日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジェノバ共和国」の意味・わかりやすい解説
ジェノバ共和国
じぇのばきょうわこく
Repubblica di Genova イタリア語
中世、近代イタリアで繁栄した商業国家。12世紀初頭、十字軍支援のための船団がジェノバから聖地に派遣されたのちの都市内の平和を確保するため、特別な誓約団体としての「コムーネ」が成立した。初めコムーネは臨時的な性格のものであったが、やがて恒常化し、事実上の共和国となった。他のイタリア都市と同じくコムーネを形成した中心勢力には封建貴族や司教の家臣が含まれており、その支配領域は東西の海岸や背後の谷に延びていた。また、海上活動の発展とともに、サルデーニャ、エルバ、コルシカへ進出し、13、14世紀にはキオス、レスボス、またコンスタンティノープルに隣接するペラ、さらにクリミア半島、ドン川河口のタナ(アゾフ)などに植民地を建設し、ベネチアと並ぶ地中海の大商業国家を築き上げた。ベネチアの場合は商業活動も植民活動も国家の統制のもとで行われたが、個人主義的な色彩が濃厚であるジェノバにおいては、このような活動も有力な家のグループによって行われ、本国と植民地が対立することもまれではなかった。
都市内ではフィエスキ、グリマルディ、ドリア、スピノラなどの貴族がそれぞれ有力な党派を形成して対立していたために、ジェノバ共和国の歴史はきわめて不安定であった。貴族支配に対する市民の抵抗運動の結果、1339年にはシモーネ・ボッカネグラが終身のドージェ(統領)に就任した(1857年初演のベルディのオペラ『シモン・ボッカネグラ』は有名)。貴族層はドージェ職への就任を拒まれたが、その後も都市政治に大きな影響を及ぼした。貴族や一部の有力市民は都市内に大きな館(やかた)を構え、一族だけでなく、使用人や家臣にあたる者をここに住まわせて勢力を誇示した。このような同族団をジェノバでは「アルベルゴ」とよんだ。また、15世紀初頭には国家に対する債権者の団体であるサン・ジョルジョ銀行が成立し、国家財政を独占し、植民地経営を支配した。しかし、有力家系を中心とする党派の対立は共和国の政治を不安定にし、ミラノやフランスに介入の口実を与えることになり、実際に14世紀以降ジェノバはしばしば外国勢力の支配に服することになった。
1528年、有名な提督アンドレア・ドリアが、それまで従っていたフランスから神聖ローマ皇帝カール5世の側に寝返って共和国の自治を回復した。これ以後共和国の統治は任期2年のドージェが行うことになり、1797年フランス軍の侵入にまで至った。その後一時リグリア共和国となり、1805年から14年までフランスに併合、さらに15年1月にサルデーニャ王国に併合されたことによってジェノバ共和国の歴史は終わった。
[清水廣一郎]