オーストリア生まれのイギリスの精神分析家。ウィーンのユダヤ人家庭に生まれる。医師になりたいと願いながら、正式な大学教育を受けられず、1903年に結婚し1910年にハンガリーのブダペストに移り住む。1912年に最初の子供を亡くし、翌1913年から精神分析に関心をもちはじめた。さらに1914年に母親を亡くした直後、フェレンツィの教育分析(分析家となるために受ける分析)を受け始める。これは第一次世界大戦下という事情もあり正式なものではなかったが、当時フェレンツィがフロイトの報告したハンス少年の症例に興味を抱いていたことから、クラインも子供の精神分析に関心をもつようになる。1919年にはブダペスト精神分析協会の会員となるが、政治的混乱と反ユダヤ主義の高まりのため、同年亡命を余儀なくされる。1921年に落ち着いたベルリンでは遊戯を用いた子供の精神分析のための技法を確立するとともに、カール・アブラハムのもとで教育分析をふたたび受け始め、彼のメランコリーをめぐる研究から大きな影響を受けた。
ベルリンで分析家のアリックス・ストレーチーAlix Strachey(1892―1973)と友人になったクラインは、1925年その夫の分析家ジェームズ・ストレーチーJames Strachey(1887―1967)を介してイギリス精神分析協会からロンドンに招かれ、一連の講演を行う。クラインの業績は同協会で高く評価される一方、1925年のアブラハムの病死で教育分析が中断したこともあって、1927年彼女は分析家アーネスト・ジョーンズErnest Jones(1879―1958)の招きに応じロンドンに移住することになった。
その卓越した臨床能力ゆえにイギリス精神分析協会のなかで大きな影響力をもつようになるにつれ、彼女に反対する動きも生じてきた。1930年代なかばから分析家エドワード・グローバーEdward Glover(1888―1972)は、クラインが正統的なフロイトの精神分析から逸脱しているとして一連の批判を展開した。そもそもフロイト自身は、エディプス・コンプレックス以前の幼児には内的世界がいまだ形成されておらず、また言語も未発達であるため転移が生じえないとして幼児の精神分析には消極的であり、彼の娘アンナ・フロイトAnna Freud(1895―1982)も同じ立場からむしろ教育的なアプローチを織り込んだ子供の精神分析を考えていた。クラインはこれに対して、子供も厳密な精神分析の対象となりうるとする立場をとり、この問題をとりあげた1927年のシンポジウム以降、両者の間にははっきりと対立が生じていたが(『子供の精神分析に関するシンポジウム』Symposium on Child-Analysis(1927))、アンナが父ジクムントと1938年にロンドンに亡命してくると、この対立はクライン理論の正統性を論じた「大論争」(1941~1945)に発展した。この論争を経てイギリス精神分析協会の内部には、クライン派(クラインのほか、ハンナ・シーガルHanna Segal(1918―2011)、ハーバート・ローゼンフェルドHerbert Rosenfeld(1910―1986)、ウィルフレッド・ビオンWilfred Bion(1897―1979)ら)、自我心理学派(アンナ・フロイトら)、中間的な立場をとるグループ(ドナルド・ウィニコットDonald Winnicott(1896―1971)、マイケル・バリントMichael Balint(1896―1970)ら)が分立することになった。
クラインの精神分析への貢献としてはまず、遊戯を通じた子供の精神分析の方法を創出したことがあげられる。網羅的な観察のうえにたって、成人の解釈と同様に厳密な解釈を行う彼女の方法がもたらした知見のうちには、フロイトの所説に重要な変更を迫るものもあった。とりわけリビドー的発達の初期に属する諸契機が、段階phaseというかたちで一時期に限局されることなく、その後も機能し続けると考えてポジション(態勢)の概念を提案する一方で、エディプス・コンプレックスが、通常考えられているより発達上はるかに早い時期からみられることを指摘した(「早期分析の心理学的原則」The Psychological Principles of Early Analysis(1926)、「エディプス葛藤(かっとう)の早期段階」Early Stages of Oedipus Conflict(1928))。