ローズ(読み)ろーず(英語表記)Cecil Rhodes

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローズ」の意味・わかりやすい解説

ローズ(Peter Edward Rose Sr.)
ろーず
Peter Edward Rose Sr.
(1941― )

アメリカのプロ野球選手(右投左右打)、監督。大リーグ(メジャー・リーグ)のシンシナティ・レッズフィラデルフィア・フィリーズ、モントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)で一塁手、二塁手、三塁手、外野手としてプレー。全力プレーで「チャーリー・ハッスル」とよばれて親しまれた。4256本の通算最多安打記録の保持者。1984年からはレッズで監督も務めた。

 4月14日、オハイオ州シンシナティで生まれる。1960年、レッズに入団。1963年大リーグに昇格し、打率2割7分3厘、ホームラン6本、打点41、盗塁13をマークして新人王に選ばれた。1965年に打率3割1分2厘をマークすると、1973年まで9年連続して打率3割以上を記録。その間、1968年、1969年、1973年と3回首位打者を獲得した。なかでも1973年は地区優勝に貢献し、最優秀選手(MVP)にも選ばれた。1975年から、ふたたび5年連続打率3割以上をマーク。当時、チームは黄金時代を迎えており、万能二塁手ジョー・モーガンJoe Leonard Morgan(1943―2020)、長距離砲ジョージ・フォスターGeorge Arthur Foster(1948― )、主砲ジョニー・ベンチらとともに強力な打線を形成して「ビッグレッド・マシン」とよばれ、1975年と1976年に2年連続してワールド・シリーズを制した。1978年にはナショナル・リーグのタイ記録となる44試合連続安打を達成。翌1979年にフィリーズへ移籍。1984年にはエクスポズに移ったが、同年途中でレッズに戻り、監督兼任となった。1986年限りで選手としては解雇されて引退となったが、引き続き監督として指揮はとった。しかし、野球賭博(とばく)により1989年8月に永久追放となった。以降、球界への復権運動を続けている。

 選手としての24年間の通算成績は、出場試合3562、安打4256、打率3割3厘、本塁打160、打点1314。獲得したおもなタイトルは、新人王、首位打者3回、最多安打7回、MVP1回、ゴールドグラブ賞2回。監督としての通算成績(6年)は412勝373敗。

[山下 健]

『ピート・ローズ著、伊東一雄監修・訳『挑戦する624人の大リーガー』(1988・日之出出版)』『ピート・ローズ、ボブ・ハーツェル共著、池田郁雄訳『ピート・ローズの野球教室』(1981・ベースボール・マガジン社)』『ピート・ローズ著、土屋一重訳『ピート・ローズのハッスル野球教室』(1979・報知新聞社)』


ローズ(Karl Derrick Rhodes)
ろーず
Karl Derrick Rhodes
(1968― )

プロ野球選手(外野手:左投左打)。8月21日、アメリカのオハイオ州生まれ。タフィ・ローズとよばれる。1986年大リーグ(メジャー・リーグ)のドラフトでヒューストン・アストロズから3巡目に指名されて、ウェスタンヒルズ高からプロ入り。俊足の外野手として期待され、1990年大リーグにデビューした。1993年のシーズン途中でシカゴ・カブスにトレードされたが、94年には史上初となる開幕戦での3打席連続ホームランで注目を浴びた。1996年(平成8)日本に渡り近鉄バファローズ(後の大阪近鉄バファローズ。2005年オリックス・ブルーウェーブに吸収合併されてオリックス・バファローズとなる)へ入団。最初の3年間はホームラン20本台と2桁(けた)盗塁を維持し、4年目の1999年にはホームラン40本と101打点で二冠王となった。2001年には2回目の本塁打王に輝き、しかも、王貞治(さだはる)に並ぶプロ野球タイ記録(2007年現在)となる55本目を松坂大輔(だいすけ)から放ち、日本中を沸かせた。同年、近鉄は12年ぶりのリーグ優勝、その原動力となったことが評価され、最優秀選手(MVP)にも選ばれた。2002年は2回目の打点王を、03年は本塁打王を獲得。読売ジャイアンツ(巨人)に移籍した2004年はホームラン45本を打ち、セントラル・リーグでも本塁打王となった。2005年は右肩の故障で不本意な成績に終わったうえ、審判員に対する暴言で退場させられるなどマナーの悪さへの批判も重なり、シーズン終了後に球団から戦力外通告を受けた。2006年2月には大リーグ復帰を目ざしてシンシナティ・レッズとマイナー契約を交わすが、オープン戦で結果を残せず、現役引退を発表した。その後、日本球界への復帰を熱望。2007年からはオリックス・バファローズでプレーすることとなった。

