日本大百科全書(ニッポニカ) 「クラクフ」の意味・わかりやすい解説
クラクフ
くらくふ
Kraków
ポーランド南東部、マウォポルスカ県の県都。マウォポルスカ地方の文化、科学、産業の中心都市。人口は74万1510(2000)で、ポーランド第三の都市。ドイツ名クラカウKrakau。ビスワ川が南のカルパティア山脈から平野部に出る谷頭部に位置し、都市域はビスワ川左岸の丘にあるバベル城(12~16世紀)を中心とする旧市街を核に両岸に広がる。14世紀から300年間ポーランド王国の首都が置かれ、第二次世界大戦の戦禍を免れたため古い文化遺産を多く残す歴史的都市である。バベルの丘には城のほか、ポーランド王族の墓がある大聖堂(11~14世紀)がある。15世紀の壮大な祭壇画のあるマリアツキ寺院をはじめ、古い教会の数は50以上に及び、14世紀の織物館も残る。クラクフ国立博物館をはじめ美術館も多く、日本の浮世絵などを展示する日本美術・技術センターManggha(マンガ)が1994年に開館。1364年創立のヤギエウォ大学では、かつてコペルニクスが学んでいる。また、市はバルト海と黒海とを結ぶ交通上の要衝で、手工業時代以来の繊維、織物、食品加工、タバコなどの軽工業が発達する。第二次世界大戦後ノバ・フータ地区に鉄鋼コンビナートができ、ポーランド最大の鉄鋼基地として国の経済を支えてきた。
[山本 茂]
歴史
8世紀ごろ城塞(じょうさい)が築かれ、10世紀後半にはチェコ人の支配下に置かれていたが、10世紀末ポーランド領となり、1000年には司教座が置かれた。1241年にはモンゴル人の侵入によって戦禍を受けたが、まもなく復興した。1257年都市法が制定され、1320年にはポーランド王国の首都になり、64年にはヤギエウォ大学が設立された。15世紀には、商業、手工業、文化の著しい発展をみたが、1596年(ジグムント3世が最終的に宮殿を移したのは1611年)のワルシャワ遷都後は市勢が衰えた。第三次ポーランド分割(1795)後はオーストリア領となり、1809年にはナポレオンによってワルシャワ公国に併合された。1815年のウィーン会議では、市とその周辺はロシア、オーストリア、プロイセンの保護下に置かれたクラクフ共和国として自治が許されたが、46年の独立蜂起(どくりつほうき)が敗北すると、ふたたびオーストリアに併合された。その後、オーストリア領ポーランドの政治や文化の中心地となり、第一次世界大戦後ポーランドに復帰した。第二次世界大戦中はドイツ軍の占領地総督府が置かれ、多くのユダヤ系市民がゲットーに監禁され、のち西方40キロメートルにあるオシフィエンチム(アウシュウィッツ)の強制収容所で虐殺された。戦争中、史跡などの破壊は免れ、1945年1月ソ連軍によって解放された。
[安部一郎]
世界遺産の登録
歴史的な建造物が多く残る旧市街が1978年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「クラクフ歴史地区」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部]