これらの知見のうち、とくに前者は「よい対象(乳房)」と「悪い対象(乳房)」の「取り入れ」と「投影」の過程として母子関係を記述する早期対象関係論において提出された、対象との正負両極端の関係のあいだを揺れ動く最早期の「妄想分裂ポジション」および対象と自己の両面性の承認によって特徴づけられる離乳期の「抑うつポジション」というクライン独自の概念に結晶した(「分裂的機制についての覚書」Notes on Some Schizoid Mechanisms(1946)、「そううつ状態の心因論に関する寄与」A Contribution to the Psychogenesis of Manic-Depressive State(1935))。晩年の代表作である『羨望(せんぼう)と感謝』Envy and Gratitude(1957)で、自らの早期対象関係論を総括しつつ、フロイトが死の欲動という概念で指摘した破壊衝動を「羨望envy」の概念によって位置づけた。1960年ロンドンにて没。
[原 和之]
『『メラニー・クライン著作集』全7巻(1983~1997・誠信書房)』▽『Symposium on Child-Analysis(1927, International Journal of Psychoanalysis, London)』▽『Pearl King, Riccardo SteinerThe Freud-Klein Controversies 1941-1945(1991, The Institute of Psycho-analysis, London)』
アメリカの写真家、映画監督。ニューヨーク生まれ。14歳のときにニューヨーク・シティ・カレッジに入学、社会学を学ぶ。1945年陸軍に入隊し、1948年からはドイツ、フランスに駐在。パリ滞在時にはソルボンヌ大学に派遣され美術史等を学んだ。1949年に除隊後、軍隊経験者への奨学金制度を利用してそのままパリに残り、フェルナン・レジェのもとで絵画を学ぶ。公共のための芸術を標榜(ひょうぼう)し、作品のなかに都市に氾濫(はんらん)しているポスターや標識などのデザインを積極的に取り込む一方、ステンドグラス、モザイク、壁画等を制作し作品そのものを都市のなかに直接還元していこうと試みていたレジェの幅広い活動は、クラインの芸術観に多大な影響を及ぼした。幾何学的な抽象画を制作することから出発したクラインもまた、キャンバスに描くという手法だけにとどまることなく、鏡を使った作品を試みたり、建築家との共同制作として実験的な壁画を制作した。またガラスを使った立体作品を制作する一方、イタリアの建築雑誌『ドムス』Domusの表紙デザインを担当し、抽象的な写真作品も手がけるなど、その活動はジャンルを横断した幅広いものであった。1956年には写真集『ニューヨーク』New Yorkを刊行。故郷ニューヨークのもつ猥雑(わいざつ)なエネルギーをとらえた斬新(ざんしん)な作品は写真界に衝撃を与え、翌年フランスにおいてナダール賞を受賞、写真家として一躍脚光を浴びた。
同書に収められたクラインの写真は、写真の美学を転倒したといわれる。粗い粒子の画面、ハイ・コントラスト、ブレ=ボケ(カメラを動かしたり、焦点をぼかしたりして得られる効果)、極端なクローズ・アップ、人間の首や上半身を平気で切ってしまうような大胆なフレーミング、不安定に傾斜したカメラ・アングルなど、それまでの写真の常識からはかけ離れたクラインの手法は、情報、物質が氾濫しさまざまな人間の欲望がうずまく現代都市特有のダイナミズム、カオス、不安をとらえることを可能にした。1960年代なかばまでに、引き続きローマ、モスクワ、東京を撮影、それぞれ1冊ずつ写真集にまとめられている。都市の写真を制作する一方で、1955年から1965年にかけては、ファッション雑誌『ボーグ』と契約。路上や鏡を利用した重層的な空間のなかにモデルを配置して撮影するなどさまざまな演出を試み、ファッション写真の分野においても斬新な写真を発表し注目された。
