チュニス(その他表記)Tunis

翻訳|Tunis

デジタル大辞泉 「チュニス」の意味・読み・例文・類語

チュニス(Tunis)

チュニジア共和国の首都。地中海の重要な貿易港。北東近郊にカルタゴの遺跡がある。ジトゥナモスク(大モスク)やユセフデイモスクなどが残る旧市街は、1979年、世界遺産文化遺産)に登録された。人口、行政区74万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「チュニス」の意味・読み・例文・類語

チュニス

  1. ( Tunis ) チュニジア共和国の首都。地中海南部のチュニス湾の入り江、チュニス湖に面する港湾都市で、オリーブ・ブドウ酒・羊毛・皮革などを輸出する。九世紀アグラブ王朝の首都となってから発展。一九世紀にフランスに占領され、一九五六年チュニジアの独立とともにその首都となる。

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改訂新版 世界大百科事典 「チュニス」の意味・わかりやすい解説

チュニス
Tunis

チュニジアの首都。人口73万(2004)。アラビア語ではトゥーニスTūnis。古代から現代に至るまで,北アフリカの主要都市の一つ。チュニジア北東部の地中海岸のチュニス湾に面し,セジュウミ,アリアナの二つの塩湖を背にした比較的平たんな土地に恵まれ,民家の壁の白さが印象的な港湾都市である。町のそもそもの起源は不明だが,前5~前4世紀ころには,テネスTenesまたはテュネスTynesなどとよばれるカルタゴの衛星集落があった。

 アラブ・ムスリム都市としてのチュニスの歴史は,698年,アラブのアミール,ハッサーン・ブン・アンヌーマーンが,当時ビザンティン帝国の手にあったカルタゴを陥落させ,新しい都市センターの基地を,チュニス湾の奥の小高い丘の上に定めたことに始まる。9世紀の初めには,ジートゥーナ・モスク(大モスク)を中心に,城壁と壕で防御された安全な,人口の多い(約9000人)町として知られ,14世紀のハフス朝期には,メディナ(現,旧市街)と南北の両ルバート(城郭外地区)は,ほぼ現在の形を整えたとされる(当時の推定人口3万5000)。チュニスのこうした繁栄は,アッバース朝やオスマン帝国のような大帝国の州都あるいはハフス朝,ムラード朝フサイン朝のような自立政権の首都としての政治力,および手工業・商業(とくに遠隔地交易)を中心とする経済力に基づいていた。マシュリクアンダルスとの交流も盛んで,モスクやマドラサを中心にイスラム都市文化が栄え,中世・近世を通して,モロッコのフェスと並ぶマグリブの中心的都市であった。

 19世紀後半,とくに1881年にチュニジアがフランスの保護領となって後は,伝統的産業は衰退し,宗主国フランスの政治・経済ブロックの中に深く組み込まれた植民地型都市としての発展を余儀なくされる。それまでメディナと南北のルバートだけであった市街地も,〈フランスの門〉(旧,〈海の門〉)から港に至るジュール・フェリー大通り(現,ブルギーバ大通り)を中心とする新市街の急成長で拡大し,新興住宅街も郊外に延びていった。

 独立(1956)後も,経済開発とともに,植民地時代の後遺症ともいうべき,都市の内外の部門格差と地域格差はますます広がった。地方からの多量な人口流入で肥大化した首都チュニスは,他の中小の諸都市や周辺地域の正常な発展を阻害すると同時に,自己の内部にも急激な都市化の矛盾が,失業,住宅問題,交通ラッシュ,チュニス湾の汚染などの都市問題として現れ,発展途上国の大都市にみられる〈単一支配型都市primate city〉の性格を顕著に示している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「チュニス」の意味・わかりやすい解説

チュニス
ちゅにす
Tunis

北アフリカ、チュニジアの首都。同国の政治、経済、文化、交通の中心地である。人口67万4142(1994センサス)、69万6700(2002推計)。市街地はチュニス湾奥のチュニス湖(潟湖(せきこ))とセジュミ塩湖とに挟まれた地峡上に立地する。チュニス港から潟湖の入口の外港ラグーレットまで運河があり地中海と結ばれている。チュニジアの北部と南部、内陸部と地中海を結ぶ十字路に位置し、国際的にもシチリア島(イタリア)、マルタ島と向かい合い、地中海中央を押さえる位置にある。北東郊20キロメートルにはカルタゴ遺跡がある。気候は地中海式気候で、夏暑く乾燥し、冬はやや寒く(1月の平均気温11℃)少雨があるが、春秋は快適な気候である。

