クロアチア共和国の首都。ドイツ名アグラムAgram。人口69万(2001)。クロアティアの政治・経済・文化の中心地で,工業生産高では旧ユーゴスラビアで第1位であった。サバ河畔にあり,ハンガリー盆地の西端とディナル・アルプス山脈の東端に接する位置を占めて,古くから南東ヨーロッパへの交通の要であった。
先史時代の住居跡,ローマ時代の宿営地跡,中世前期の遺跡が発掘されている。1094年,司教座を得て現在のカプトル地区が発展し,西隣するグラデッツも独自の町へ成長していた。後者は1242年ハンガリー王ベーラ4世から自由都市と宣せられたが,同年モンゴル人が両地区を略奪した。16世紀これらを総称するザグレブ名が登場するが,両地区は競合しながら並存,1850年これに郊外を加え初めて一つの町に合併した。以後,特に1880年の大地震後は急速に近代都市に生まれ変わり,19世紀初頭には8000人にすぎなかった住民も世紀末には5万7000を数えた。商業の隆盛と教養ある階層の出現とともに文化的気運もおおいに高まり,セルビアに遅れをとった民族意識もようやく覚醒するに及んで,ガイなどの主唱する民族再生運動(イリュリア運動とも呼ばれる)が1835年に当地に始まった。42年には文化団体マティツァ・イリュリスカ(イリュリア協会,1874年にマティツァ・フルバツスカすなわちクロアチア協会と改称)が設立され,出版事業を中心にセルビアをしのぐ啓蒙活動と南スラブ諸族の統一運動を熱心に展開してゆく。その中心地ザグレブは,この時点ではセルビアのベオグラードより活況を呈していた。ジャコボの司教シュトロスマイエルŠtrosmajer(1815-1905)は67年ユーゴスラビア科学芸術アカデミーをつくり,74年の大学開設を助け,84年自分の収蔵品でアカデミー付属画廊をつくった。
20世紀に入って鉄道網が整うと工業,商業も活気を呈し,第2次大戦中はナチスとファシストの傀儡〈独立クロアチア国〉の主都となったためナチスによる破壊を免れ,戦後の国内経済再建に重要な役割を演ずることになる。戦前はおもに製造工業が発達したが,第1次五ヵ年計画が始まった1947年以降は,重工業に重点が移った。たとえば人民英雄の名を冠した〈ラーデ・コンチャル〉は水力発電機,トランスなど電気関係の機械を,〈五月一日〉は工作機械,ボイラーなどを生産する代表的な企業である。その他織機,化学,食品工業設備,空気調節装置,電極,精密器械,医療器具,計算機,製菓,写真フィルム,光学器械などの工場がある。春秋の大見本市は国際的にも知られ,商業も活況を呈している。
ザグレブは小ウィーンといわれるほど町並みが整然として美しい。たとえば,国立オペラ劇場の設計はウィーンのものと同一であることからもうかがわれるように,中世のバロック様式を用いた建造物が多い。中心はかつてイェラチッチの騎馬像があった人民広場で,周りにホテル,飲食店,土産物店,クルレジャが率いた百科事典研究所や作家同盟のある公共建造物が建ち並ぶ。近くの上町(グラデッツ)には,13世紀の聖マルコ教会,その前で1573年火刑に処せられた農民蜂起の首魁グーベツのレリーフ,クロアチア議会,ナイーブアート画廊,自然史博物館,石の門が目を引く。上町と対峙するカプトルには100mの尖塔をもつネオ・ゴシック式の聖スチェパン大聖堂(1890-1902に改築)と宏壮な大司教館がある。人民広場から中央駅に広がる下町には科学芸術アカデミー,植物園,考古学博物館,民俗学博物館,豊富な蔵書を誇る付属図書館をもつ1874年創立の大学,音楽・美術・舞台芸術の専門学校,アントニオ・ヤニグロが指揮していた国立オペラ劇場,天文台,地球物理学および原子力研究所,人民大学,ラジオ・テレビ局,有名なアニメ撮影所,サッカー競技場がある。人口増加に伴い,サバ川の対岸に広大な新ザグレブ市が出現した。市民の行楽地としては郊外のトシュカナッツやマキシミル公園,故チトー大統領の生地クムロベツ村(北西55km)がある。
執筆者:田中 一生
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クロアチア共和国の首都。オーストリア名アーグラムAgram。クロアチア北西部、サバ川河畔のメドベドニツァMedvednica丘陵の斜面に位置する。ザZaは後方、グレブgrebは丘陵の意。クロアチア第一の都市で、人口77万9145(2001)。中部ヨーロッパや南東ヨーロッパとアドリア海岸とを結ぶ鉄道、道路の要所であり、国際空港がある。旧ユーゴスラビアの近代工業の中心地で、全国の工業生産の約10%をあげていた。とくに機械、金属、電気、化学工業が盛んで、かつてのユーゴでも最大級であった電気機器工場がある。サバ川河畔には国際見本市の会場もある。また、科学芸術アカデミー、総合大学、音楽大学、美術大学、原子力研究所など、教育・研究施設も多い。
[漆原和子]
1094年に司教座が置かれ、1242年タタール人の侵入後、グラデッツGradec(現在の上町地区)が王国自由都市となり、要塞(ようさい)が築かれた。この地区にはゴシック様式の聖マルコ教会、バロック様式の聖カタリナ寺院、ネオ・クラシックのドラスコビツ城がある。また、カプトルKaptol地区には1466年以後、防御の濠(ほり)が巡らされ、この地区には13世紀のフレスコ画のある聖具安置所やゴシック様式の大聖堂を伴った聖ステファン寺院がある。1830年代には南スラブの統一とクロアチアの自治独立運動の中心的都市となり、文学者、政治家のガイが運動を主導した。運動に強い思想的影響を及ぼした司教シュトロスマイエルは、ユーゴスラビア科学・芸術アカデミー(1867)やザグレブ大学(1874)の創設にも加わった。1880年地震にみまわれ、以後、近代都市に生まれかわった。1918年にはセルビア人、クロアチア人、スロベニア人の統一を目ざした国民評議会がザグレブに設立され、単一国家結成の決議がなされた。1941~45年のクロアチア独立国樹立の際にはその首都となった。その後旧ユーゴスラビアに属していたが、1991年クロアチアは独立した。
[漆原和子]
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