また、ブロードウェーのネオン・サインをモチーフにした実験的短編映画『Broad by Light』(1958)を皮切りに映画製作を手がけ、1965年以降は写真の制作を休止し映画製作に専心。モード界を題材にした初の長編劇映画『ポリー・マグー お前は誰だ』(1965~1966)、黒人ボクサーのカシアス・クレイ(のちにモハメッド・アリと改名)をとりあげた長編ドキュメンタリー『偉大なるカシアス』(1969)をはじめとして次々に話題作を発表。1978年からは、映画の製作も続行しながら、写真の制作も再開した。
[河野通孝]
ポリー・マグー お前は誰だ Qui êtes-vous, Polly Maggoo ?(1966)
ベトナムから遠く離れて Loin du Vietnam(1967)
ミスター・フリーダム Mr. Freedom(1968)
革命の夜、いつもの朝 Grands soirs & petits matins(1968)
偉大なるカシアス Muhammad Ali, the Greatest(1969)
モデルカップル Le couple témoin(1976)
モード・イン・フランス Mode in France(1985)
イン&アウト・オブ・ファッション In and Out of Fashion(1998)
『『Moscow』『Tokyo』(ともに1964・造形社)』▽『『ウィリアム・クライン展――映像時代の写真家「巴里のアメリカ人」』(カタログ。1987・PPS通信社)』▽『New York (1956, Éditions du Seuil, Paris)』▽『Rome (1959, Éditions du Seuil, Paris)』▽『William Klein; Photographs, etc. (1981, Aperture, New York)』▽『In & Out of Fashion (1994, Jonathan Cape, London)』
ドイツの数学者。デュッセルドルフ生まれ。ボン大学を卒業、そこでプリュッカーの助手となった。1870年パリに赴き、多くのフランスの数学者に学び、またノルウェーから出てきたリーとも会って、ともに群論の数学における中心的な意義を深く知った。1872年エルランゲン大学教授、1886年ゲッティンゲン大学教授となり、終生この職にあった。エルランゲン大学就職講演は、幾何学とは、ある変換群によって不変な性質を研究するもので、変換群の分類によって幾何学の分類ができるということを主題としたもので、「エルランゲン目録」Erlangen Programとよばれている。これによって、それまでに知られていた種々の幾何学の相互関係ばかりでなく、それ以外の幾何学の可能性も示され、さらに数学の諸分野での、分類問題における群概念の意義が明らかにされた。1871年には、非ユークリッド幾何学はケーリーの計量をもつ射影幾何学として認めうることを示し、幾何学の系統化に対する重要な糸口をつけていた。エルランゲン目録を中心とするクラインの幾何学思想は、それ以後の幾何学研究に多大の影響を与えた。
クラインの業績は、そのほか数学の多くの部門にわたり、「代数関数のリーマンの理論」(1882)や「二十面体に関する講義」(1884)も有名である。しかし晩年の講義のなかで述べたところによると、彼自身がもっとも力を注いだのは保形(ほけい)関数の研究であったという。
保形関数の研究については、ポアンカレとの交流も、その進展の大きな要因となっていた。若い日のパリ遊学のころにリーとともに群論の数学における重要性を認識し、その後二人は群論の二つの大きな分野をそれぞれに集中的に研究することとなった。そして彼自身およびその弟子たちによる多くの研究分野において、群概念の応用を図った。最後に教授となったゲッティンゲン大学は、ガウス以来、ディリクレ、リーマンらの伝統をもち、数学研究の世界的中心として、世界の各地から研究者が集まった。クラインの講義は名講義と評され、1925年に没してのち、講義のノートのいくつかが書物として出版されている。
