フランスの物理学者、数学者。フランス革命のさなか、いわゆる革命暦の第4年プレリアール(草月)にあたる6月1日に、動乱のパリの小ルクサンブール宮で生まれた。国民公会が解散し総裁政府が成立した直後である。父ラザール・カルノー(大カルノー)は、数学・機械学に通じていたのみでなく、共和主義の政治家としても活躍し、総裁の一員であった。その父の訓育を受けたのち、入学の許される16歳に達してすぐパリのエコール・ポリテクニク(理工科大学校)に入り、電磁気学のアンペール、熱学のゲイ・リュサックらの指導を受けた。卒業後、メス市の駐屯地で工兵科の学校将校として勤務、3年ほどでパリ参謀部に転属、物理学者クレマンNicolas Clément(1779―1842)と知り合い、学習と研究を続けた。その間、父はブルボン王朝の復活で追放されたが、1821年カルノーは弟イポリートとともにドイツのマクデブルクで父と会見、この旅行以後、蒸気機関の研究に心を傾け、主著『火の動力に関する考察』(1824)を書き上げた。
本書は、火力(熱)を動力(力学的な仕事)に変換するときの条件と効率(その極限)に関する諸問題を、水蒸気の性質や蒸気機関の動作などの具体的データを引き合いに出しつつ論じたもので、変換の条件としての温度差の必要性(現実には、低温源を意図的に設定してやることの必要性)をはじめ、のちにいう準静的過程、可逆サイクルと同等な概念や、今日「カルノー・サイクル」とよばれること(変換の効率は可逆サイクルにおいて最高であり、その値は高温源と低温源との温度だけで決まる)を、明快に説いている。
彼の説は古い熱素観(熱は物質の一種であると解する見方)の立場での論究ではあったが、本書は、いわゆる熱力学第二法則を先取りしたものであって、洞察の鋭さに関し比類まれな科学の古典である。しかし、真価が認められ始めるのは、4分の1世紀ものちのケルビン(熱力学温度)、クラウジウス(エントロピー)以後のことに属する。
同書刊行後、軍務に復帰、やがて退職して研究に専心したが、しょうこう熱に続いてコレラに冒され、1832年8月24日、短い生涯を閉じた。遺品の多くは焼却されたが、焼かれずにすんだ『覚え書』(1878年に弟が発表)と『蒸気力の公式』(1966年に発見)とが、『考察』を補う貴重な資料となった。
[高田誠二]
『カルノー著、広重徹訳『カルノー・熱機関の研究』(1973・みすず書房)』
フランス革命時代の将軍、政治家。ブルゴーニュのノレに生まれる。通称「大カルノー」。王の軍隊に入り、1783年に技術将校となる。上官に対する誣告(ぶこく)罪で投獄された(1789)が、革命の開幕により釈放。政治活動に加わり、理性的な愛国者として共和主義を信奉。1792年9月国民公会の議員に選ばれた。ルイ16世の処刑に賛成の票を入れる。1793年8月、軍事担当官として公安委員会のメンバーに選ばれた。10月、公安委員会が革命政府の名を帯びるにつれ、そのまま恐怖政治下の独裁機構に参画し続ける。革命政府の中核をなすロベスピエール、サン・ジュスト、クートンとは一線を画し、ひたすら軍務に精励。軍需工業を拡充し、軍隊の装備を全面的に改良して、革命戦争の「勝利の組織者」の名を受けたが、作戦面でしばしばサン・ジュストと対立し、革命政府の末期には粛清の対象となりかねない孤立状態にあった。そのためテルミドール(熱月)の反動後も、軍の実力者として国民から敬慕され、ブルジョア共和主義の総裁政府下にも大臣の要職についた(1795~1797)。1799年ナポレオンの統領政府が成立するや、旧友のシエイエスに促され、軍の長老の身で陸相に就任(1800)。自由主義の立場からナポレオンの独裁には不服を感じつつも、1815年の百日政権下にふたたび内相として協力。祖国の苦難に最後まであたる決意を表した。ワーテルローの敗戦後も徹底抗戦を主張したが、いれられず退陣した。1823年8月2日没。
[金澤 誠]
フランスの政治家。大カルノー(L・N・M・カルノー)の第2子。青年期にサン・シモン主義を信奉、1830年七月革命の市街戦にも加わった。1839年以降共和派の下院議員として活躍、1848年の二月革命後、臨時政府の教育相となった。共和主義的「市民」を育成するために、初等教育の教会からの独立と無償・義務教育制の導入(「カルノー法」)を図ったが、六月事件後辞任を余儀なくされた。翌1849年この法案は廃案となり、王党派の後任ファルーによってカトリックの初等教育支配が強化された。第二帝政下では立法院議員に選ばれたが、宣誓を拒否、帝政崩壊後パリの区長や国民議会議員を務め、1875年には終身上院議員となっている。彼の共和主義的教育改革の理想は、長子M・F・S・カルノーに引き継がれて、第三共和政下の政教分離政策のなかで日の目をみることになる。
[谷川 稔]
フランスの政治家。L・H・カルノーの長子。技術官僚からセーヌ・アンフェリウール県知事に転出、1871年から共和派の代議士、公共事業相、蔵相を歴任し、1887年にはグレビを継いで第三共和政第4代大統領(~1894)となった。在任期間中ブーランジェ事件やパナマ事件が起こり共和政を危機に陥れたが彼はよくこれを乗り切っている。1894年リヨン博覧会の開会式に際して、イタリアのアナキスト、カセリオの凶刃に倒れた。科学者N・L・S・カルノーは彼の叔父にあたる。
[谷川 稔]
