イギリスの小説家。本名はヨゼフ・テオドール・コンラード・ナリェンチ・コルジェニオフスキ。帝政ロシア治下のポーランド、ボドリア県ベルディチェフで12月3日に生まれる。両親はいずれも地主貴族階級出身で、父アポロはペテルブルグ大学に学び、文学的素養の深い知識人。愛国心が強く、祖国独立のため地下運動に走り、ロシア官憲に逮捕され、流刑に処せられた。7歳で母を、11歳で父を失い孤児となったコンラッドは、以後、母方の伯父の手で育てられるが、やがて海にあこがれ、16歳で単身マルセイユに行き、フランス船の船員となる。20歳のときたまたまイギリス船に乗り組み、これを契機に英語を覚え始めたという。船員生活は1894年(37歳)まで続くが、この間に船長の資格をとり、また帰化手続を済ませイギリス国籍を得ている。彼が訪れた地域は、西インド諸島、東南アジア、オーストラリアをはじめ、アフリカの奥地コンゴ川上流にまで及び、この時期の体験や見聞が、のちに多くの作品の素材となった。
創作欲に駆られ、海上生活中に書き始めた『オールメイアの阿房宮(あぼうきゅう)』は、5年がかりで脱稿し1895年に出版された。第三作『ナーシサス号の黒人』(1897)は野心と自負に満ちた作品で、彼の言によれば、「真の芸術家として立つか立てぬか、この一作に賭(か)けた」ものだった。これは批評家の認めるところとなり、彼の出世作となった。以後約15年間に、代表作、問題作の多くが書かれた。1913年『運命』が成功してようやく暮らしも楽になり、有名作家となるが、むしろ経済的に逼迫(ひっぱく)しつつ不慣れな英語に苦闘していた時期に優れた作品が多い。長編では『ロード・ジム』(1900)、『ノストローモ』(1904)、『密偵』(1907)、『西欧の眼(め)の下に』(1911)、中・短編では『青春』(1898)、『闇(やみ)の奥』(1899)、『台風』(1902)、『秘密の共有者』(1907)などがよく知られている。1924年8月3日、ケント州で没した。
当初コンラッドは、ロマンチックな海洋小説作家あるいは異国情緒の冒険ロマンス作家とみられがちだったが、これは題材や物語の舞台にとらわれた皮相的見方で、今日では、人間の内奥に迫る倫理的作家とされている。文明の陰に潜む悪、物欲がもたらす精神的荒廃、社会的責任と裏切りなど倫理的主題に鋭い感覚をもつ。彼の文学的業績は1940年代以降改めて注目を浴び、現代文学に通じる作家として、高い評価を受けた。
[高見幸郎 2019年1月21日]
『井内雄四郎訳『密偵』(1974・河出書房新社)』▽『篠田一士訳『世界文学全集42 西欧の眼の下に』(1970・集英社)』▽『中野好夫編『コンラッド』(1966・研究社出版)』
ポーランド生れのイギリスの小説家。本名はコルゼニオフスキKorzeniowski。ポーランド独立運動にたずさわる小地主貴族の家に生まれ,幼いころ父母とともにロシアに流される。父母を失い,11歳のときクラクフの叔父に引き取られるが,このころ国外脱出の希望も重なって海への憧れが強まったと思われる。16歳のときマルセイユに移り,船員生活に入ったものの,武器密輸,恋愛,自殺未遂などさまざまなことがあったと伝えられる。20歳のときイギリス船に変わり,1886年には船長試験にも合格し,同年イギリスに帰化した。以後東洋航路の船長,90年には自ら選んでベルギー領コンゴ川蒸気船の船長になった。しかし健康を損ねて94年船員生活をやめ,以前から書きためていたボルネオの白人の退廃を描いた《オールメーヤーの愚行》(1895)を出版。以後執筆に専念し,13冊の長編と多数の中・短編小説を残している。
初期の海洋物では,コンゴ収奪のすさまじさとそれに従事する白人クルツの自己崩壊を描いた中編《闇の奥》(1899作,1902刊),理想主義的な航海士の挫折と自己欺瞞を描いた《ロード・ジム》(1900)が特に優れている。中期には一変して,南アメリカの革命を取り上げた《ノストローモ》(1904)をはじめ,ロンドンのアナーキストを扱った《密偵》(1907),ロシアの革命家たちに材をとった《西欧人の眼に》(1911)などの政治小説を書いている。《機会》(1913)で作家的成功を収め,その後また海洋物に戻っているが,昔日の充実した緊迫感に欠けている。彼の作品は海洋物と政治物にほぼ二分できるが,両者にはポーランドでの政治的幻滅,船員経験,植民地経験が重層的に裏打ちされている。また,人間の実存,政治のメカニズムとその〈被害者〉としての個人といったテーマを提起するとともに,技法の上でも,語り手という役割を物語に組み込む視点の設定などを用いて現実の複雑さをみごとに描き,現代文学に重要な問題を投げかけた。
執筆者:鈴木 建三
ソ連邦の東洋学者。ペテルブルグ大学卒業後,2度にわたって日本に留学し,東京帝国大学などで学ぶ。1917年,二月革命の報を聞いてロシアに帰国,しばらくオリョールで教職につく。22年以降はペトログラード(まもなくレニングラードと改称)大学,ついでモスクワ大学で,いずれも日本学科を主宰し,また31年以後は科学アカデミー東洋学研究所の日本科主任を兼任して,ソ連における日本・朝鮮・中国研究の先鞭をつけるとともに,後進の指導に尽くした。《方丈記》《伊勢物語》,夏目漱石の《こゝろ》など,古典から近代までの多くの作品を翻訳し,各種の和露辞典を編纂した。広い視野をもつ学者で,〈ポリビウスと司馬遷〉〈シェークスピアとその時代〉〈日本におけるトルストイ〉などの研究が,晩年の論文集《西洋と東洋》(1966)に収められている。69年日本政府から勲二等旭日重光章が贈られた。
執筆者:中村 喜和
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…海に囲まれたグレート・ブリテン島に定住した彼らは,1588年にスペインの〈無敵艦隊〉を破って以来,3世紀以上もの間,全世界の海を征服する強大な海洋国家を築いた。だから〈人間と海とが,いわば互いに浸透し合っている国――たいがいの人間の生活に海がはいり込んでいるし,人間の方でも,娯楽なり,旅行なり,または生計の道なりによって,海についてある程度,ないしは何から何まで知っている国〉と,コンラッドの小説《青春》(1902)の中でイギリスが描かれるのも当然であろう。 イギリスの近代小説の発生とほぼ同時に,デフォーの《ロビンソン・クルーソー》(1719)という,今日なお海洋小説の世界的傑作と認められている作品が生まれた。…
…イギリスの作家J.コンラッドの長編小説。1900年刊。…
…東大国文科に学んだS.G.エリセーエフは,一時ペトログラード大学の教壇に立ったが,革命後亡命し,フランスとアメリカ合衆国で多数の日本研究者を育てた。他方,文学,言語学から歴史までの広い範囲にわたって活躍したN.I.コンラッドは,ソビエト期の日本研究者の養成に大きな役割を果たした。 ソビエト時代になると,1920年代にレニングラードとモスクワに東洋学研究所が設けられるなど,東洋学研究全体が新たな飛躍を遂げるが,そのなかで日本研究も従来の成果を踏まえながら,新たな分野を開拓していった。…
※「コンラッド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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