[出村義和]

 大リーグでの6年間の通算成績は、出場試合225、安打132、打率2割2分4厘、本塁打13、打点44。2007年までの日本での通算成績は、出場試合1448、安打1563、打率2割8分5厘、本塁打402、打点1089。獲得したおもなタイトルは、本塁打王4回、打点王2回、最優秀選手(MVP)1回、ベストナイン6回。

[編集部]


ローズ(Cecil Rhodes)
ろーず
Cecil Rhodes
(1853―1902)

イギリスの南アフリカ植民地行政官、鉱山主。16歳のとき、結核療養のため、ナタール植民地で綿花栽培に従事していた長兄を頼ってアフリカに渡った。1871年に、ダイヤモンド鉱が発見されたキンバリーに移って鉱山業に転じ成功を収め、1891年には世界のダイヤモンド生産の90%を支配するに至った。1887年にはトランスバール共和国で発見された金鉱にも出資し、事業を拡大した。一方、1889年からは、南アフリカ特許会社(イギリス南アフリカ会社)を通してマジュナ人、マタベリ人の土地を攻略し、イギリス本国の4倍を超える広大な地域の統治権をイギリス政府から承認され、彼の名にちなんでローデシアと命名した。彼の最大の目的は、イギリスの支配する世界帝国建設にあり、1881年にケープ植民地議会議員として政界入りし、1890年同植民地首相に就任後は、いわゆる三C政策を提唱して北方への植民地拡大を企てた。しかし、1895年トランスバール共和国への侵攻作戦を強行して失敗(ジェームソン侵入事件)、辞任を余儀なくされた。以後再起はならず、1902年失意のうちにケープで死去した。なお、彼の学問への愛着は著しく、オックスフォード大学の学士号を8年がかりで取得、遺産の一部は同大学のローズ奨学金設立にあてられた。

[石井摩耶子]

『鈴木正四著『セシル・ローズ』(1980・誠文堂新光社)』


ローズ(Irwin Rose)
ろーず
Irwin Rose
(1926―2015)

アメリカの生化学者。ニューヨーク州生まれ。ワシントン州立大学を卒業後、第二次世界大戦終戦時までアメリカ海軍の無線技師を務める。1949年にシカゴ大学で生化学の博士号を取得。その後、アメリカで初めて設立された国立癌(がん)センターであるフォックス・チェイス癌センターの研究者となった。同センターを退職した後は、カリフォルニア大学アーバイン校医学部生理学・生物物理学科の専門研究員となる。

 イスラエルからサバティカル休暇(研究などのための長期休暇)でフォックス・チェイス癌センターに来たイスラエルの生化学者チカノバー、ハーシュコとともに、1970年代からタンパク質の分解に関するメカニズムを研究した。その研究でアミノ酸が76個つながっている小さなタンパク質ユビキチンに注目。ユビキチンはアデノシン三リン酸(ATP)によって活性化することを発見し、生体で不要になったタンパク質に結合するとそれが合図となり、タンパク質プロテアソームという分解酵素によって分解されることを解明した。このメカニズムが明らかになるとともに細胞の分裂、デオキシリボ核酸(DNA)の修復、タンパク質の品質管理、免疫のシステムなどに関する仕組みもわかるようになった。この業績により、2004年にチカノバー、ハーシュコとともにノーベル化学賞を受賞した。

[馬場錬成]


ローズ(Sir John Bennet Lawes)
ろーず
Sir John Bennet Lawes
(1814―1900)

