〈封建〉の語は,もともとは中国周代の国家制度を指す語であったが,現在日本の学術用語では,この意味で〈封建制度〉の語が用いられることはほとんどなく,ヨーロッパのフューダリズムの訳語として転用されている。この後者の意味での用語法も学者によって一様ではなく,やや極言すれば,それぞれの学者が多少とも異なった意味でこの語を用いている。しかし,細部の違いを捨象して巨視的にみれば,ほぼ次の四つの概念類型を区別することができよう。
(1)ドイツの学者のいう〈レーン制Leh(e)nswesen〉(レーエン制とも呼ばれる)の意味に用いる用法。レーン制については後述するが,さしあたり次の諸点を注意されたい。(a)この概念は,もっぱら領主階級内部の権力構造を問題にする概念であり,農民の問題は直接には含んでいない。権力構造の分析を課題とする法史学者が好んでこの概念を用いるので,しばしば封建制の〈法学的概念〉と呼ばれる。(b)この意味での封建制度はフランク王国において成立し,フランク王国の解体の後に成立した諸国と,これらの諸国からレーン制を導入した地域(イングランド,シチリア,近東の十字軍国家)においてのみ典型的にみられ,その他の地域には存在しない。わずかに日本にのみ,それに近似する制度の存在が認められているだけである。
(2)所有形態としては〈封建的土地所有〉に,搾取形態としては〈封建地代〉に基礎を置くところの,したがって直接的・人格的な〈経済外的強制〉を伴うところの領主対農民の支配隷属関係,すなわち広義の〈農奴制〉を封建制度と呼ぶ用語法。(a)マルクス主義における封建制概念は基本的にはこれである。生産関係を重視する点で,封建制の〈経済学的概念〉と呼びうるであろう。(b)この意味での封建制度は,世界中どこにもみられる普遍的現象である。(c)ヨーロッパの学界では,この意味では領主制,マナー,グルントヘルシャフト,セニュリseigneurieの語(いずれも日本では〈荘園(制)〉と訳されているが,日本の荘園と同一視できるかは問題である)が用いられ,フューダリズムの語は用いられないのが通例である。(d)時代的には,この意味の封建制度は,奴隷制の崩壊から近代市民社会の成立までの全時期を包括するが,レーン制の意味での封建制度は,8~9世紀から13世紀までみられるにすぎない。
→イクター →荘園 →土地所有
(3)一つの社会類型として,封建時代のあらゆる現象(レーン制や農奴制のほか,イデオロギーや生活様式など)を総合的にとらえて封建制と呼ぶ用語法。この概念については〈封建社会〉の項目を参照されたい。
(4)身分的特権をもった戦士層が存在するとき,広く封建制度の語が用いられることがある。この意味での封建制度はオリエントやインドにもみられるし,ギリシアやローマについても〈ポリス封建制〉の語が使われることもある。
ここでは上述の(1)の概念についてのみ説明する。
レーン制は,起源を異にする二つの制度,すなわち〈家士制Vasallität(ドイツ語),vassalité(フランス語)〉と〈恩給制Benefizialwesen(ドイツ語),bénéfice(フランス語)〉の結合によって成立した。家士制の説明から始めると,ローマ末期のガリアにおいては,自由民は大きく〈有力者potentes〉と〈被護民clientes〉とに分かれ,被護民は託身によって一生涯主人たる有力者の権力に隷属し,主人の保護にあずかるとともに,種々さまざまの奉仕義務を負担していた。この主人と被護民との間の支配関係は,隷属的色彩の強い〈家産制〉的支配関係である。ローマ時代のこの慣行はフランク王国の時代にも引き継がれたが,そこにおける治安の混乱と外敵の侵入とは,私兵隊形成の必要性を高め,被護民の中には軍事勤務に利用されてウァススvassus,ウァサルスvassallusと呼ばれた者も少なくない。