フランスの技術者,物理学者。熱力学第2法則の原型ともいえるカルノーの定理を見いだしたことで知られる。フランス革命政府軍の政治家であった科学技術者L.N.M.カルノーの長男。1814年エコール・ポリテクニク卒業後軍務に服したが,24年休職を許され,以後科学研究に専念した。彼の関心は医学,道徳,政治,経済など広い範囲に及んだが遺稿の焼失が惜しまれる。最大の業績は,《火の動力についての考察》(1824)にまとめられた熱機関の理論において熱力学の最初の一歩を踏み出したことである。当時は蒸気機関が普及し,産業革命の推進力となっていたが,改良の指針となる理論はまだなかった。彼は,物質に膨張,収縮を繰り返させて熱から動力をとり出すには異なった温度の二つの熱源が必要であること,可逆な過程は損失のない過程であることに着目した。気体の行う可逆な循環過程としてカルノーサイクルというものを想定し,高熱源と低熱源の間でカルノーサイクルを行う熱機関の効率(とり出せる仕事と投入された熱量の比)は,二つの熱源の温度を共通とするあらゆる熱機関のうちで最大であり,作業気体の種類によらず熱源の温度だけで定まること(カルノーの定理)を,永久機関は存在しえないことと熱素説とを基にして示した。その内容は熱力学の第2法則にほかならなかったが,真価が認められたのは彼の死後B.P.É.クラペイロンが広く紹介してからである。
執筆者:安孫子 誠也
フランスの軍人,政治家。〈大カルノー〉ともいう。パリで砲術と築城学を学んだ後,北部地方の部隊に勤務。ロベスピエールのいたアラスやディジョンのアカデミーの会員にもなる。革命勃発後は,1791年に立法議会議員,92年に国民公会議員に選出され,さらに93年8月,公安委員会の委員にも指名された。その間,一貫して軍事問題の専門家として手腕を発揮し,徴兵制施行により近代的軍隊を編成し,攻撃的機動戦術を駆使して,93年秋にはワッティニーの勝利を導き,〈勝利の組織者〉と呼ばれた。テルミドール反動後も,元老会議員,総裁政府Directoireの総裁を歴任。フリュクティドール18日のクーデタで一時ドイツに亡命したが,1800年ナポレオンにより陸軍大臣に指名された。百日天下の際にも内務大臣を務めたが,王政復古後,追放され,ドイツのマクデブルクで死去。数学・力学の著書もあり,学士院会員でもあった。
執筆者:小井 高志
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…長い飼育の歴史を通して,利用目的によりさまざまな品種がつくられた。これらの品種の中には,食用のもの(カルノー,モンダンなど),通信用の伝書バト(リエージュ,アントワープなど),鳴声を鑑賞するもの(トランペッター,タイコバトなど),飛行の巧みさを鑑賞するもの,姿の美しさを鑑賞するもの(クジャクバト,ジャコビンなど)などが含まれる。放飼いや飼鳥の逃げ出したものは半野生化して繁殖し,市街地,公園,神社,寺院などで見ることができる。…
…しかし産業革命の波の中で永久機関への模索が続き,1775年にパリ科学アカデミーはこの種の考案の受理を拒否したが,新発明の提唱はあとを絶たなかった。19世紀に入って熱機関についての物理的研究が進み,N.L.S.カルノーが《火の動力についての考察》(1824)で永久機関不可能の原理をうちたてて熱力学の基礎をつくり,〈単に最初の衝撃の後かぎりなく続く運動というだけでなく,動力を無限につくり出し,自然界のすべての静止物体をつぎつぎにその状態から引き出し,それによって慣性の法則を否定することができ,究極には全世界を運動に投げ込んでその運動を保持し,かつ絶えず加速するに足る力を自分からくみ出すことのできるような装置〉を〈永久機関〉と規定した。カルノーは〈もしそれが可能なら水や空気の流れや可燃物の中に動力を求める必要はなく,欲しいだけくみ出しうる尽きることのない動力の源泉が利用できることになろう〉と言っている。…
…しかし,J.L.R.ダランベールが1743年の著書《力学》の中で,デカルトの考えた“ちから”は力の時間積分であり,ライプニッツの“活力”は力の位置座標についての積分(つまり仕事)であることを指摘するにおよび,この論争もしだいにおさまっていった。なお,83年N.L.S.カルノーは“活力”の保存という概念をすでに暗示しているが,彼の業績は19世紀半ばまで一般には知られなかった。 エネルギーという言葉は,ギリシア語energeia(接頭語en=内部に+ergon=仕事)に由来し,〈物体内部に蓄えられた仕事をする能力〉という意味で,T.ヤングがそれまでの“活力”に代わるものとして用いた(1807)が,1850年代初期にW.J.M.ランキンやW.トムソン(ケルビン)らがこの語を意図的に再使用し始めるまでは一般には使われなかった(英語ではforce,ドイツ語ではKraftなどがそれに当てられていた)。…
…熱機関の効率を知るために,N.L.S.カルノーが考案した可逆サイクル。19世紀の初め,熱機関の急速な発達とともに,その効率を知ることが重要な問題としてとり上げられるようになった。…
… ランフォードに始まる研究は,仕事すなわち力学的エネルギーが熱に転化することを明らかにしたが,逆に熱から仕事をとり出す過程のほうの研究も,産業革命の主役,蒸気機関の改良という技術的要求から18世紀の半ばころから盛んになっていた。すでに1765年にJ.ワットは凝縮器を発明していたが,熱機関の理論的研究はS.カルノーによって始められた。彼は水が高いところから落下するとき水車を回すのと同じように,一般に熱機関では高温の熱源から低温のほうに熱素が移るときに動力が発生すると考えた。…
※「カルノー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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