なお、数学教育にも関心が深く、ドイツにおける数学教育改革運動を指導したり、教育者のための講義なども行っている。『高い立場より見た初等数学Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(1924、1925、1928)はその講義録で、名著の一つとされている。
[茂木 勇]
アメリカの経済学者。マサチューセッツ大学で博士号を取得。コールズ・コミッション、ミシガン大学、オックスフォード大学を経て、ペンシルベニア大学教授。その処女作『ケインズ革命』The Keynesian Revolution(1947)で、ケインズ経済学の核心を明確にし、その普及に大きな影響を与えた。計量経済学の分野では、アメリカ経済を計量的連立方程式の体系で表し、ケインズ理論に基づく実証分析を『合衆国の経済変動1921―1941』Economic Fluctuations in the United States, 1921-1941(1950)として発表、この領域での先駆的業績となった。その後も計量モデル分析で指導的役割を果たし、アメリカについてのゴールドバーガーArthur Stanley Goldberger(1930―2009)との共同研究、ブルッキングス研究所四半期計量経済モデルの開発などは著名。イギリス、日本、その他についての計量モデルの分析も試みている。この分野の専門の著作のほか、計量経済学テキストの著作でも定評がある。1980年ノーベル経済学賞を、経済変動分析と経済政策の計量モデル作成の業績によって受賞した。また政府の経済政策に対する発言でも活躍する。1977年アメリカ経済学会会長。
[宮澤健一]
『篠原三代平・宮澤健一訳『ケインズ革命』新版(1965・有斐閣)』▽『河野博忠訳『計量経済学入門』(1968・東京創元新社)』▽『佐和隆光訳『経済予測の理論』(1973・筑摩書房)』▽『市村真一編『中国の計量経済学モデル』(2006・創文社)』
スウェーデンの物理学者。ストックホルム生まれ。1910年ころからストックホルムのノーベル研究所、アレニウスのもとで学ぶ。第一次世界大戦で兵役についた後、コペンハーゲンでボーアに学ぶ。1921年にストックホルム大学で博士号を取得し、1930年から1962年までストックホルム大学の教授を務めた。同大学ではクラインの名を冠した記念講座が毎年開かれている。ノーベル賞の選考委員を長く務めた。量子論の分野に数多くの貢献がある。ゴルドンWalter Goldon(1893―1939)とともに定式化した、スピン0の相対論的な自由粒子を表す場が満たす「クライン‐ゴルドン方程式」、仁科芳雄(にしなよしお)とともに導いた、自由電子に対するコンプトン散乱による電磁波の散乱断面積に関する「クライン‐仁科の式」、負の運動エネルギーをもつ電子に関するパラドックスで、のちにディラックの空孔理論に発展した「クラインのパラドックス」、カルツァTheodor Kaluza(1885―1954)が提唱し、クラインが修正した、重力と電磁気力を統一するために五次元以上の時空を仮定する「カルツァ‐クライン理論」などに名を残す。
[編集部 2023年7月19日]
フランスの画家。ニースに生まれ、東洋語学校に学ぶ。完全に単色の画面を1946年以来制作。各地を旅し、1952~1953年(昭和27~28)には日本に滞在した。1950年、最初の個展をロンドンで、パリでは1955年に開催。単色、とくに深い紺碧(こんぺき)一色で画面を覆う。この色はI.K.B.(インターナショナル・クライン・ブルー)として名高い青で、無限定の宇宙を描こうとする。のちにこの青にバラ色や金が加わった。また、白い壁だけを提示したパリのイリス・クレール画廊での「無の展覧会」(1958)や、最初のハプニング・ボディ・アートであった裸体のモデルを「生きた筆」とした作品、あるいはガスの火を用いた作品(パリ近代美術館)などの試みがある。
[中山公男]
