クライン(読み)くらいん(英語表記)Abraham Moses Klein

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クライン」の意味・わかりやすい解説

クライン(Melanie Klein)
くらいん
Melanie Klein
(1882―1960)

オーストリア生まれのイギリスの精神分析家。ウィーンのユダヤ人家庭に生まれる。医師になりたいと願いながら、正式な大学教育を受けられず、1903年に結婚し1910年にハンガリーブダペストに移り住む。1912年に最初の子供を亡くし、翌1913年から精神分析に関心をもちはじめた。さらに1914年に母親を亡くした直後、フェレンツィの教育分析(分析家となるために受ける分析)を受け始める。これは第一次世界大戦下という事情もあり正式なものではなかったが、当時フェレンツィがフロイトの報告したハンス少年の症例に興味を抱いていたことから、クラインも子供の精神分析に関心をもつようになる。1919年にはブダペスト精神分析協会の会員となるが、政治的混乱と反ユダヤ主義の高まりのため、同年亡命を余儀なくされる。1921年に落ち着いたベルリンでは遊戯を用いた子供の精神分析のための技法を確立するとともに、カール・アブラハムのもとで教育分析をふたたび受け始め、彼のメランコリーをめぐる研究から大きな影響を受けた。

 ベルリンで分析家のアリックス・ストレーチーAlix Strachey(1892―1973)と友人になったクラインは、1925年その夫の分析家ジェームズ・ストレーチーJames Strachey(1887―1967)を介してイギリス精神分析協会からロンドンに招かれ、一連の講演を行う。クラインの業績は同協会で高く評価される一方、1925年のアブラハムの病死で教育分析が中断したこともあって、1927年彼女は分析家アーネスト・ジョーンズErnest Jones(1879―1958)の招きに応じロンドンに移住することになった。

 その卓越した臨床能力ゆえにイギリス精神分析協会のなかで大きな影響力をもつようになるにつれ、彼女に反対する動きも生じてきた。1930年代なかばから分析家エドワード・グローバーEdward Glover(1888―1972)は、クラインが正統的なフロイトの精神分析から逸脱しているとして一連の批判を展開した。そもそもフロイト自身は、エディプスコンプレックス以前の幼児には内的世界がいまだ形成されておらず、また言語も未発達であるため転移が生じえないとして幼児の精神分析には消極的であり、彼の娘アンナ・フロイトAnna Freud(1895―1982)も同じ立場からむしろ教育的なアプローチを織り込んだ子供の精神分析を考えていた。クラインはこれに対して、子供も厳密な精神分析の対象となりうるとする立場をとり、この問題をとりあげた1927年のシンポジウム以降、両者の間にははっきりと対立が生じていたが(『子供の精神分析に関するシンポジウム』Symposium on Child-Analysis(1927))、アンナが父ジクムントと1938年にロンドンに亡命してくると、この対立はクライン理論の正統性を論じた「大論争」(1941~1945)に発展した。この論争を経てイギリス精神分析協会の内部には、クライン派(クラインのほか、ハンナ・シーガルHanna Segal(1918―2011)、ハーバート・ローゼンフェルドHerbert Rosenfeld(1910―1986)、ウィルフレッド・ビオンWilfred Bion(1897―1979)ら)、自我心理学派(アンナ・フロイトら)、中間的な立場をとるグループ(ドナルド・ウィニコットDonald Winnicott(1896―1971)、マイケル・バリントMichael Balint(1896―1970)ら)が分立することになった。