他方で,ゲルマン人の間には〈従士制度〉と呼ばれる自由な軍事的主従関係が存在していたが,これとローマ時代以来の慣行とが,両者の機能の共通性のゆえにしだいに融合して,8世紀後半には本来の意味の〈家士制〉が成立することになった。これによって,ウァススやウァサルスの地位は著しく高められ,彼らの義務は,初期にはなお隷属的な義務も残っていたが,しだいに軍事勤務と召集に応じて主君の館に出仕する義務とだけに限定されてきた。すなわち,家産制的な支配関係が,後述する封建的な支配関係に転化したのである。家士関係の設定も,それの二重の起源に照応して,託身(ガリアに由来する)と誠実の宣誓(従士制に由来する)との二つの行為によって行われた。他方で,主君は家士を保護し,武装の資を与え,なんらかの方法で家士を給養しなければならない。この給養の方法はいろいろあるが,当時の経済事情のもとにおいては,主君が家士に土地を与えるという方法が最も原則的な方法であった。この場合,最初は土地所有権が与えられていたが,8世紀半ばごろからは〈借地権〉を与えるのが原則的な形になった。この借地権の形で家士に与えられた土地を〈恩給地〉(ベネフィキウム,フェオドゥムfeodum,レーンLehen)と呼び,この制度を〈恩給制〉と呼ぶ。借地権設定の方法が用いられたのは,次の事情によった。すなわち,アルヌルフ家(のちのカロリング王家)はメロビング朝の宮宰として広大な教会領を自由に利用することができたので,彼らは国王の名において教会に命令し,教会領を自分の家士に貸与させ(〈国王の命令によるプレカリア〉),これによって膨大な家士軍を形成することができた。当時すでに教会財産不可譲の原則(教会財産は相当の対価なしに失われてはならないという原則)が成立していたために,所有権自体は教会に留保して,借地権を設定するという方法がとられたのである。借地権設定の形は,このように教会領の利用に端を発したが,のちにはこの形が教会領利用の場合に限らず一般的に用いられるにいたった。
封建制度は以上の家士制と恩給制の結合によって成立した。両制度の結合というのは,すべての家士が恩給地を与えられたということではなく,〈家士関係があるから恩給地が与えられる〉という形で両制度が関連づけられたことを意味する。この結合が成立すると,家士関係が消滅すれば恩給地を与えておく理由がなくなり,恩給地は主君の手に復帰することになる。家士関係は相互の信頼に基づく高度に一身専属的な関係であると考えられていたので,主君または家士の一方が死亡すると,家士関係は消滅し,恩給地の復帰が生ずるはずであるが,まさにこの現象が9世紀初頭以来〈ヘレンファルHerrenfall〉(主君死亡による復帰),〈マンファルMannfall〉(家士死亡による復帰)の形で現れてくる。このことは両制度が結合し,封建制度が成立したことを意味する。
封建的主従関係は一つの支配服従関係ではあるが,同時に主従双方を拘束する〈誠実関係〉を含んでおり,封主の支配は一方的ではありえない。封臣の負担する誠実義務は,主君の命令に服従するだけではなく,自らの判断によって主君の利益を計り不利を避ける義務を意味するが,この種の義務は自主的・独立的な判断主体(独立人格者)に対してのみ期待しうるものであり,封臣の地位の相対的な独立性が前提されている。西洋の封建制(レーン制)において,〈君,君たりて,臣,臣たり〉の原則が行われ,主君もまた〈主君としての誠実義務〉を負うことが強調されるのはそのためである。封主がその誠実義務に違反すれば,封臣は封主に対するいっさいの義務から解放されて,封主に対して実力によって抵抗することができた(封建的抵抗権)。しかも,封主の義務違反の有無は封臣によって判定され,また誠実義務の内容はきわめてあいまいであったので,常にほとんど無制限の実力行使の口実が存在していた。封建主従関係が独立人対独立人の支配関係であるといわれるゆえんである。
封建制度が〈独立権力〉の組織化の役割を果たしたことも,以上のことと関連している。フランク王国では領主制が7世紀ころにはほぼ全面的に発展し,さらに8世紀に入ると古典荘園制(ビリカチオン制)の形成が進行し,それに伴って〈領主権力〉が生み出された。ところで,この領主権力は完全に自然発生的な独立の権力であり,それら相互の間にはさしあたりはなんらの秩序も存在せず,この状態をそのまま放置すれば社会は無政府状態に陥らざるをえない。のみならず,元来は国王の役人であったグラーフその他もやがて領主化し,国王に対して独立していった。カロリング朝が封建政策(レーン政策)を積極的に推進し,独立的な領主たちの間に封建主従関係を設定することによって,ともかくなんらかの権力秩序をつくり出すことに努めたのはそのためである。けだし封建制度は,封臣に広範な自由と独立を許容する制度として,総じて〈独立権力〉を組織化してゆくために,最も適合的な手段を提供するからである。このようにして,領主たちは国王を頂点とする封建的なピラミッド的階層制の中のどこかにその地位を占めることになり(ヘールシルト),グラーフも9世紀後半には国王の封臣によって,グラーフの官職自体が国王から受ける封(官職封)に転化した。
