日本大百科全書(ニッポニカ) 「カルノー」の意味・わかりやすい解説
カルノー(Nicolas Léonard Sadi Carnot)
かるのー
Nicolas Léonard Sadi Carnot
(1796―1832)
フランスの物理学者、数学者。フランス革命のさなか、いわゆる革命暦の第4年プレリアール(草月)にあたる6月1日に、動乱のパリの小ルクサンブール宮で生まれた。国民公会が解散し総裁政府が成立した直後である。父ラザール・カルノー(大カルノー)は、数学・機械学に通じていたのみでなく、共和主義の政治家としても活躍し、総裁の一員であった。その父の訓育を受けたのち、入学の許される16歳に達してすぐパリのエコール・ポリテクニク(理工科大学校)に入り、電磁気学のアンペール、熱学のゲイ・リュサックらの指導を受けた。卒業後、メス市の駐屯地で工兵科の学校将校として勤務、3年ほどでパリ参謀部に転属、物理学者クレマンNicolas Clément(1779―1842)と知り合い、学習と研究を続けた。その間、父はブルボン王朝の復活で追放されたが、1821年カルノーは弟イポリートとともにドイツのマクデブルクで父と会見、この旅行以後、蒸気機関の研究に心を傾け、主著『火の動力に関する考察』(1824)を書き上げた。
本書は、火力(熱)を動力(力学的な仕事)に変換するときの条件と効率(その極限)に関する諸問題を、水蒸気の性質や蒸気機関の動作などの具体的データを引き合いに出しつつ論じたもので、変換の条件としての温度差の必要性(現実には、低温源を意図的に設定してやることの必要性)をはじめ、のちにいう準静的過程、可逆サイクルと同等な概念や、今日「カルノー・サイクル」とよばれること(変換の効率は可逆サイクルにおいて最高であり、その値は高温源と低温源との温度だけで決まる)を、明快に説いている。
彼の説は古い熱素観(熱は物質の一種であると解する見方)の立場での論究ではあったが、本書は、いわゆる熱力学第二法則を先取りしたものであって、洞察の鋭さに関し比類まれな科学の古典である。しかし、真価が認められ始めるのは、4分の1世紀ものちのケルビン(熱力学温度)、クラウジウス(エントロピー)以後のことに属する。
同書刊行後、軍務に復帰、やがて退職して研究に専心したが、しょうこう熱に続いてコレラに冒され、1832年8月24日、短い生涯を閉じた。遺品の多くは焼却されたが、焼かれずにすんだ『覚え書』(1878年に弟が発表)と『蒸気力の公式』(1966年に発見)とが、『考察』を補う貴重な資料となった。
[高田誠二]
『カルノー著、広重徹訳『カルノー・熱機関の研究』(1973・みすず書房)』
カルノー(Lazare Nicolas Marguerite Carnot)
かるのー
Lazare Nicolas Marguerite Carnot
(1753―1823)
フランス革命時代の将軍、政治家。ブルゴーニュのノレに生まれる。通称「大カルノー」。王の軍隊に入り、1783年に技術将校となる。上官に対する誣告(ぶこく)罪で投獄された(1789)が、革命の開幕により釈放。政治活動に加わり、理性的な愛国者として共和主義を信奉。1792年9月国民公会の議員に選ばれた。ルイ16世の処刑に賛成の票を入れる。1793年8月、軍事担当官として公安委員会のメンバーに選ばれた。10月、公安委員会が革命政府の名を帯びるにつれ、そのまま恐怖政治下の独裁機構に参画し続ける。革命政府の中核をなすロベスピエール、サン・ジュスト、クートンとは一線を画し、ひたすら軍務に精励。軍需工業を拡充し、軍隊の装備を全面的に改良して、革命戦争の「勝利の組織者」の名を受けたが、作戦面でしばしばサン・ジュストと対立し、革命政府の末期には粛清の対象となりかねない孤立状態にあった。そのためテルミドール(熱月)の反動後も、軍の実力者として国民から敬慕され、ブルジョア共和主義の総裁政府下にも大臣の要職についた(1795~1797)。1799年ナポレオンの統領政府が成立するや、旧友のシエイエスに促され、軍の長老の身で陸相に就任(1800)。自由主義の立場からナポレオンの独裁には不服を感じつつも、1815年の百日政権下にふたたび内相として協力。祖国の苦難に最後まであたる決意を表した。ワーテルローの敗戦後も徹底抗戦を主張したが、いれられず退陣した。1823年8月2日没。
[金澤 誠]
カルノー(Lazare Hippolyte Carnot)
かるのー
Lazare Hippolyte Carnot
(1801―1888)
フランスの政治家。大カルノー(L・N・M・カルノー)の第2子。青年期にサン・シモン主義を信奉、1830年七月革命の市街戦にも加わった。1839年以降共和派の下院議員として活躍、1848年の二月革命後、臨時政府の教育相となった。共和主義的「市民」を育成するために、初等教育の教会からの独立と無償・義務教育制の導入(「カルノー法」)を図ったが、六月事件後辞任を余儀なくされた。翌1849年この法案は廃案となり、王党派の後任ファルーによってカトリックの初等教育支配が強化された。第二帝政下では立法院議員に選ばれたが、宣誓を拒否、帝政崩壊後パリの区長や国民議会議員を務め、1875年には終身上院議員となっている。彼の共和主義的教育改革の理想は、長子M・F・S・カルノーに引き継がれて、第三共和政下の政教分離政策のなかで日の目をみることになる。
[谷川 稔]
カルノー(Marie François Sadi Carnot)
かるのー
Marie François Sadi Carnot
(1837―1894)
フランスの政治家。L・H・カルノーの長子。技術官僚からセーヌ・アンフェリウール県知事に転出、1871年から共和派の代議士、公共事業相、蔵相を歴任し、1887年にはグレビを継いで第三共和政第4代大統領(~1894)となった。在任期間中ブーランジェ事件やパナマ事件が起こり共和政を危機に陥れたが彼はよくこれを乗り切っている。1894年リヨン博覧会の開会式に際して、イタリアのアナキスト、カセリオの凶刃に倒れた。科学者N・L・S・カルノーは彼の叔父にあたる。
[谷川 稔]