 クラインの精神分析への貢献としてはまず、遊戯を通じた子供の精神分析の方法を創出したことがあげられる。網羅的な観察のうえにたって、成人の解釈と同様に厳密な解釈を行う彼女の方法がもたらした知見のうちには、フロイトの所説に重要な変更を迫るものもあった。とりわけリビドー的発達の初期に属する諸契機が、段階phaseというかたちで一時期に限局されることなく、その後も機能し続けると考えてポジション(態勢)の概念を提案する一方で、エディプス・コンプレックスが、通常考えられているより発達上はるかに早い時期からみられることを指摘した(「早期分析の心理学的原則」The Psychological Principles of Early Analysis(1926)、「エディプス葛藤(かっとう)の早期段階」Early Stages of Oedipus Conflict(1928))。これらの知見のうち、とくに前者は「よい対象(乳房)」と「悪い対象(乳房)」の「取り入れ」と「投影」の過程として母子関係を記述する早期対象関係論において提出された、対象との正負両極端の関係のあいだを揺れ動く最早期の「妄想分裂ポジション」および対象と自己の両面性の承認によって特徴づけられる離乳期の「抑うつポジション」というクライン独自の概念に結晶した(「分裂的機制についての覚書」Notes on Some Schizoid Mechanisms(1946)、「そううつ状態の心因論に関する寄与」A Contribution to the Psychogenesis of Manic-Depressive State(1935))。晩年の代表作である『羨望(せんぼう)と感謝』Envy and Gratitude(1957)で、自らの早期対象関係論を総括しつつ、フロイトが死の欲動という概念で指摘した破壊衝動を「羨望envy」の概念によって位置づけた。1960年ロンドンにて没。

[原 和之]

『『メラニー・クライン著作集』全7巻(1983~1997・誠信書房)』『Symposium on Child-Analysis(1927, International Journal of Psychoanalysis, London)』『Pearl King, Riccardo SteinerThe Freud-Klein Controversies 1941-1945(1991, The Institute of Psycho-analysis, London)』


クライン(William Klein)
くらいん
William Klein
(1926―2022)

アメリカの写真家、映画監督。ニューヨーク生まれ。14歳のときにニューヨーク・シティ・カレッジに入学、社会学を学ぶ。1945年陸軍に入隊し、1948年からはドイツ、フランスに駐在。パリ滞在時にはソルボンヌ大学に派遣され美術史等を学んだ。1949年に除隊後、軍隊経験者への奨学金制度を利用してそのままパリに残り、フェルナン・レジェのもとで絵画を学ぶ。公共のための芸術を標榜(ひょうぼう)し、作品のなかに都市に氾濫(はんらん)しているポスターや標識などのデザインを積極的に取り込む一方、ステンドグラス、モザイク、壁画等を制作し作品そのものを都市のなかに直接還元していこうと試みていたレジェの幅広い活動は、クラインの芸術観に多大な影響を及ぼした。幾何学的な抽象画を制作することから出発したクラインもまた、キャンバスに描くという手法だけにとどまることなく、鏡を使った作品を試みたり、建築家との共同制作として実験的な壁画を制作した。またガラスを使った立体作品を制作する一方、イタリアの建築雑誌『ドムス』Domusの表紙デザインを担当し、抽象的な写真作品も手がけるなど、その活動はジャンルを横断した幅広いものであった。1956年には写真集『ニューヨーク』New Yorkを刊行。故郷ニューヨークのもつ猥雑(わいざつ)なエネルギーをとらえた斬新(ざんしん)な作品は写真界に衝撃を与え、翌年フランスにおいてナダール賞を受賞、写真家として一躍脚光を浴びた。

 同書に収められたクラインの写真は、写真の美学を転倒したといわれる。粗い粒子の画面、ハイ・コントラスト、ブレ=ボケ(カメラを動かしたり、焦点をぼかしたりして得られる効果)、極端なクローズ・アップ、人間の首や上半身を平気で切ってしまうような大胆なフレーミング、不安定に傾斜したカメラ・アングルなど、それまでの写真の常識からはかけ離れたクラインの手法は、情報、物質が氾濫しさまざまな人間の欲望がうずまく現代都市特有のダイナミズム、カオス、不安をとらえることを可能にした。1960年代なかばまでに、引き続きローマ、モスクワ、東京を撮影、それぞれ1冊ずつ写真集にまとめられている。都市の写真を制作する一方で、1955年から1965年にかけては、ファッション雑誌『ボーグ』と契約。路上や鏡を利用した重層的な空間のなかにモデルを配置して撮影するなどさまざまな演出を試み、ファッション写真の分野においても斬新な写真を発表し注目された。