封建制度は独立権力の多数併存という事態を前提として機能するものであるから,権力集中の進行に伴ってその役割は失われてゆく。権力集中のための条件としては,12,13世紀に完結した形で現れる地方的市場圏の形成,交換経済の発展,中世都市の成立が決定的に重要である。これに伴って,古典荘園制は解体し,領主は領主権力を失って単なる地主に転化するとともに,政治権力(〈裁判支配権〉)は少数の領主の手に集中されていった。11世紀フランスに現れる〈城主支配権chatellenie〉は,この裁判支配権の典型的な例である。他方で都市は,できるだけ広い地域にわたって自由で安全な商取引を行いうることに利益を感じ,国王を支援して,封建的な権力分立を打破することに努めた。このようにして,権力集中はしだいにより高次の段階に進み,フランスでは,12世紀には城主支配権が崩れて大封建諸侯領単位での,13世紀に入ると国王による全国的規模での権力集中が進行し始める。これに反してドイツでは,13世紀にラント単位での権力集中がほぼ確立したが(〈ランデスヘルシャフト〉),全国的規模での権力集中は19世紀後半に至るまでついに実現せず,それ自体独立の国家となったラントと国家の実質を失った帝国とは,1806年の帝国解体に至るまで,封建的な紐帯によって結合されていた。なお,以上の権力集中の過程において,封建貴族の政治力と軍事力を切り崩してゆく手段として,官僚制と傭兵制が重要な役割を果たしたが,この両者とも交換経済の発展に伴う貨幣使用の一般化を前提として,初めて形成されたものであることはいうまでもない。
→封建国家 →封建社会 →封建法
執筆者:世良 晃志郎
日本の歴史に封建制度という概念が用いられる場合,(1)中国的概念(封建)と,(2)西洋的概念の両方の場合があり,しかもそれが微妙にからみあっていることに注意しなければならない。
(1)中国的概念 江戸時代の知識人は,自分たちが現に生きている世の中の体制を,天子-諸侯-士大夫が土地・人民を分有していた中国古代の〈封建〉体制に似たものと考え,律令制的〈郡県〉体制と対比させた。しかしこうみると,中国では封建から郡県へという歴史的経過をたどったのに対し,日本ではその逆の方向だったことになるので,その違いの生じた理由が問題になり,平安時代における権門寺社の荘園の簇生とそのなかに現れた武士の発生という観点から,郡県制の崩壊=封建制の形成が説明されることになった(とくに頼山陽の場合)。したがって日本における封建制度成立の画期は武家政権の成立,つまり鎌倉幕府の成立のときに求められることになり,〈封建の世〉と〈武家の世〉とが同じものを指すことになった。こうした前提のもとで,明治維新後当時の人びとは,版籍奉還から廃藩置県にかけてのプロセスを,藩=武家支配権の解体として,封建制の廃棄,郡県体制の形成という概念で理解した。〈封建制は親の仇〉だとした福沢諭吉の論も,この意味での中国的封建概念の上に立つものであったし,明治20~30年代には封建・郡県概念を用いた論争が行われている。ところが(2)で述べるように,西洋的概念が輸入されると,このことが意識されなくなり,あげくは中国的概念は学問的に無意味なものとされるまでになった。
(2)西洋的概念の導入 (a)レーン制 日本の近代史学の封建制研究は,明治30年代にとつじょ三つの大輪の花を咲かせる。三浦周行《武家制度の発達》(1904ころ執筆,1925刊),中田薫《コムメンダチオと名簿(みようぶ)奉呈の式》《王朝時代の庄園に関する研究》(ともに1906),福田徳三《Die gesellschaftlicheund wirtschaftliche Entwicklung in Japan(日本に於ける社会並経済的進化)》(1900。《日本経済史論》として邦訳1907)である。これらはいずれもヨーロッパとくにドイツの封建制研究を参考にし,西洋的封建制概念を用いて,日本にもこれと類似のものがあったとするものである。