として深刻な対立が残されていた。しかし、ヘン・サムリン政権とシアヌーク派の間には一定の和解が進み、パリ和平協定に基づいて展開された国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC(アンタック))の支援下に、1993年総選挙が実施され、シアヌークを国王とする「カンボジア王国」が成立した。
 他方クメール・ルージュは、事実上ヘン・サムリン政権を存続したままの総選挙を不満としてこれをボイコットし、ゲリラ的挑戦を続けた。しかし、15年におよぶ戦闘で疲弊し、路線対立に苦しみ、王国政府から非合法化され、かつ中国という後ろ盾を失ったクメール・ルージュは、1996年ナンバー2であったイエン・サリの集団投降、1997年参謀総長タ・モクTa Mok(1926?―2006)によるポル・ポト拘束、1998年ポル・ポト死去という一連の事件を経て衰退の一途をたどり、1999年3月最強硬派タ・モクの逮捕で事実上壊滅の運命を迎えた。
 なお、欧米先進諸国がポスト冷戦期の国際秩序構築との関係で、旧ユーゴスラビアにおける民族浄化問題、インドネシアにおける東チモール問題、あるいはミャンマーにおける人権抑圧などに注目するにに至り、2006年、国連の支援下にクメール・ルージュの犯罪を裁く「カンボジア特別法廷」(ECCC)が始動した。当時から30年余が経過したこともあって裁判は停滞気味であるが、第1号事件として2010年7月、ツールスレン収容所所長カン・ケク・イウKaing Guek Eavに禁錮35年の有罪判決が下った。ほかにヌオン・チアNuon Chea、イエン・サリらクメール・ルージュ元幹部4名を被告とする事件などが係争中である。[黒柳米司]
『世界政治資料編集部編『ポル・ポト政権の犯罪――カンボジア人民革命法廷の記録』(1980・新日本出版社) ▽井川一久著『カンボジア黙示録』(1987・田畑書店) ▽N・シアヌーク著、友田錫監修『シアヌーク最後の賭け』(1988・河出書房新社) ▽F・ポンショー著、北畠霞訳『カンボジア・ゼロ年』(1991・連合出版) ▽小倉貞男著『ポル・ポト派とは?』(1993・岩波ブックレット) ▽C・ペシュー著、友田錫監訳『ポル・ポト派の素顔』(1994・日本放送出版協会)』

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