ジンバブウェ(英語表記)Zimbabwe

翻訳|Zimbabwe

改訂新版 世界大百科事典 「ジンバブウェ」の意味・わかりやすい解説

ジンバブウェ
Zimbabwe

基本情報
正式名称=ジンバブウェ共和国Republic of Zimbabwe 
面積=39万0757km2 
人口(2010)=1257万人 
首都=ハラレHarare(日本との時差=-7時間) 
主要言語=英語,ショナ語,ヌデベレ語 
通貨=ジンバブウェ・ドルZimbabwe Dollar

南部アフリカの内陸にある独立国。イギリス領時代は南ローデシアSouthern Rhodesia,あるいはローデシアRhodesiaと呼ばれた。長い白人支配を脱して1980年に独立した。国名はジンバブウェ遺跡にちなむ。

国土は南部アフリカ高原盆地に含まれ,南西から北東に横断する標高1200~1500mのいわゆるハイ・ベルト部が,北側のザンベジ川水系と南側のリンポポ川水系,サベ川水系の分水界となり,また国民経済の中枢部となっている。ハイ・ベルトの両側には標高900~1200mのミドル・ベルトが広がり,北境部と南境部は900m以下のロー・ベルトとなる。東部のモザンビークとの国境部には1800mをこえる山地があり,イニャンガ山地のイニャンガニ山(2592m)は国内の最高点となり,チマニマニ山地のビンガ山(2436m)と対峙(たいじ)する。なお両山地とも国立公園に指定されている。南緯16~22°の内陸に位置するため,熱帯半乾燥の気候下にあり,季節としては11~3月の雨季と5~8月の乾季が対照される。気温は7月を最涼,10月を最暖とし,最も涼しいハイ・ベルトでの月平均気温は13~22℃,最も暑いザンベジ河谷のロー・ベルトでは20~30℃を示す。降水量は雨季に90%以上が集中する。年による変動が南西へいくほど大きくなるが,平均は東部山地の1200mm以上を最多に,ハイ・ベルトの北東部で800~900mm,南西部で500~600mm,最少のリンポポ低地で300~400mmである。
執筆者:

バントゥー系のショナ族Shonaが70%の多数を占め,そのほかヌデベレ(ンデベレ)族Ndebeleが16%を占める。白人の人口は減少したが,なお約1%を占め,アジア人も少数だが居住している。ショナ族はこの地に定着して以来,かずかずの王国を形成した。トウモロコシを主作物として,雑穀,イネ,マメ類,イモ類を栽培する農耕民で,牛,ヤギ,鶏などを飼育している。植民地時代から白人の入植がさかんで,肥沃な土地の90%は白人の経営する農場に独占されていた。1977年にアフリカ人の土地制限が解除されるまで,アフリカ人は居留地に限られていたが,資金不足のため土地を手に入れることが困難で,全体として農業生産は低落している。これに加えて,近年は隣国モザンビークから多くの難民が流入し,深刻な社会問題が発生している。

 公用語は英語であるが,ショナ語,ヌデベレ語も広く用いられている。宗教はキリスト教が浸透しているが,部族の伝統的な宗教も強く残存している。
執筆者:

石器時代この地域には,現在のサンに近い狩猟採集民が居住していたが,2世紀ころ,バントゥー族が大移動によって北方から侵入して集落を建設した。9世紀ころ,ショナ族が北方ないしは南方からこの地に移住して農耕,牧畜を主とする生産様式を確立するとともに,金の採掘によって富を蓄え,東アフリカ沿岸地域との貿易に従事した。また,ジンバブウェ(石の家)と呼ばれる巨大な石造建築を各地に建設し,モノモタパ王国,ついでロズウィ王国などの強大な王国が19世紀中ごろまで栄え,内陸部に進出してきたポルトガルに対抗した。