ヨーロッパの学界でいう封建制Feudalismus,すなわち土地恩給制(恩給制)と家人制(家士制)が結合してでき上がったとされる封主-封臣関係をめぐるレーン制Lehnswesen(ちなみにFeudalismusはLehn=封のラテン語形feodumからきたもの)が比較の対象とされ,〈我封建制は庄園を中心として発達したる土地恩給制が,武士階級の間に特殊の発育を見たる,家人制と結合したることに起因し,其結合の始期は遠く,これを平安期の中葉に求め得〉る,という中田の文章に代表されるような見解が共通して説かれている。ところが,中田は他方で,〈我封建制の発達は,(知行国制などによって平安中期以降)私権化(庄園化)したる国郡の徴税権が不当に拡張されたる守護の公法上の権力と互に結合するに至って,其完成を告げたるものなり。而して其完成の時期は,室町時代の中葉〉としている。土地恩給制と家人制の結合→封建制という,さきの考え方と,律令制的地方行政区画たる国郡の私物化と守護の国司化(守護による国司権力の奪)の結合→封建制というこの考え方とは次元を異にするものであり,後者に,郡県制の崩壊(国郡の庄園化)→〈武家の世〉=〈封建の世〉という,頼山陽を彷彿する伝統的な封建制論が色濃く影を落としていることは明らかである。
三浦の場合も,〈公家制度の発達〉のなかでは大化改新以前を中国的概念でいう封建制の時代とみていたのに,〈“武家”制度の発達〉という論考にいたって,西洋的概念を用いはじめており,〈武家の世〉=〈封建の世〉という発想が中国的概念から西洋的概念への橋渡しをしているのである。もっとも,幕末・維新期からFeudalismusやLehnswesenを封建と訳すことが定着したわけでなく,津田真道の《泰西国法論》(オランダの憲法学者フィセリングの講義の邦訳。1868)は,〈籍土の制〉と訳しており,加藤弘之抄訳・ブルンチュリ《国法汎論》(1876)もこれを踏襲している。ただ加藤は訳注で〈稍封建ニ類スル制〉としており,この辺が西洋的概念と漢語の封建との結びつきの嚆矢(こうし)とみられる。いずれにせよ同じ《国法汎論》でも1888年刊の平田東助訳では封建制となっている。このようにして封建制と訳された西洋的概念は,前述のように近代史学の先駆者たちのドイツ史学学習によって精密化され,日本史に輸入された。しかし,このような封建制概念の〈脱亜入欧〉に際しても,漢語の封建がもつニュアンスが,無意識のうちに受け継がれたことは,すでに上原専禄も1938年の論考で〈鎌倉政権の樹立に日本封建制度の濫觴を見んと欲し,江戸法制にその完成を観ぜんとする〉傾向を,〈儒学的・支那学的思考の余韻〉というように指摘している。新見吉治が1936年刊の《武家政治の研究》で,〈西洋の封建時代は亦我に倣って武家政治の時代と呼んで差支えない〉とまでいっているのは,〈脱亜入欧〉の際無意識に混入した伝統的封建概念が顕在化した例である。
(b)農奴制 ところで昭和期に入ると日本の歴史学はマルクス主義の影響を受けるようになったが,封建制概念もその一環として,もっぱら〈農奴制〉として理解されるようになった。農民の耕作権が種々の領主的規制を受け,〈経済外的強制〉によって貢租を収奪される,という広い意味内容をもつ〈農奴制〉概念によると,江戸時代の農民もこれに数えることはさして困難でないので,この面からも江戸時代を封建制の時代とする考え方が補強されることになったが,さらに加えてマルクス主義歴史学の立場から,中国的封建概念が〈下部構造〉との関係を考慮しない点で,学問的意味がないものとして排斥された結果,科学的歴史学からこの概念は放逐されたと錯覚され,上原のせっかくの指摘も効果なく,〈武家の世〉=〈封建の世〉という無意識的な先入観を取り去って日本史の時代区分を吟味するという作業が行われないまま,今日の日本史学界の大勢は推移している。
レーン制を土地恩給とそれに対応する奉仕義務を紐帯とする主人-家人関係,農奴制を〈経済外的強制〉を基軸とする領主-農民関係,というように漠然とした概念としてとらえるのでなく,ヨーロッパではこの二つの関係とも〈法関係〉(権利・義務関係)であり,ここには,被支配者(家人や農民)の権利=支配者の義務が被支配者仲間を判告者とする裁判所で判断されるという原則(同輩者裁判の原則)が妥当していた,という法文化の差異を考慮に入れるならば,西洋的概念の封建制(レーン制にせよ,農奴制にせよ)を日本史のなかに見いだすことは必ずしも容易ではない。むしろ日本について封建制をうんぬんできるとすれば,いまのところ,江戸時代から明治初期にかけての日本の知識人が,漢語の封建を用いて〈武家の世〉を解釈した,その意味においてしかない,というのが学問的には正確であろう。むしろ,いったんこの原点に立ち戻ったうえで,ヨーロッパと日本の前近代社会を厳密に比較する作業が積み重ねられることが必要である。
