普通にはイタリアの自治共同体をさすことば。歴史的には中世イタリアの自治都市,都市国家をさす。
古来地中海のかけ橋として商業がさかんであったイタリアでは,中世初期の社会的混乱期にも商業活動が存続し,彼らが居住する都市も経済的・政治的機能を維持していた。ランゴバルド時代(6~8世紀)以降,地方行政の中心は都市に置かれていた。とくにイタリアにおけるカロリング家の断絶(888)後の混乱とイスラム教徒,マジャール人の侵入の時代に都市の政治的重要性が増大した。安全を保証する統一的な権力機構が欠如していたので,都市や近隣農村の住民たちは司教に保護を求め,そのまわりに結集した。こうして司教の権威が増大し,都市住民の団結が強まった。すでに10世紀後半には,皇帝やイタリア王が北イタリアの都市住民に特定の権利を認める特許状を授与する例が見られる。ベレンガリオ2世がジェノバの住民に(958),皇帝オットー3世がクレモナの住民に(996),同じくハインリヒ4世がピサおよびルッカの住民に(1081)など。これは,都市住民がすでに団体を結成し,みずからの意志を決定するなんらかの機関を持っていたことを示すものである。10世紀後半~11世紀前半は商業活動の活発化と都市経済の拡大,人口の増大のように都市を中心に社会の変容が進行した時期である。それと共に教会・修道院においても民衆の間においても宗教意識の覚醒が生じた。教会改革と叙任権闘争,異端的民衆宗教運動,巡礼と十字軍など,11世紀を特徴づける諸事件は都市住民の団結をさらに強める働きをした。このようにして,11世紀の末から12世紀前半にかけて北・中部イタリア各地の都市で自治団体としてのコムーネが成立した。その初期の歴史については史料が乏しいが,ジェノバの例は比較的よく知られている。ここでは叙任権闘争による混乱のなかで市民たちが分裂し抗争していたが,ライバルであるピサと競争しながら政治的・商業的発展を行う必要に迫られ,市民を結集した団体であるコンパーニャ・コムニスCompagna communisを結成し,都市の平和を確保することが企てられた。最初の試み(1097)は失敗したが,十字軍に対する増援部隊が出港した後の都市内の秩序を確保するために再建された(1100)。全体を統轄するコンソリconsoliが職務の履行を誓約し,これに対してメンバーが誓約するという〈誓約団体〉であった。その存続期限は最初3年,次いで4年とされ,期限満了後も更新されつつ12世紀中葉まで存続した。対外関係において都市を代表する者は司教であったが,都市政治においてはこの〈誓約団体〉が実権を掌握するにいたった。このようにコムーネは,一時的な〈平和団体〉〈誓約団体〉として結成され,やがて恒常的な都市の政治機構として確立したものと推定される。初期においてはコムーネの語は名詞ではなく,〈全体の〉という意味を持つ形容詞である。12世紀の後半になるとこの語がしだいに名詞化し,伝統的なキウィタスに代わって都市の政治機構を示すようになる。これは,自治都市としてのコムーネの発展を反映したものである。皇帝フリードリヒ1世とロンバルディア都市同盟の争いがコンスタンツの和(1183)によって終結したときをもって,一般に北イタリア諸都市の自治権が確立した時期としている。12世紀末の北・中部イタリアには200から300にのぼるコムーネが存在したと言われる。
初期のコムーネは都市貴族のなかから選ばれたコンソリによって統治された。この都市貴族は大商人,金融業者と共に周辺農村の土地所有者層(とくに下級貴族,騎士)を含んでいた。コムーネは初めから周辺農村に支配地を持つ領域支配権力であり,その性格はコムーネの発展と共に強まった。ロンバルディア同盟の諸都市は司教区の範囲をそれぞれの都市の領域として相互に尊重するという約束をした。この領域がコンタードcontadoであり,各都市はコンタードに根を張っている領主層を武力をもって征服し,彼らに都市移住を強制することによって領域支配の拡大を図った(コンタード征服)。コンタードには大小があるが,日本の小型の県程度の広さを持つ場合が多い。12世紀から13世紀にかけて都市経済の発展とコンタードからの旧領主層の移住によって旧来の都市貴族支配(コンソリ制)は動揺した。