日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゴードン」の意味・わかりやすい解説
ゴードン(Dexter Gordon)
ごーどん
Dexter Gordon
(1923―1990)
アメリカのジャズ・サックス奏者。ロサンゼルスに生まれる。医師の父親がデューク・エリントンやライオネル・ハンプトンなど、著名なジャズ・ミュージシャンを診察していたことからジャズに興味をもち、13歳のときにクラリネットを習いだす。15歳でアルト・サックスも習得し、17歳のときテナー・サックスに専念するようになる。そして高校を中退し、ローカル・バンドに参加してプロ・ミュージシャンの道を歩みだす。
1940年ハンプトンの楽団に入り、リード・アルト奏者のマーシャル・ロイヤルMarshall Royal(1912―95)から教えを受ける。43年退団し、44年にはトランペット奏者ルイ・アームストロングの楽団を経て、歌手のビリー・エクスタインBilly Eckstine(1914―93)率いる史上初のビ・バップ・バンドに参加する。このバンドでテナー・サックス奏者のジーン・アモンズGene Ammons(1925―74)と壮絶なテナー・バトル(交代でソロを取り合い、優劣を競うこと)を演じ、一躍新人テナー奏者として名をあげる。そして1年足らずの同バンド在籍中に、トランペット奏者のディジー・ガレスピー、ファッツ・ナバロFats Navarro(1923―50)といった同僚たちの影響で新しいジャズのスタイルを身につけていく。その後フリーランスとなった彼は、ニューヨークのジャズの中心地、52丁目のジャズ・クラブで、ガレスピーや彼とともにビ・バップを推進したアルト・サックス奏者チャーリー・パーカー、ビ・バップ・ピアノの開祖バド・パウエルらとセッションを重ね、ビ・バップを会得していく。同時にサボイ・レーベルにリーダー作『デクスター・ライズ・アゲイン』(1945)を録音、ほかにも多くのビ・バップ・セッションに参加する。46年ロサンゼルスに戻り、翌年までテナー・サックス奏者ワーデル・グレイWardell Gray(1921―55)とテナー・バトル・チームを組み、アルバムをダイアル・レコードに吹き込み、テナー奏者としての名声を確立させる。50年からグレイとチームを再結成するが、麻薬中毒のため53年以降は活動が停滞する。60年ジャズ・シーンに復帰し、翌61年にはニューヨークに出、ブルーノート・レーベルと契約を交わし、62年には代表作『ゴー』を吹き込む。
同年、初のヨーロッパ・ツアーに出、63年、当時パリ在住のパウエルとの共演アルバム『アワ・マン・イン・パリ』を吹き込み、そのまま帰国せずデンマークのコペンハーゲンに居を構え、76年まで滞在する。コペンハーゲンでは、同地のジャズ・クラブ「カフェ・モンマルトル」に、同じくアメリカから移住してきたピアニスト、ケニー・ドリューKenny Drew(1928―93)らとハウス・バンドを組み出演、地元のスティープル・チェース・レーベルに多くの録音を残す。この間、時折アメリカに戻り、ブルーノート・レーベルにも録音を残す。76年、折からの「ハード・バップ再認識」の気運もあってアメリカに帰国し、再び本国での活動を開始。83年以降は健康を害し演奏は中断していたが、86年公開のバド・パウエルを主人公としたジャズ映画、ベルトラン・タベルニエ監督の『ラウンド・ミッドナイト』で主役を演じ、サウンドトラックも発売された。90年死去。彼のテナー奏法の基礎にはレスター・ヤングの影響が見られるが、パーカーなどとの共演を通し、ビ・バップ・テナー(モダン・テナー)のスタイルを確立させた功績は大きい。
[後藤雅洋]
ゴードン(Douglas Gordon)
ごーどん
Douglas Gordon
(1966― )
