コンラート(英語表記)Konrad von Megenberg

改訂新版 世界大百科事典 「コンラート」の意味・わかりやすい解説

コンラート(メーゲンベルクの)
Konrad von Megenberg
生没年:1309?-74

中世ヨーロッパの神学者著作家。エルフルト,パリに学びウィーンのステファン学院の校長となり,1348年以後はレーゲンスブルクの聖堂参事会員となり,またしばしばアビニョン教皇庁に滞在した。約30点の書物を著し,エンゲルベルトEngelbert von Admont(1250ころ-1331)らとともに帝国思想の理論家に数えられる。特にパドバマルシリウスらの反教権的傾向やチェゼナのミカエルらフランシスコ心霊派を辛辣に批判した。
執筆者:


コンラート
Klaus Conrad
生没年:1905-61

ドイツの精神医学者。第2次大戦前は,てんかんの遺伝,双子研究,体質論などに従事したが,ライピチヒ学派に拠って〈形態分析Gestaltanalyse〉を発展させ,失語など脳病理学の分野で業績をあげた。やがて同じ方法を精神分裂病統合失調症)の妄想現象に適用し,1958年に主著《初期分裂病》を刊行して,ユニークな方向を開くとみえたが,3年後にゲッティンゲン大学教授の現職のまま他界した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「コンラート」の意味・わかりやすい解説

コンラート(3世)
こんらーと
Konrad Ⅲ
(1093/94―1152)

ドイツ、シュタウフェン朝初代の神聖ローマ皇帝(在位1138~52)。シュワーベン大公フリードリヒの子。1116年以降フランケン大公。27年ザリエル朝断絶後、ザクセン大公ロタール3世が国王に選ばれたとき、反対派はコンラートを対立国王に推した。ロタールは37年死に際し、ウェルフェン家のハインリヒ傲慢(ごうまん)公(バイエルン・ザクセンの大公兼任)を後継者に指名したが、あまりにも強大な国王の出現を恐れていた諸侯たちは、改めてコンラートを国王に選んだ。その結果、彼は治世期間中、ウェルフェン家との対立に苦しまねばならなかった。38年傲慢公から両大公領を奪ったが、42年にはウェルフェン家と和解して、傲慢公の子、ハインリヒ獅子(しし)公にザクセン大公を返却せねばならなかった。第2回十字軍に加わり、小アジアに渡ったが、病を得て帰還、死に際し、甥(おい)のフリードリヒ・バルバロッサを後継者に指名した。

[平城照介]


コンラート(1世)
こんらーと
Konrad Ⅰ
(?―918)

中世ドイツ王国の初代国王(在位911~918)。ラーンガウ伯コンラートの子。906年父の死後、教会勢力の支持によりフランケン大公となる。911年ルートウィヒ幼児王の死により東フランクのカロリング王統が断絶したとき、ザクセン大公オットーの提唱によりドイツ国王に選出された。ただロートリンゲンだけはコンラートの王権を承認せず、西フランク王国と合体した。コンラートはその回復に努めたが成功せず、また毎年のように侵入を繰り返していたマジャール人に対しても、効果的な防衛を行うことができなかった。対内的には、教会勢力の支持を頼んで、諸部族大公権を抑え、王権の強化を試みたが、これもかえって部族大公の反発を招き、バイエルン大公アルヌルフとの戦いで致命傷を受けた。死に臨み、弟エーベルハルトに王権を譲ることをあきらめ、ザクセン大公ハインリヒを後継者に指名した。

[平城照介]


コンラート(2世)
こんらーと
Konrad Ⅱ
(990ころ―1039)

ドイツ、ザリエル朝初代のドイツ国王・神聖ローマ皇帝(在位1024~39)。シュパイアー伯ハインリヒの子。1024年ハインリヒ2世の死によりザクセン朝が断絶したのち、オットー1世の娘の曽孫(そうそん)にあたるコンラートが国王に選出された。教会勢力と結んで、部族大公の自立化を抑える、前王朝以来の帝国教会政策を踏襲したほか、下級封臣=陪臣層の封に対する世襲権を承認することで、封建大諸侯の勢力をそぎ、ミニステリアーレス層を登用して、王領地の管理運営にあたらせるなどザリエル朝王権の基礎を強化し、シュワーベン大公エルンストの反乱も難なく鎮圧した。対外的には1033年ブルグント王国を合併し、またボレスラフ・クロブリイ死後のポーランドの混乱に乗じてラウジッツを奪回した。

[平城照介]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コンラート」の意味・わかりやすい解説

コンラート
Conrad, Johannes

[生]1839
[没]1915
ドイツの新歴史学派の経済学者。ベルリン大学で自然科学,イェナ大学で国家学を学ぶ。イタリア,イギリス,フランスなどを研究旅行したのちハレ大学教授となり,G.シュモラーを助けて新歴史学派の発展に尽力。主著であり,この学派の代表的教科書『国民経済学研究綱要』 Grundriss zum Studium der Nationalökonomie (4巻,1896~1910) を著わしたほか,『経済学・統計学年鑑』 Jahrbücher für Nationalökonomie und Statistik (1862創刊,B.ヒルデブラントと共同編集) や『国家学事典』 Handwörterbuch der Staatswissenschaften (6巻,90~96) の編集にあたった。