執筆者:石井 紫郎
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日本史学では,およそ次の四つの意味で用いられる。(1)中国で集権的な郡県制との対比で用いられる分権的国家体制,つまり諸侯を封じて国を建てる封建制(儒学的封建制概念)。(2)西欧中世のレーエン制をモデルとしての,主従関係を軸とした政治的・軍事的制度(法制史的封建制概念)。(3)史的唯物論の立場から人類社会の発展段階の一階梯として位置づけられ,農奴制的生産様式を下部構造として構成される社会制度(農奴制的封建制概念)。(4)フューダリズムの語で西欧中世の社会をモデルとしての,レーエン制や農奴制をもその要素として含む社会構造全体(社会史的封建制概念)。近世日本の知識人が当時の社会を封建制と考えたのは(1)の意味においてだったが,近代歴史学が西欧中世と日本中世との構造的類似に注目する過程で,ことに分権的な政治体制である(1)と(2)の現象的な類似に着目して「封建」の語が拡大使用された。さらに第2次大戦後は,史的唯物論の立場にもとづく(3)の意味が「封建」概念の中核を占めるようになった。
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…ヨーロッパの南西端にある半島。東西約1100km,南北約1000kmのほぼ方形をなし,総面積58万1353km2。北端のエスタカ・デ・バーレス岬と南端のタリファ岬(ともにスペイン)は,それぞれ北海道の中央部,関東地方の霞ヶ浦と同緯度にあたる。北および西を大西洋に,南と東を地中海に囲まれ,半島の付け根,北東部は幅約435kmにわたり,ピレネー山脈によってヨーロッパ大陸部と画されている。南西端では最狭部14kmのジブラルタル海峡をはさんでアフリカ大陸と対するが,同海峡は,ヨーロッパへのイスラム文明伝播の歴史的回路の一つであった。…
…中国,秦につづく統一王朝。前202‐後220年。秦の滅亡(前206)後,項羽と覇権を争って勝利を収めた農民出身の劉邦(漢の高祖)によって創建された。前206年,劉邦は項羽より漢王に封ぜられたが,漢の名はこれに由来する。ただし漢は紀元8年に外戚の王莽(おうもう)によって帝位を奪われて一時中断したが,25年には一族の劉秀(光武帝)によって復活した。そのため王莽が簒奪する以前の漢を前漢といい,復活後の漢を後漢という。…
…中国,古代の時代名。周の平王が洛陽の成周に東遷即位した前770年から秦始皇帝が中国を統一した前221年まで。この間の大部分に周王室は東の成周に存続したので東周時代ともよぶ。また前453年で前後に二分し,前半を春秋時代,後半を戦国時代とよぶ。前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。…
…人は“万物の霊”であり天地間にあるもので“人より尊きはなし”というのは西洋の近代思想の反映であり,明治新政の原則であった“四民平等”の精神と表裏をなしています。この近代ヒューマニズムの主張が,一方において封建制度を打破する力として働きながら,他方“神州”の信仰と何の矛盾もなく結びつき……〉。日本の代表的知識人の言葉として,これはまことに奇怪千万といわねばならない。…
…だがこのような中央集権的統治も,カール大帝のような優れた統治能力をもつ人間の下でのみ可能であったので,王権の弱体化した後期カロリング朝時代には,グラーフの在地豪族化の傾向を抑えることはできなかった。
[封建制度の成立]
カロリング朝時代までの軍制は,自由人の軍役によって支えられていた。カロリング朝の諸王もこれを維持することに努め,当時の勅令は,すべての自由人の軍役義務を規定し,グラーフの重要な任務の一つは,必要な場合管区内の自由人を軍隊に動員することであった。…
※「封建制度」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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