このようなコムーネの危機を克服するために採用されたのがポデスタ制である。これはコムーネの政治を他都市出身のしかるべき者(騎士身分で法学を学んだ者が多い)に委任するものである。任期は半年ないし1年,都市法の規定に従って統治を行った。ポデスタ制は,その後もコムーネ体制の続くかぎり都市国家の基本的な枠組みとして存続した。一方,政治から排除されていた商人や手工業者が13世紀中に台頭し,自衛団体であるポポロを結成し,ポデスタを長とするコムーネに対抗した。やがてポポロは,ポデスタを模倣したカピターノ・デル・ポポロ(ポポロの長)を頂点とする〈コムーネのなかのコムーネ〉となった。ポポロの台頭によって,13世紀末からコムーネは〈旧来のコムーネ〉と〈ポポロ〉の複合体となった。両者がそれぞれ評議会,裁判所,特別の条例を持ちながら,全体として一つのコムーネを成していた。なおアルテ(ギルド団体)がポポロの下部組織となっていた所も多い。フィレンツェもその一つで,とくにポポロの勢力が大きく,その最高委員であるプリオーリが都市政府の閣僚にあたる権限を持っていた。ポポロの勢力が強かった都市では,旧来の都市貴族が〈豪族magnati〉,〈貴族nobili〉などと呼ばれ,政治的権利を剝奪されたり制限されたりした。しかし,ポポロを支配していた市民(ポポラーニ)も新興の大商人,金融業者,一部の富裕な手工業者であり,旧来の都市貴族から明確に区別できるものではない。一般の商人や職人などはほぼ完全に政治から排除されていたのである。
12世紀から13世紀にかけてコムーネの〈コンタード征服〉が一応達成されると,各都市は政治的・経済的支配圏の拡大をめざして相互に激しく対立した。この争いはしばしば皇帝や教皇の名の下に(ギベリン,ゲルフ)行われたが,実際には都市間の利害の対立に起因するものが多かった。その結果,大都市による近隣都市の併呑と領域の拡大が進行し,都市国家の危機が生じた。この危機を克服するための手段が一人の手に都市国家の全権力を集中する〈シニョリーア制〉であった。シニョリーア制は早い都市では13世紀前半から,一般には13世紀後半から14世紀前半にかけてしだいに拡大した。この制度自体,必ずしも安定したものではなく,一度成立したシニョリーアが崩壊して,もとのコムーネに戻る例も多かった。しかし,中世経済の全面的後退期である14世紀後半以降になると,シニョリーア制は多くの都市国家で確立した。都市政治から排除されてきた手工業者や下層労働者がシニョリーア制の確立を歓迎する例もしばしば見られる。15世紀には伝統的なコムーネ体制をとり続けている都市はベネチア,フィレンツェ,ルッカなどに限られるようになった。いずれも商人,金融業者の勢力が強固であった都市である。
以上のように,コムーネは事実上の主権国家であった。14世紀の法学者バルトルスは,コムーネのことを〈上位者を認めない都市〉とし,〈都市はそれ自体君主である〉と述べた。南イタリアの場合はアマルフィ,バーリ,ガエタ,ナポリなど早くから活発な商業活動を展開した都市があったが,ノルマン人の征服によって11,12世紀に集権的国家が建設され,さらにこれがホーエンシュタウフェン家に引きつがれたため,都市国家の発展は見られなかった。
→イタリア王国 →シチリア王国 →シニョリーア制
執筆者:清水 廣一郎
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11世紀以降、北・中部イタリアの各地に発達した自治都市。イタリアでは古代以来都市の伝統が存続していたが、都市によってはすでに10世紀末に市民集会を開く権利と慣習をもっていたものもある。この時代には商業の発展、都市人口の増大が生じ、さらに11世紀には教会改革や十字軍のような新たな運動が生じていた。このような激動のなかで都市住民の団結は強まり、やがてコムーネと称する自治団体が各地の都市で出現した。コムーネは、初め平和維持のための一時的な誓約団体であったが、しだいにコンソレ(執政官)を代表とする恒常的な都市の政治機構に発展した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(在位1152~90)は北イタリアのコムーネを弾圧しようとしたが、結局コンスタンツの和(1183)によって都市の自治権を認めざるをえなくなった。