カナダの詩人、法律家。ユダヤ系。処女詩集『ユダヤ人も持たざるや』(1940)と『詩集』(1944)でユダヤ人の豊かな、しかも苦渋に満ちた世界を歌い、長詩『ヒトラーリアッド(ヒトラーの歌)』(1944)でナチスの暴虐を激しく糾弾し、『ゆり椅子(いす)』(1948)でフランス系カナダの人と風物を穏やかに描いた。ただ一編の小説『第二の書』(1951)は、はるかに「第一の書」である旧約の世界と呼応し、イスラエル建国に至るまでのユダヤ民族の苦しい歩みを情熱の沈潜した詩的な文章で感動的に描き、20世紀カナダ文学最高の作品という定評がある。また優れたジョイス研究家でもあった。1950年代なかばに病を得て世間との交渉を絶った。
[平野敬一]
アメリカの画家。抽象表現主義に属する。ペンシルベニア州ウィルクス・バリに生まれる。フィラデルフィアのジラード大学、ボストン大学で絵画を学ぶ。1937年より1年間ロンドンのヒースリーズ・アート・スクールに留学。1930年代、1940年代は肖像画、都市の景観を描く一方、後年の作風の基礎となる即興的表現の実験を行う。1950年代、白と黒の線を画面に走らせる絵画によって自己の作風を確立する。このカリグラフィックな技法と表現力については東洋の書の影響が指摘されたが、クライン自身はこれを否定している。1950年代の後半には白・黒の無彩色に赤・緑などの色彩が加わる作品を描いた。ニューヨークで没。
[藤枝晃雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
A.フロイトと並ぶ児童分析の創始者。ウィーンに生まれたが,結婚後ブダペストに移り,そこで精神分析に興味を抱き,フェレンツィの教育分析を受けた。ついでベルリンでK.アブラハムの指導を受け,強い影響を与えられた。1925年ロンドンに移住し,児童分析の臨床を通して独自の理論を発展させて,いわゆるクライン学派を生むに至った。彼女は乳児の抱く活発な無意識的幻想に注目し,最初の対象である母(と乳房)に対する無意識的幻想が,人格発達過程で重要な役割を果たすことを明らかにした。そして外界の客観的対象とは別に,投影,取入れなどの機制によって心の内部に形成される内的対象が,無意識的幻想を生む上で重要な働きをするとした。また精神発達上,妄想的・分裂的態勢,抑うつ的態勢を区分し,対象についての自我の体験様式に基づく発達論を樹立した。妄想的・分裂的態勢とは,乳児が口愛羨望による攻撃性を母に投影する結果,母によって迫害されるという被害的不安を抱き,これを分裂を中心として防衛しようとする心的傾向を意味する。ここではまだ対象を全体的存在としてとらえることはできないが,対象の良い面悪い面の統合が可能になると,悪い対象とみなしていたものが実は同一対象の一面であったことがわかって,乳児は罪悪感を抱いて抑うつ状態に陥るという。クラインは,S.フロイトが4~5歳のエディプス期を重視したのに対し,とくに乳児期の母子関係を重視し,各態勢で働く分裂,投影的同一視などの原始的防衛機制を解明して,境界例や統合失調症の精神力動の理解に貢献した。
執筆者:馬場 謙一
フランスの画家。画家を両親としてニースに生まれたが,美術教育はうけていない。生涯にわたって,主として青色を用いたモノクローム(単色)の絵画を制作し,モノクロミズムの代表的存在の一人。1958年パリのイリス・クレール画廊で何も展示しない〈空虚Le vide〉展を開き衝撃を与えた。この展覧会はある意味でモノクロミズムの徹底化であったが,これをきっかけにして次の段階へと進み,空気や水(風雨)など自然の諸力を画面に定着する《宇宙進化Cosmogonies》(1960),裸婦モデルに青い絵具を塗って画面に人体のプリントをする《人体測定Anthropométrie》(1960),火炎放射器で板に焼けこげをつくる《火の絵画peinture de feu》(1961)など,人間の行為も含めた自然の諸力の痕跡を絵画化ないし作品化する試みを行った。18歳で薔薇十字団に属して神秘思想を抱き,また52-53年には来日して講道館で,若くより習っていた柔道を修めている。父親がマレー系であるクラインは,パリの国立東洋語学校に学び,東洋の思想と文化に関心を抱いていた。生前フランスでは61年,美術批評家レスタニーPierre Restanyによって,クリスト,ティンゲリーらとともにヌーボー・レアリスムの一員とされた以外はあまり評価されず,ドイツのゲルゼンキルヘン歌劇場の装飾(1959)を委嘱されたり,61年にクレフェルトで初の回顧展が開かれるなど,むしろ国外で注目をあびた。心臓発作のため34歳で急逝。