 19世紀に入ると,南方からヌデベレ族が侵入し,ショナ族の王国を滅ぼして王国を築いた。ヌデベレ族の王ローベングラは,この地域への進出を企てていたC.J.ローズとのあいだに協定を結び,金銭およびライフルと引換えに一部の地域の鉱山採掘権を与えた。しかしローズはこの協定を無視して全地域にわたる支配権の掌握をめざし,1889年特許会社のイギリス南アフリカ会社を設立した。ヌデベレ族は93年,そして96-97年にショナ族とともに反乱を起こしてヨーロッパ人の侵入に対抗したが,圧倒的な武力のまえに鎮圧された。また,この時期に現在の国境線が確定し,この地域はローズの名にちなんでローデシアと名づけられた。

 1922年イギリス南アフリカ会社は経営の行詰りを理由に,ローデシアの統治権を放棄することを決定した。イギリス政府は南アフリカ連邦への統合を望んだが,白人住民はこれに反対し,翌23年イギリスの自治植民地南ローデシア(現,ジンバブウェ)が,24年直轄植民地北ローデシア(現,ザンビア)がそれぞれ成立した。しかしアフリカ人は人種差別法によって政治参加への道を事実上閉ざされ,また経済的にも従属的な地位におかれ,以後ジンバブウェの独立までこの状態が続くことになった。第2次大戦後,南ローデシアの白人政権は,北ローデシアの銅とニヤサランド(現,マラウィ)の労働力に着目して3植民地の連邦化を推進,53年ローデシア・ニヤサランド連邦を結成した。

 60年代に入って,他のアフリカ植民地が次々に独立し,また63年に連邦が解体するに伴い,南ローデシアの白人政権は少数白人支配体制における独立をめざして宗主国イギリスと交渉に入った。アフリカ人ナショナリズム運動も,多数支配の即時実現を要求して活動を展開したが,白人政権の弾圧によって成果を上げるにいたらなかった。イギリス政府は独立の条件として多数支配への漸進的移行,および人種差別の撤廃を主張したが,白人政権はこれを拒否して65年11月11日,ローデシアとして一方的独立宣言を行った。イギリス政府はただちに経済制裁を科する一方で,和解交渉を断続的に行ったが実を結ばなかった。一方,ローデシアは白人支配体制をさらに強化する方向へと向かい,70年3月,共和制へと移行した。また,一方的独立宣言以後,段階的に実施された国連の経済制裁も,南アフリカ共和国などがこれを無視したために十分な効果を生みだすことができなかった。

 74年4月のポルトガルでのクーデタと,それに続く75年のモザンビーク,アンゴラの独立は,南部アフリカの白人支配体制に多大の影響を与えたが,とりわけローデシアの政治情勢にとっては,転換点となるものであった。また,1972年末から開始されたアフリカ人解放組織の本格的なゲリラ闘争も,しだいに成果を上げはじめた。76年10月,白人政権はアメリカ合衆国,南ア共和国,および周辺ブラック・アフリカ諸国の圧力によって,2年以内の多数支配への移行を骨子とする英米共同提案を受諾した。イギリス政府はこれを受けて,白人政権,アフリカ人解放組織の代表等とジュネーブ暫定政府樹立のための会議を開催したが,同年12月,意見の対立から会議は決裂した。その後,白人政権は77年9月に新たに提示された英米共同提案を拒否して独自に解決への道を模索し,78年3月,穏健派のアフリカ人解放組織の代表等と,暫定政府の構成および新憲法に関する協定を締結した。そして79年1月に新憲法に関する住民投票,4月に総選挙が実施され,同年6月,実質的には白人優位体制を温存した多数支配国家ジンバブウェ・ローデシアが発足した。しかし国連安全保障理事会は総選挙の無効を決議して経済制裁を続行し,急進派の解放組織ジンバブウェ・アフリカ民族同盟(ZANU),ジンバブウェ・アフリカ人民同盟ZAPU)もこの新国家を認めず武力解放闘争を激化させた。他方,イギリス政府はアフリカ諸国を中心とする国際世論に押され,79年8月,イギリス連邦首脳会議において全当事者会議(制憲会議)の開催を約束した。同年9月,ジンバブウェ・ローデシア政府,急進派解放組織の各代表がロンドンに集まり,12月にイギリス政府を含めて全当事者は新憲法,停戦協定,暫定期間の取決めに関して合意に達した。その後,暫定的なイギリスの直接統治と80年2月の独立総選挙を経て,同年4月18日,国際的に承認された多数支配体制のジンバブウェが誕生した。独立に際して,多数派ショナ族を基盤にしたZANUのムガベ首相が政権を握った。しかし,ムガベ首相は少数派ヌデベレ族を基盤とするZAPUと連立し,白人を閣僚に迎えるなど全民族融和の方針をとった。