イギリスの美術家。スコットランド中部のグラスゴーに生まれる。1984年から1988年までグラスゴー美術学校、1988年から1990年までスレイド美術学校に学ぶ。1993年映像作品『24時間サイコ』を発表、同作品で1996年にターナー賞を受賞した。
1990年代の美術界における顕著な傾向として、多くの現代美術作家が映像作品を手がけたが、ゴードンの『24時間サイコ』はそうした時代の代表的な作品にあげられる。この作品はアルフレッド・ヒッチコック監督の映画『サイコ』(1960)のビデオを、1秒間に約2コマのスロー・モーションで再生するだけのインスタレーションである。テレビ、ビデオの映像は、日本や北米では1秒間に約30コマ、ヨーロッパでは25コマである。そのため1秒2コマの再生スピードは、静止画とも動画とも決めづらい曖昧(あいまい)な映像に感じられ、映画とはまったく違った印象を観る者に与える。
ビデオ・インスタレーション作品には、このほかにも映画『ジキル博士とハイド氏』(1931。ルーベン・マームリアンRouben Mamoulian (1898―1987)監督)を素材に使った『正義の罪人の告白』(1995)や、映画『エクソシスト』(1973。ウィリアム・フリードキンWilliam Friedkin(1935―2023)監督)と第二次世界大戦中に制作された、ルルドの泉の奇跡を描いたジェニファー・ジョーンズJennifer Jones(1919―2009)主演の映画『聖処女』(1943。ヘンリー・キングHenry King(1896―1982)監督)を対比する『闇(やみ)と光のあいだに(ウィリアム・ブレイクの後で)』(1997)などがある。
『24時間サイコ』の成功以降、映像の作家であると紹介されることが多いゴードンであるが、もともとはコンセプチュアル・アートに関心が強かった。短いメッセージを電話などを介して匿名で伝えた記録を展示する『インストラクション』(1994)や、壁に反対語を描いていく『タイトルなしのテキスト(ここでない他の場所のために)』(1996)など文字やことばを使った作品も多い。1997年ベネチア・ビエンナーレで2000年賞、1998年グッゲンハイム美術館とドイツの服飾メーカーのヒューゴ・ボスによって設立されたヒューゴ・ボス賞を受賞。
[野々村文宏]
『市原研太郎著「セルの中の対話――ダグラス・ゴードン インタビュー」(『美術手帖』2001年6月号所収・美術出版社)』▽『Douglas Gordon (catalog, 1999, Centro Cultural de Belem, Lisbon)』
ゴードン(Charles George Gordon)
ごーどん
Charles George Gordon
(1833―1885)
イギリスの軍人。中国名は才登。スコットランドの名門の武人の家に生まれ、士官学校卒業後、クリミア戦争、ついで1860年アロー戦争に従軍し、北京(ペキン)占領、円明園(えんめいえん)焼き討ちに参加した。太平天国を鎮圧するためアメリカ人ウォードが組織した常勝軍が、給料問題などで麻痺(まひ)状態に陥っていたとき、イギリス軍司令官の推挙により、イギリス軍工兵少佐在籍のまま、63年常勝軍の司令官に就任して再建に努力した。以後、常勝軍は李鴻章(りこうしょう)の淮軍(わいぐん)に協力して、忠王李秀成麾下(きか)の太平軍から太倉、松江、蘇州(そしゅう)などの要地を奪回し、清(しん)の勝利に多大な寄与をし、チャイニーズ・ゴードンの名で勇名をうたわれ、清朝は彼に提督の官等を与えた。しかし『太平天国』の著者リンドレーは彼を中国人の正義の事象の圧殺者として口を極めて批判した。帰国後、エジプト・スーダン総督、モーリシャス島司令官、ケープ・タウン植民地軍司令官などを歴任したのち、スーダンのマフディー派の民族反乱鎮圧に総督として再起用され、ハルトゥーム市で10か月籠城(ろうじょう)したすえに戦死した。
[小島晋治]
『リンドレー著、増井経夫・今村与志雄訳『太平天国1~4』(平凡社・東洋文庫)』