執筆者:千葉 成夫
ドイツの数学者。デュッセルドルフで出生。ボン大学でプリュッカーPlückerに師事して数学および物理学を学び,頭角をあらわして,23歳の若さでエルランゲン大学教授に就任した。その後,ミュンヘン工科大学,ライプチヒ大学を経て,1886年にゲッティンゲン大学教授となり,終生この職を続け,広範な活動と偉大な組織力によって当時の数学界を指導した。業績は数学のほとんど全分野にわたるが,射影幾何学と保型関数の理論における貢献がとりわけ大である。とくに,今日《エルランゲン・プログラム》(1872)と呼ばれている論文は有名である。これは当時まで知られていたいろいろの幾何学を,群論の立場から鳥瞰(ちようかん)して総合したもので,その後の幾何学の発展に大きな影響を与えた。晩年は数学教育の改善にも熱心に取り組み,ドイツにおける改革運動を指導した。彼は講義を基とした著書を多く残しているが,なかでも《19世紀における数学の発展について》および《高等な立場から観た初等数学》はよく知られている。
執筆者:中岡 稔
アメリカの経済学者。オマハに生まれる。カリフォルニア大学(バークリー)で学士(1942),マサチューセッツ工科大学で博士号(1944)をとる。シカゴ大学(コールズ・コミッション),ミシガン大学(サーベイ・リサーチ・センター),オックスフォード大学(統計研究所),国民経済研究所(NBER)等の研究員,講師を経て,1958年ペンシルベニア大学教授となる。クラインはその第1作《ケインズ革命》(1947)において,ケインズ経済学の革命的意義を体系的に展開して一躍有名になったが,その後,連立方程式体系を使ったモデル分析の分野で,《アメリカの経済変動-1921-1941》(1950),《計量経済学》(1953),《ワートン計量経済予測モデル》(1967)等の先駆的業績をあげ,計量経済学界で指導的役割を果たしてきた。80年ノーベル経済学賞受賞。
執筆者:中村 貢
ニューヨーク生れの写真家。カレッジ卒業後,1948年以降パリに移り住む。画家F.レジェの下で働き,絵画,映画,デザイン,写真を学ぶ。クラインの代表作《ニューヨーク》(1956)は,荒れた粒子にコントラスト,極端なフレーミングとアングルという今までにない写真技法を駆使し,1950年代の都市ニューヨークの猥雑(わいざつ)ぶりを余すところなくとらえ,写真表現の新たな地平を切り開いた。ほかに写真集《ローマ》(1959),《東京》(1964),《モスクワ》(1964)等がある。
執筆者:金子 隆一
カナダの詩人。法律家,ユダヤ系新聞編集人としてシオニズム運動に尽力。《ユダヤ人も持たざるや》(1940),《ゆり椅子,その他の詩編》(1948)など4冊の詩集と,イスラエル建国までのユダヤ民族の放浪と苦悶を,著者の肉親探しという形に託して,力強く歌い上げた散文詩《第二の書》(1951)がある。ジョイス研究家としても知られる。1950年代中ごろから病のため世間との接触を絶った。
執筆者:平野 敬一
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…例えば哺乳類では,同一種でも北方にすむものほど体が大きく,また手足が相対的に短いという傾向が知られている。これは寒さに対する適応とみられ,このような形質のこう配をクラインclineと呼ぶ。他方,ある限られた地域の小集団でみられる変異を個体変異または個体差という。…
…擬似幾何学ともいう。クラインは1872年に有名な《エルランゲン・プログラム》を発表し,その中で幾何学を変換群の立場から統一的に論じ,例えば,図形の性質のうち,合同変換で変わらないような性質を調べるのがユークリッド幾何学であり,射影変換によって変わらない性質を調べるのが射影幾何学であると定義したが,この立場に立つとき,アフィン幾何学とはアフィン変換によって不変な性質を調べる幾何学といえる。この幾何学の源泉はメービウスの《重心算法論Der baryzentrische Kalkül》(1827)にあるが,新しい種類の幾何学として確立したのはクラインである。…
