オスマン・トルコ帝国第10代スルタン(在位1520~66)。トルコでは「立法者」(カヌーニ)、ヨーロッパでは「壮麗者」(マグニフィセント)と称せられる最大のスルタン。セリム1世の子。アジア、ヨーロッパ、北アフリカ沿岸部にまたがる大版図を支配し、内政面では整備された能率的な行政管理制度を樹立した。対外的にはヨーロッパに10回、アジアに3回遠征を試みた。対ヨーロッパ政策の基調は、神聖ローマ帝国のカール5世がヨーロッパで指導権を握ろうとする計画を挫折(ざせつ)させる一方、フランスのフランソア1世を支持して、これと同盟関係を結んでヨーロッパの政局に均衡をつくりだし、発言力を強化することにあった。また伝統的な権威を保持しようとするローマ教皇に対抗するため、新しく勃興(ぼっこう)したプロテスタントの宗教改革運動に対する側面的支持者となった。父帝セリム1世のシリア・エジプト攻略の後を受けて、ヨーロッパへの攻勢を展開し、ベオグラードをハンガリーから奪い(1521)、ドナウ川を北西進してブダを取得し(1526)、進んでウィーン包囲を敢行した(1529)。一方、エーゲ海の入口にあるロードス島をカトリック系セント・ヨハネ騎士団から奪った(1522)。東方ではイランのサファビー朝からイラク地域を取得し、バグダードとバスラを入手(1533)、中央アジア方面に対してはサマルカンド、ブハラ、ヒバなどを拠点とし、旧ティームール帝国の故地を領有するウズベク人のシャイバーニー朝を支持して、この方面に勢力を扶植した。一方、ペルシア湾、アラビア海、インド洋などの水域では、世界周航国として活動を開始したポルトガルに強力な海軍をもって対抗し、インド西岸のグジャラートを支援するなど多角的な活動を行った。トランシルバニアの帰属問題をめぐって神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世と対立し、出陣中、ハンガリーのシゲトバルで陣没した(1566)。イスタンブールのスレイマン・モスクの廟内に墳墓がある。
[三橋冨治男]
『三橋冨治男著『スレイマン大帝』(1971・清水書院)』
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