 メディナとよばれる古いアラブ風市街は地峡の中央にあり、中庭をもつ方形住居が密集している。その狭い通路には伝統工芸品を並べる観光土産(みやげ)品街(スーク)や古いモスクもある。メディナの東は碁盤目状のヨーロッパ風市街地が広がる。中央緑地帯の美しいブルギバ通り、これに直交するパリ通り、カルタゴ通りが中心街である。南部は機械、食品、繊維、冶金(やきん)、セメントなどの工業地帯になっている。西には官庁、チュニス大学、バルドー博物館がある。南の海岸にエッザラなど住宅地があったが、独立後の人口増加で北郊に住宅地が延びており、チュニス・カルタゴ国際空港周辺にはシェルギア工業団地が形成されている。ほかにメディナの再開発、地下鉄建設、両湖岸の緑地化計画などがある。なお、メディナとカルタゴの遺跡が1979年に世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。

[藤井宏志]

歴史

古くから町は存在したが、国の政治的中心地となったのは13世紀ハフス朝のとき、カイルアンにかわり首都となってからである。1574年以後のオスマン帝国支配下でも、チュニジアを治めるパシャ、ベイの首都として発展した。1881年フランスの保護領となり統監府の所在地として発展し、近代的な港湾と都市が建設された。第二次世界大戦中一時イタリア・ドイツ軍に占領されたが、連合軍により奪回された。1956年の独立以後、チュニジアの首都として発展を続け、人口も増加の一途をたどっている。

[藤井宏志]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「チュニス」の意味・わかりやすい解説

チュニス
Tunis

チュニジアの首都,チュニス県の県都。アラビア語ではチューニス Tūnis。地中海最古の都市の一つで,チュニス湾南西の旧外港ラグーレット港から 10kmに位置し,運河で結ばれている。太古,リビア人によって建てられ,前 800年頃からフェニキア人の植民都市カルタゴの衛星都市となった。前 146年第3次ポエニ戦争でカルタゴとともに破壊されたが,ローマ皇帝治下に再建,繁栄した。 698年アラブの征服者ハッサーンがカルタゴを破壊したとき,チュニスは一寒村にすぎなかったが,ハッサーンはここに兵器庫を設置し,エジプト住民 1000戸を移住させた。アグラブ朝 (800~909) 時代からは首都となり,1830年以降近代的市街の発展が始まった。リン酸肥料,製粉,セメント,鉄道修理,オリーブなどの果実加工などの工場が立地。オリーブ油,ワイン,穀類,皮革,羊毛製品などを輸出する。旧市街は「オリーブの木のモスク」と呼ばれる大モスクをはじめ,多数のイスラム建造物,スーク (市場) などがあり,1979年世界遺産の文化遺産に登録。港の周辺にはフランス風の整然とした市街がある。カルタゴの遺跡は北東 16km,南東にはザグワーン山からカルタゴへ給水したローマ時代の水道の跡がある。バルドー博物館はフェニキア,ローマ時代の遺物,美術品の収集で知られる。人口 75万9000(2009)。

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百科事典マイペディア 「チュニス」の意味・わかりやすい解説

チュニス

チュニジアの首都。アラビア語ではトゥーニス。同国北東部,地中海に臨む港湾都市。商工業の中心地。市街はチュニス湖とその西方の塩湖の間の地峡部にあり,チュニス湖を横断する運河で外港のラグレットと結ばれる。オリーブ油,リン鉱石などを輸出。大学(1960年創立),8世紀のモスクなどがあり,北東約15kmにはカルタゴの遺跡がある。起源はフェニキアの植民地で,7世紀末アラブのイスラム都市となってから地中海貿易の拠点として発展。第2次大戦中はドイツに占領された。旧市街は1979年世界文化遺産に登録。74万7240人(2014)。
→関連項目カルタゴチュニジア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「チュニス」の解説

チュニス
Tūnis

チュニジアの北部にある同国の首都。この郊外に古都カルタゴがある。第二次世界大戦中ドイツの爆撃で相当被害を受け,ナチス・ドイツに占領されたが,1943年5月,連合国が占領。56年3月,チュニジアがフランスから独立してからその首都となった。

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