改訂新版 世界大百科事典 「騎士戦争」の意味・わかりやすい解説
騎士戦争 (きしせんそう)
Ritterkrieg
宗教改革運動に刺激されて1522-23年に中部ライン地方の帝国騎士が起こした反乱。中世末期ドイツ(神聖ローマ帝国)の帝国騎士は,銃砲の普及,歩兵戦術の比重増加により,その軍事上の意義を失い,また都市経済の繁栄によってその小領地経営にも行き詰まり,さらに領邦諸侯の台頭によって帝国直属身分の地位をも脅かされるにいたり,なかには盗賊騎士に零落する者も現れた。こうした事態を挽回しようとしたのがこの企てである。首領のF.vonジッキンゲンはファルツ地方の富裕な騎士で,部下を率いてしばしば諸侯や都市を襲い,一時フランス王の傭兵となったが,皇帝カール5世の選挙に際しては,諸侯の抑圧,騎士の地位の回復を期待して,その選出を助けた。しかし,その期待が裏切られると,1520年以来,人文主義者,詩人として名高い騎士U.vonフッテンと結び,自力による目的達成を期した。2人はかねて傾倒していたルターを戴いて,反ローマの一大運動を起こすべく,その拠点としてトリール大司教兼選帝侯領の奪取を意図した。22年8月13日ジッキンゲンはランダウLandauに騎士会議を招集し,中部ライン,フランケンの多くの騎士と兄弟団の誓いを交わし,8月27日大司教に挑戦状を発し,9月7日軍勢を率いてトリール市の前に現れた。しかし,この都市を陥れることはできず,大司教はファルツ選帝侯,ヘッセン方伯の援軍をえて,反撃に移った。加盟騎士は諸侯側の敏速かつ集中的な攻撃に脅かされ,その多くの城を破壊されて,ジッキンゲンを見棄てた。ジッキンゲンは居城ラントシュトゥールに立て籠ったが,23年4月末諸侯軍はこれを包囲して砲撃を加え,5月7日城は陥落し,同日ジッキンゲンは重傷のため死去した。フッテンはチューリヒに亡命したが,同年8月末に病死。この敗北により独立した団体としての騎士の勢力は消滅し,諸侯に従属する存在と化した。
執筆者:瀬原 義生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報