ジンバブウェには,独立するまでの約60年間,少数白人支配体制が敷かれてきた。この体制は多数支配にもとづく独立を契機に一掃されたが,独立憲法には少数白人の保護という観点から特別規定が盛り込まれ,議会には白人指定議席が設置されていた。この議席は,憲法に定められた有効期限の満了に伴い1987年8月に全廃された。統治形態は共和制であり,87年12月,これまでの形式的な権限しかもたなかった大統領制から強力な権限をもつ実権大統領制へと合法的な手続を経て移行した。議会は二院制であったが,90年3月から一院制(定員150,うち120が直接選挙による)になった。政権党であるジンバブウェ・アフリカ民族同盟愛国戦線ZANU-PF(かつてのZANU)は89年12月,野党第一党の愛国戦線ジンバブウェ・アフリカ人民同盟PF-ZAPU(かつてのZAPU)を正式に吸収合併した。なお政治結社の自由は憲法によって保障されている。90年3月の大統領・国会選挙では,ムガベが大統領に再選され(さらに1996年の大統領選で3選),ZANU-PFは圧勝,95年の総選挙でも有力野党がボイコットするなか同党が議席の大半を占める結果となった。

 ZANU-PF政権は,人種的和解と社会主義社会の建設を政府の基本方針として打ち出し,また,外交政策の根本原理として非同盟を唱えている。南ア共和国との関係については,その人種差別政策を激しく非難し,独立後に外交関係を断絶したが,経済関係は続いた。独立以来,現政権にとって最大の課題であった旧政府軍と解放軍各派の統合は81年11月に完了し,総兵力6万3000の国軍が誕生した。

ジンバブウェ経済の特徴は,発達した農業(商業農業),製造業,鉱業をもつとともに,これら各部門を外部世界につなぐ鉄道を中心とするインフラストラクチャーが完備している点にある。また,主要輸出品はトウモロコシ,タバコ,サトウキビなどの農産物,および金,アスベスト,ニッケル,銅,クロムなどの鉱産物であるが,それが非常に多様化していること,さらに輸入代替工業が存在することなどもあわせて,他のブラック・アフリカ諸国にはないこの国の経済的特色となっている。ローデシアの誕生以来1960年代前半まで,その経済構造は基本的には金とタバコを主たる輸出品とするモノカルチャー経済であったが,経済制裁下の60年代後半から70年代前半に経済は急速に成長し,農産物,鉱産物が多様化するとともに,輸入代替用の製造業が発展した。また91年には世界銀行・IMF主導の構造調整5ヵ年計画を策定した。

 しかし経済上の問題点は,主要な生産部門である農業,製造業,鉱業における生産手段のほとんどが白人の手に握られていることである。たとえば農業は,白人の商業農業部門とアフリカ人の自給的農業部門の二つに分けられ,前者が主食作物のトウモロコシの約60%を生産し,主要商品作物の大豆,綿花,小麦,コーヒーなどの生産においても80%以上を占める。このような階級的関係が人種的関係にほぼ一致する経済構造は自治植民地時代の遺産であり,この問題の解消が政府の大きな課題となっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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