コンラート
Konrad, Nikolai Iosifovich

[生]1891.3.13. リガ
[没]1970.9.30. モスクワ
ソ連の東洋学者。特に日本と中国についての専門家。『日本標準語構文論』 Sintaksis yaponskogo natsional'nogo literaturnogo yazyka (1937) などの著書がある。

コンラート[マールブルク]
Konrad von Marburg

[生]1180頃
[没]1233.7.30. マールブルク
ドイツの異端審問官。 1231年教皇グレゴリウス9世により,ドイツ管区の最初の異端審問官に任命され,マインツにおもむく。その厳格で不遜,不法な審問によって多数の人々を火刑に処したため,人々の恨みを買い,33年暗殺された。

コンラート[パルザーム]
Konrad von Parzham

[生]1818.12.22. グリースバハ,パルザーム
[没]1894.4.21. アルテッチング
聖人。ドイツのカプチン会助修士。ザンクト・アンナ修道院の門番をつとめながら,貧者,児童,巡礼者たちに献身的な慈善を行なった。祝日4月 21日。

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百科事典マイペディア 「コンラート」の意味・わかりやすい解説

コンラート[2世]【コンラート】

ドイツ国王(在位1024年―1039年),神聖ローマ皇帝(在位1027年―1039年)。ザリエル朝の祖。ポーランドを支配下に置き,再度のイタリア遠征でブルグントを獲得,国内諸侯をおさえ,次代ハインリヒ3世とともに帝権の最盛期を築いた。シュパイヤー大聖堂の建立者。

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367日誕生日大事典 「コンラート」の解説

コンラート(ヘレスバハの)

生年月日:1496年6月2日
ドイツのギリシア語学者,人文主義者
1576年没

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世界大百科事典(旧版)内のコンラートの言及

【シュタウフェン朝】より

…すなわち,シュワーベンの最有力諸家が相次いで教皇派に転ずる情勢下で,ひとり王権の堡塁となったシュタウフェン家のフリードリヒに対し,ハインリヒ4世は1079年,シュワーベン大公位を与えるとともにただひとりの王女アグネスを嫁がせる。その2子,シュワーベン大公フリードリヒ2世独眼公(在位1105‐47)とフランケン大公コンラート(後の国王)は,終始ハインリヒ5世の支柱として西南ドイツを固め,王が子なくして死んだ後には,そのザリエル家領を相続し,ドイツ王位の継承権をも主張した。そして,1125年の国王選挙に際して独眼公はザクセン大公ロタール(国王として3世)の前に敗れたが,同王の死(1137)後,今度はコンラートが先王の女婿ウェルフェン家Welfenのハインリヒ倨傲公Heinrich der Stolze(?‐1139)の競争を退けてドイツ国王に選出された。…

【フリードリヒ[2世]】より

…25年第2の妃イザベッラとの結婚を通じてエルサレム王国を取得,29年にはエジプトのアイユーブ朝スルタン,カーミルとの外交協約により同地への支配権を実現する。爾来,彼の政治的関心の重点はイタリアに集中,ドイツへは35年と37年に数ヵ月ずつ,しかも息子ハインリヒ7世の反抗を断ち,次子コンラート4世Konrad IVを王とするために赴いただけで,そこでは直接統治を断念して,領邦諸侯に国王大権を大幅に譲渡した。 一方,シチリア王国では,すでにノルマン諸王の打ち立てた支配伝統をいっそう発展させて,当時としては最も先進的な集権的官僚制統治体制を樹立,31年には中世ヨーロッパ初の国法典《皇帝の書Liber Augustalis》を公布した。…

【ハルトマン】より

…彼は押韻には方言形を避け,中世高地ドイツ語の詩人の言語の発達に寄与した。彼はゴットフリートをはじめ,ルドルフRudolf von Ems(1200ころ‐52ころ),コンラートKonrad von Würzburg(1220‐87)など同時代および後代の詩人たちに大きな影響を与えた。現代文学では《グレゴリウス》を素材としたT.マンの《選ばれし人》(1951)がある。…

【体型】より

…さらに彼は,精神病の正常への移行系列である循環気質,分裂気質,粘着気質とそれぞれの体型とが密接な相関を示すことを明らかにした。K.コンラートは体質型を成長傾向の表現としてとらえ,(1)細長形態,(2)肥満形態,(3)標準形態,(4)発育不良型,(5)発育亢進型,(6)形成不全型,(7)形態不全型に分け,両極性に基づく新しい類型図式を完成した。シェルドンは,発生学的根拠から体格の基本成分を胎生期における胚葉の分化に結びつけ,(1)内胚葉型(内臓型),(2)中胚葉型(身体型),(3)外胚葉型(頭脳型)に分類した。…

※「コンラート」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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