日本大百科全書(ニッポニカ) 「トリエステ問題」の意味・わかりやすい解説
トリエステ問題
とりえすてもんだい
アドリア海北端にあるトリエステTrieste地方をめぐるイタリアと旧ユーゴスラビア間の係争。かつてオーストリア・ハンガリー帝国領であったトリエステ地方は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、スラブ系住民を多数抱えたままイタリア領となった。このため、この地方の領有を主張するユーゴスラビアとイタリアの間で紛争が絶えなかった。その後、第二次世界大戦を迎えて、末期になるとこの地方は米英軍とユーゴ軍に占領され、戦後、ユーゴスラビアはこの地方の領有を主張した。しかし、トリエステ港市街地の住民の大半がイタリア人であることや、第二次大戦後のユーゴスラビア政府が共産党のチトーの下にあることから、米英はユーゴスラビアの主張に応じなかった。1947年のイタリア講和条約では、この地方は国連管理下の自由地域とし、国連安全保障理事会の任命する総督の下に二分して、北部(A地区)は米英が、南部(B地区)はユーゴスラビアが管理することとなった。ところが冷戦の進展で、安保理事会で総督の任命が実現しないまま、48年3月、米英は近づくイタリア総選挙に際し、保守勢力を有利に導くため、A地区のイタリア返還を発表した。しかしその後ユーゴスラビアとソ連とが対立、ユーゴ自主路線の展開によって西側諸国の対ユーゴ政策も修正されるようになった。このため54年10月5日、イタリアとユーゴスラビアとの直接交渉によるロンドン協定が成立し、イタリアはA地区を、ユーゴスラビアはB地区をそれぞれ領有、トリエステ港の領有権はイタリアに属するものの、使用権はすべての国に開放するということになり、永年の係争に終止符が打たれた。
[藤村瞬一]