イギリスの農芸化学者。小地主の家に生まれ、オックスフォード大学でドーベニーC.G.B. Daubeny(1795―1867)に学ぶ。リービヒの植物の栄養は無機物でよいとする考えに影響を受け、1842年糞石(ふんせき)や燐灰(りんかい)石(アパタイト)に硫酸を作用させて過燐酸石灰をつくる特許を取得し、翌1843年デットフォードに工場を建て、最初の人造肥料過燐酸石灰の生産を行った。また、リービヒ門下のギルバートとともに、故郷のハートフォードシャー、ロザムステッドに最初の農事試験所を設けた。

[道家達將]

『J.R. PartingtonA History of Chemistry(1964, Macmillan)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ローズ」の意味・わかりやすい解説

ローズ
Rhodes, Cecil

[生]1853.7.5. ビショップズストーフォード
[没]1902.3.26. ケープ植民地,メイゼンバーグ
イギリス出身の南アフリカの政治家。19世紀イギリス帝国史上有数の植民地開拓者の一人。牧師 F.ローズの 5男として生まれた。1870年南アフリカに移住。オックスフォード大学を卒業したのち,1881年ケープ植民地議会議員となった。1889年のちにローズの名にちなんでローデシア(今日のザンビアジンバブエ)と名づけられた地方の開発のため,ビクトリア女王からイギリス南アフリカ会社設立の特許状を付与された。その間,ロスチャイルド家の資金援助を得てダイヤモンド鉱山の買収,併合を強行し,またトランスバールの金鉱の併合にも成功して巨富をなした(→デビアス・コンソリデーテッド・マインズ)。1890年ケープ植民地の首相に就任。在任中は教育,農業振興,先住民政策,鉄道の開発などに力を尽くしたが,外政面ではトランスバール共和国をケープ植民地を中心とする南アフリカ連邦に併合する目的で,ジェームソン侵攻事件として知られる非常手段をとったため,1896年首相辞任を余儀なくされた。その後一個人としてローデシアに赴き,同地の開発に専念した。ケープ植民地で死亡。遺言により財産の大半 600万ポンドは各種公共事業に寄付された。重要なものの一つにオックスフォード大学ローズ奨学制度がある。

ローズ
Rose, Pete

[生]1941.4.14. オハイオ,シンシナティ
アメリカ合衆国のプロ野球選手。フルネーム Peter Edward Rose。万能選手として活躍し,1985年タイ・カッブのもつ通算 4191本安打の大記録を塗り替えた。シンシナティ・レッズのマイナーチームで 3シーズンプレーしたのち,1963年大リーグに昇格。ほどなく 1番打者に定着し,その年のナショナルリーグ新人王に輝いた。1968,1969年と 2年連続でリーグ首位打者のタイトルを獲得。1973年には自己最多の年間 230本安打を放って 3度目の首位打者となり,リーグ最優秀選手 MVPに選ばれた。1970~76年レッズは地区優勝 5回,リーグ優勝 4回,ワールドシリーズ制覇 2回の快進撃で「ビッグレッドマシン」と呼ばれ,ローズはその中心的存在として活躍。1986年の引退までに,通算 3562試合出場,1万4053打数,4256本安打,2165得点という当時の歴代最多記録を残し,年間 200本安打を 10回達成する前人未到の記録を打ち立てた。終身打率は 3割3厘。引退後も監督としてレッズにとどまったが,1989年レッズを含むスポーツチームを対象とした賭博行為に関与した疑いで,球界からの永久追放処分を受けた。この決定により,野球殿堂入りの資格を失った。

ローズ
Rose, Murray

[生]1939.1.6. イギリス,バーミンガム
[没]2012.4.15. オーストラリア,シドニー
オーストラリアの競泳選手。フルネーム Iain Murray Rose。1500m自由形で世界で初めて 18分を切り,9年間の現役生活で 15個の世界記録を樹立した。17歳で出場した 1956年メルボルン・オリンピック競技大会で 400m自由形,1500m自由形,800mリレーに優勝し,1大会で 3個の金メダルを獲得した最年少記録を打ち立てた。1960年ローマ・オリンピック競技大会では 400m自由形で史上初の 2連覇を達成。1500m自由形で銀メダル,800mリレーで銅メダルを獲得した。1964年に 880ヤード自由形と 1500m自由形の世界記録を更新したが,国内選考会に出場していなかったため同 1964年に開催された東京オリンピック競技大会の出場は逃した。1965年,第1回目の国際水泳殿堂入り選手の一人に選ばれた。腕や足よりも肩と背中の力を重視した革新的な泳法で知られた。2000年シドニー・オリンピック競技大会の開会式では,オリンピック競技大会旗を運ぶ 8人の旗手の一人を務めた。

