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サライエボ サライエボ Sarajevo

翻訳|Sarajevo

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デジタル大辞泉の解説

サライエボ(Sarajevo)

サラエボ

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

サライエボ
さらいえぼ
Sarajevo

ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。都市人口58万1500(2003推計)。[木村 真]

地誌

同国東部にあり、トレベビッチ、オズレンなどの山々に囲まれ、ボスナ川の支流ミリャツカ川河畔の標高約590メートルに位置する。1991年時点ではムスリム人がほぼ半数で、セルビア人が3割を占めていた。旧ユーゴスラビア時代はさまざまな民族の共存の象徴でもあったが、旧ユーゴスラビア崩壊(1991)後、92年から95年までのボスニア内戦によって住民は離散をしいられ、その後はイスラム化の傾向にあると伝えられる。社会主義時代は金属工業、機械工業が発達したほか、たばこ、ビール、皮革工場なども同地の産業を特徴づけていた。ローマ・カトリックの大司教座、東方正教会の大主教座、旧ユーゴスラビア国内最高位であったイスラム寺院や科学芸術アカデミー、総合大学などの教育研究機関がある。古代ローマ軍の駐屯地であったため、浴場跡などの遺跡が現存する。[木村 真]

歴史

先史時代にはイリリア人が居住し、古代ローマのバルカン進出時には軍駐屯地が置かれた。7世紀には南スラブ諸族が定住、現在の都市の東部にある丘陵に築城し、ブルフ・ボスナとよばれた。15世紀にはオスマン帝国統治下に入り、ボスナ(ボスニア)州の州都となった。この時期、ペルシア語で宮殿を意味するセライseraiにちなんでサライエボとよばれるようになる。ボスナ州の行政の中心地としてモスクや市場、浴場など多くの公共建造物が建てられる一方、アドリア海の貿易都市ドゥブロブニクからの通商路ともなり、17~18世紀にペストや飢餓などにみまわれながらも発展した。
 1878年以降のオーストリア・ハンガリー帝国の占領期には、博物館建設や鉄道敷設など近代化が進められた。しかし1908年同国による併合後、ボスニア地域ではハプスブルク家の支配に抵抗し、南スラブの解放、統一を目ざす青年ボスニアと総称される運動体が形成された。第一次世界大戦のきっかけとなったサライエボ事件は青年ボスニアの青年らによって1914年6月28日引き起こされた。
 第一次世界大戦後はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に編入され、1929年ユーゴスラビア王国と改称後はドリナ州の州都となった。第二次世界大戦後、社会主義国家ユーゴスラビアの構成共和国としてボスニア・ヘルツェゴビナが誕生するとその首都となった。84年には冬季オリンピックの開催地となり、世界に向けてユーゴスラビアの多民族共存政策の成果をアピールしたが、旧ユーゴスラビア崩壊後は92~95年のボスニア内戦で多文化共存の象徴でもあったサライエボの町は破壊され、多くの人命が失われた。95年、ユーゴ紛争を調停したデイトン合意後、復興を開始した。[木村 真]

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