コムーネには商人、手工業者だけでなく、周辺農村の領主その他の土地所有者層が参加していたため、コムーネは周辺領域(コンタード)をもつ領域支配権力となった。12、13世紀には都市経済の発展や周辺からの人口流入によってコムーネの政治秩序が動揺した。そのため都市外の有力者に一定期間の行政を委任するポデスタ制が考案された。また、従来政治から排除されていた新興市民層が自衛団体であるポポロを形成し、13世紀後半にはこれをコムーネ内部の重要な機関とした。アルテ(ギルド組織)がその基盤として活用された。しかし、都市政治に参加できる者は事実上限定されており、大多数の小商人、職人は排除されていた。
13世紀以降コムーネ相互の抗争や党派の対立によってコムーネ政治は不安定となり、やがて1人の有力者が都市の全権を掌握するシニョリーア制が成立し、15世紀にはベネチア、フィレンツェなどごく少数の都市を除いて広く普及するようになった。シニョリーア制の成立でコムーネ体制は終わりを告げることになる。なお、農村の都市的集落に成立したコムーネをとくに「農村コムーネ」とよぶ。また、現在でも市町村にあたる地方自治体はコムーネとよばれる。
[清水廣一郎]
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住民共同体,およびそれが支配する自治都市。イタリア北部・中部の神聖ローマ帝国領,教皇領では,皇帝と教皇が叙任権闘争で互いに権威を失墜させたので,両者の任命する都市領主(伯,司教)の地位も弱化した。一方,経済が発展した都市では,人口と勢力の増大した住民は,コムーネ(住民共同体)を結成していたが,この状況を利用して,12世紀初め頃に都市領主から都市の実権を獲得した。コムーネの支配する都市も,コムーネ(住民の自治都市)と呼ばれた。その権力は,名目上は住民全体にあったが,事実上は旧都市領主の家臣,周辺農村の小領主,大商人などいわゆる都市貴族にあった。コムーネは,やがて徴税権,農村支配権など皇帝大権を行使しはじめたので,皇帝フリードリヒ1世は,これを回復すべくイタリアに遠征したが,ロンバルディア同盟に大敗し,1183年のコンスタンツの和約で事実上それを承認した。ここに,主権(皇帝大権)を行使する,都市国家としてのコムーネが誕生した。
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[地方主義]
イタリア人の地縁的な帰属意識は重層的な性格をもっている。都市であれ,農村であれ,日本の市町村に相当するコムーネは,数百年の伝統をもち,大都市域の拡大にともなって都市域に併合される場合を除いて,町村合併などということはない。カンパニリズモ(郷党主義)とも言われるコムーネのまとまりは非常に強い。…
…これらの小都市に王,皇帝の強権は及ばず,市民は自己の責任によって自己の職分をまっとうすることができた。これらの都市を〈コムーネ〉といい,その市民は自律の意識をもつと同時に,神聖ローマ皇帝および東方教会に対して,真のローマ人の子孫という自負を抱くようになり,ここに本来ラテン的な性格をもつ中世文化が封建的クリマの中に成立する。これを〈ローマ的芸術〉すなわちロマネスク(イタリア語ではロマニコromanico)と呼ぶ(ロマネスク美術)。…
…とくに十字軍によってピサが発展し,地中海貿易の重要な拠点としてジェノバとの間に激しい競争を行うようになっただけでなく,アルノ川流域一帯の内陸部に影響力を及ぼすにいたった。
[コムーネの時代]
1115年,女伯カノッサのマティルデMatilde di Canossa(1046‐1115)の死去によってトスカナの支配者がいなくなった。この時期に各都市の自立性が一段と強まり,コムーネが形成されるようになった。…
※「コムーネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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