…しかしながら,これらの人たちは非ユークリッド幾何学を展開しただけで,その無矛盾性を証明したわけではなかった。このため,ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の両方がともに成り立つことがありうるだろうかとの疑問がもたれたが,これは19世紀末から20世紀の初めにF.クラインらによって解決された。すなわち彼らはユークリッド幾何学の中に非ユークリッド幾何学の模型をつくり,ユークリッド幾何学が矛盾を含まぬかぎり,非ユークリッド幾何学も矛盾を含まない論理体系であることを示した。…
…ユークリッド幾何学,非ユークリッド幾何学がともに成り立つというのは,(A,E),(A,Ē)とも無矛盾であるという意味であった。(A,Ē)の無矛盾性が確認されたのは,そのモデルが(A,E)の中につくられることがA.ケーリー,F.クライン,H.ポアンカレらによって示されたからである。ヒルベルトはさらに実数を用いて(A,E)の諸命題が成り立つモデルをつくり,(A,E)の無矛盾性を示した。…
…これらに対応してユークリッド幾何学は放物幾何学と呼ばれる。 19世紀の終りころには,非ユークリッド幾何学のモデルをユークリッド幾何学の中に作るという仕事がE.ゲーリー,F.クライン,E.ベルトラミ,H.ポアンカレらによってなされた。例えば,ポアンカレが《科学と仮説》(1902)に記述しているモデルは次のようである。…
…このような投資乗数に関する数量的情報を求めておけば,将来の投資増加による景気拡大効果を予測したり,逆に一定の所得を創出するために必要な投資量を求めることも可能になる(〈乗数理論〉の項参照)。このようなマクロ計量経済モデルの最初の開発はL.R.クラインによってなされたが,現在では一国経済の予測や経済計画の策定手段として広く用いられている。
[マクロ計量経済モデルへの批判]
しかし1970年代の経済激動期にマクロ計量経済モデルはその予測力が著しく低下し,さまざまな立場から批判が加えられた。…
…現在,マクロモデルを中心に多くのモデルが作られている。マクロモデルの先駆としては,L.R.クラインが1950年に作ったモデルおよびゴールドバーガーArthur Stanley Goldberger(1930‐ )とクラインが協力して作ったクライン=ゴールドバーガー・モデル(1955)がある。現在,日本の代表的なマクロ計量モデルとしては,経済企画庁経済研究所の〈世界モデル〉の中の〈日本モデル〉があげられる。…
…この時期は単に対象をとり入れるだけではなく,心理的には対象を攻撃し破壊するという関係が生じる。またM.クラインは,口唇期の乳児には,良い乳房のイメージと悪い乳房のイメージとが別個のものとして体験され,この両イメージがめまぐるしく交代するという仮説を提出している。いずれにせよ,この時期に良好な母子関係を持てた乳児には,E.H.エリクソンが唱えたように基本的信頼感がはぐくまれると考えられる。…
…彼は人格における自我の機能に注目し,自我と衝動体イドと行動の規準の内面化による超自我との葛藤や妥協を力動的にとらえて,人格をその相互関係の過程の上で扱っている。これに続く者として,フロイトの精神分析から現代精神分析への転向を方向づけたライヒ,超自我の早期形成の影響を解明したM.クラインなどがあげられる。またE.H.エリクソンは人格の形成に関する精神分析理論に比較文化論的・対人関係論的見地を導入した。…
… フロイトの精神性的発達理論は,一部の精神分析学者,たとえばイギリスの対象関係論者の一人であるフェアベアンW.R.D.Fairbairn(1889‐1964)を除けば,さまざまな修飾をうけながらも継承されている。たとえばM.クラインの独創的なポジションpositionの概念は,口唇期における対象関係を細分することから出発している。現存在分析の創唱者L.ビンスワンガーもこの身体形態論的な精神発達理論を承認し,高く評価している。…
※「クライン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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