ジッキンゲン
Franz von Sickingen
生没年:1481-1523
宗教改革期のドイツ帝国騎士で,騎士戦争の指導者。中部ラインのエーベルンスブルクに生まれる。義俠心に富み,多くの私闘をおこなった。1513年,追放された一市民のためにウォルムス市を攻撃したのはその一例である。1518年シュワーベン同盟に属してビュルテンベルク公ウルリヒの討伐に参加。1519年神聖ローマ皇帝の選挙に際しては,騎士の地位回復を期待してカール5世を支持したが,期待が裏切られるや,宗教改革運動の支持に走り,とくに盟友U.vonフッテンの影響のもとに,ルターの擁護,諸侯の打倒を企てた。1522年8月ランダウにライン中・上流域の騎士を集めて,兄弟の契りを交わし,その指導者に推された。同月末からトリール大司教を攻撃し,いわゆる騎士戦争を開始したが,諸侯軍の敏速な対応にあって敗れ,重傷を負い,23年5月7日包囲下の居城ラントシュトゥールLandstuhlで死去した。
執筆者:瀬原 義生
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ジッキンゲン
Sickingen, Franz von
[生]1481.3.2. エーベルンブルク
[没]1523.5.7. ラントシュトゥール
ドイツの帝国騎士。 1522~23年の騎士戦争の指導者の一人で,もう一人の指導者 U.フッテンとともに双璧とされる。フッテンは騎士戦争の理論的指導者であったのに対し,彼は軍事的・政治的指導者であったといわれる。 1517年皇帝マクシミリアン1世に仕え,M.ルターの宗教改革に共鳴して,22年ライン地方,フランケン地方,シュワーベン地方の小貴族から成る同盟の首領となった。同年9月トリエル大司教領を攻撃して騎士戦争の火ぶたを切ったが,諸侯軍に包囲され,ラントシュトゥールの居城で陣没した。
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ジッキンゲン
じっきんげん
Franz von Sickingen
(1481―1523)
宗教改革期のドイツ帝国騎士。騎士戦争の指導者。中部ラインの出身。義侠(ぎきょう)心に富み、おびただしい私闘を行った。1519年神聖ローマ皇帝の選挙に際して、没落しつつある騎士の地位改善を期待してカール5世を支持したが、その期待が裏切られるや宗教改革運動の支持に走り、盟友フッテンと協力して、22年8月ランダウにライン川中・下流の騎士を集め、その指導者に推された。同月末、諸侯打倒の手始めとしてトリール大司教を攻撃し、騎士戦争を開始したが、諸侯軍の敏速な対応にあって敗れ、重傷を負い、23年5月7日、居城ラントシュトゥールで死んだ。
[瀬原義生]
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「ジッキンゲン」の意味・わかりやすい解説
ジッキンゲン
ドイツの帝国騎士。1519年の神聖ローマ皇帝選挙に際してはカール5世を助け,帝国侍従・顧問官に任ぜられた。フッテンの感化で宗教改革に共鳴し,諸侯,特に聖職者諸侯に敵対した。1522年に騎士戦争を起こしたが敗れ,居城ラントシュトゥールで敗死した。
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ジッキンゲン
Franz von Sickingen
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ジッキンゲン
Franz von Sickingen
1481〜1523
ドイツの騎士
没落しつつある騎士の地位回復を期待して,1519年の神聖ローマ皇帝選挙でカール5世を支持したが,その期待を裏切られて宗教改革運動を支持するようになった。ルター・ロイヒリンを擁護,フッテンとともに騎士戦争(1522〜23)を指導して敗死した。
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世界大百科事典(旧版)内のジッキンゲンの言及
【騎士戦争】より
…こうした事態を挽回しようとしたのがこの企てである。首領の[F.vonジッキンゲン]はファルツ地方の富裕な騎士で,部下を率いてしばしば諸侯や都市を襲い,一時フランス王の傭兵となったが,皇帝カール5世の選挙に際しては,諸侯の抑圧,騎士の地位の回復を期待して,その選出を助けた。しかし,その期待が裏切られると,1520年以来,人文主義者,詩人として名高い騎士[U.vonフッテン]と結び,自力による目的達成を期した。…
※「ジッキンゲン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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