ローズ
Rose, Irwin

[生]1926.7.16. ニューヨーク,ブルックリン
[没]2015.6.2. マサチューセッツ,ディアフィールド
アメリカ合衆国の生化学者。1952年シカゴ大学で博士号を取得。1954年から 1963年までエール大学医学部に勤務。1963年から 1995年までフォックスチェイス癌センターのシニアメンバーを務め,1997年からカリフォルニア大学アーバイン校の生理学・生物物理学科に所属。1970年代後半から 1980年代前半にかけて,イスラエルのアブラム・ハーシュコ,アーロン・チカノバーとともに蛋白質の分解について研究を行ない,ユビキチンという小さな蛋白質が不要となった蛋白質に結合し,プロテアソームという酵素によって分解される仕組みを発見した。この業績により,2004年ハーシュコ,チカノバーとともにノーベル化学賞を受賞した。

ローズ
Rhodes, James Ford

[生]1848.5.1. オハイオ,クリーブランド
[没]1927.1.22. ニューヨーク
アメリカの実業家,歴史家。 1874~85年鉱業に従事。 85年実業界から引退し,以後歴史著述に専心。 1906年『1850年の妥協以後の合衆国史』 History of the United States from the Compromise of 1850 (7巻,1893~1906) を完成。 1877年の南部自治復活までを扱ったこの著作は,豊富な資料を駆使した公平な歴史著述として有名。ほかに『南北戦争史』 The History of the Civil War,1861-1865 (17) ,『ヘーズからマッキンレーまでのアメリカ合衆国史』 History of the United States from Hayes to McKinley,1877-1896 (19) などがある。

ローズ
Rose, Billy

[生]1899.9.6. ニューヨーク
[没]1966.2.10. ジャマイカ
アメリカのプロデューサー。本名 William Samuel Rosenberg。作詞家として「ジーグフェルド・フォーリーズ」のために多くの歌を提供したのち,1930年プロデューサーとなり,当時彼の妻であった F.ブライスの作品を含めて,『ジャンボ』 (1935) ,『カルメン・ジョーンズ』 (43) などのミュージカルを制作。 58年ナショナル劇場を買収,翌年ビリー・ローズ劇場と改称した。著書に『酒・女・歌』 Wine,Women and Words (48) がある。

ローズ
Lawes, Sir John Bennet, 1st baronet

[生]1814.12.28. ロサムステッド
[没]1900.8.31. ロサムステッド
イギリスの肥料工業の基礎を築いた農学者。ハーフォードシャー,ロサムステッドの父の領地を相続し,ここに世界最初の農業試験場を開設,肥料の作物に与える効果を研究。1842年に世界最初の人造肥料,過リン酸石灰の製造特許をとり,肥料生産を開始。その他クエン酸酒石酸の製造にも貢献,1882年准男爵に叙された。

ローズ
Rhodes, Eugene Manlove

[生]1869
[没]1934
アメリカの小説家。カウボーイとしての体験をもとに,40歳頃から西部物を書いた。主著『アーケイディアのブランズフォード』 Bransford of Arcadia (1914) ,『西は西』 West Is West (17) ,『誇り高き保安官』 The Proud Sheriff (35) 。

ローズ
Rose, Richard

[生]1933.4.9. モンタナ,セントルイス
イギリスの政治学者。その著"Politics in England" (1965) は労作として名高い。おもな著書としては上記のほか"Studies in British Politics: A Reader in Political Sociology" (66) がある。

ローズ
Lawes, William

[生]1602.5.1. ソールズベリー
[没]1645. チェスター
イギリスの作曲家。兄の H.ローズとともに J.コペラーリオに師事。王室に仕えたが,清教徒革命に王党派として参加,戦死。器楽合奏のための舞曲やファンタジー,劇音楽などを作曲。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android