 また、ブロードウェーのネオン・サインをモチーフにした実験的短編映画『Broad by Light』(1958)を皮切りに映画製作を手がけ、1965年以降は写真の制作を休止し映画製作に専心。モード界を題材にした初の長編劇映画『ポリー・マグー お前は誰だ』(1965~1966)、黒人ボクサーのカシアス・クレイ(のちにモハメッド・アリと改名)をとりあげた長編ドキュメンタリー『偉大なるカシアス』(1969)をはじめとして次々に話題作を発表。1978年からは、映画の製作も続行しながら、写真の制作も再開した。

[河野通孝]

資料 監督作品一覧

ポリー・マグー お前は誰だ Qui êtes-vous, Polly Maggoo ?(1966)
ベトナムから遠く離れて Loin du Vietnam(1967)
ミスター・フリーダム Mr. Freedom(1968)
革命の夜、いつもの朝 Grands soirs & petits matins(1968)
偉大なるカシアス  Muhammad Ali, the Greatest(1969)
モデルカップル Le couple témoin(1976)
モード・イン・フランス Mode in France(1985)
イン&アウト・オブ・ファッション In and Out of Fashion(1998)

『『Moscow』『Tokyo』(ともに1964・造形社)』『『ウィリアム・クライン展――映像時代の写真家「巴里のアメリカ人」』(カタログ。1987・PPS通信社)』『New York (1956, Éditions du Seuil, Paris)』『Rome (1959, Éditions du Seuil, Paris)』『William Klein; Photographs, etc. (1981, Aperture, New York)』『In & Out of Fashion (1994, Jonathan Cape, London)』


クライン(Felix Klein)
くらいん
Felix Klein
(1849―1925)

ドイツの数学者。デュッセルドルフ生まれ。ボン大学を卒業、そこでプリュッカーの助手となった。1870年パリに赴き、多くのフランスの数学者に学び、またノルウェーから出てきたリーとも会って、ともに群論の数学における中心的な意義を深く知った。1872年エルランゲン大学教授、1886年ゲッティンゲン大学教授となり、終生この職にあった。エルランゲン大学就職講演は、幾何学とは、ある変換群によって不変な性質を研究するもので、変換群の分類によって幾何学の分類ができるということを主題としたもので、「エルランゲン目録」Erlangen Programとよばれている。これによって、それまでに知られていた種々の幾何学の相互関係ばかりでなく、それ以外の幾何学の可能性も示され、さらに数学の諸分野での、分類問題における群概念の意義が明らかにされた。1871年には、非ユークリッド幾何学はケーリーの計量をもつ射影幾何学として認めうることを示し、幾何学の系統化に対する重要な糸口をつけていた。エルランゲン目録を中心とするクラインの幾何学思想は、それ以後の幾何学研究に多大の影響を与えた。

 クラインの業績は、そのほか数学の多くの部門にわたり、「代数関数のリーマンの理論」(1882)や「二十面体に関する講義」(1884)も有名である。しかし晩年の講義のなかで述べたところによると、彼自身がもっとも力を注いだのは保形(ほけい)関数の研究であったという。

 保形関数の研究については、ポアンカレとの交流も、その進展の大きな要因となっていた。若い日のパリ遊学のころにリーとともに群論の数学における重要性を認識し、その後二人は群論の二つの大きな分野をそれぞれに集中的に研究することとなった。そして彼自身およびその弟子たちによる多くの研究分野において、群概念の応用を図った。最後に教授となったゲッティンゲン大学は、ガウス以来、ディリクレ、リーマンらの伝統をもち、数学研究の世界的中心として、世界の各地から研究者が集まった。クラインの講義は名講義と評され、1925年に没してのち、講義のノートのいくつかが書物として出版されている。

 なお、数学教育にも関心が深く、ドイツにおける数学教育改革運動を指導したり、教育者のための講義なども行っている。『高い立場より見た初等数学Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(1924、1925、1928)はその講義録で、名著の一つとされている。

[茂木 勇]


クライン(Lawrence Robert Klein)
くらいん
Lawrence Robert Klein
(1920―2013)

アメリカの経済学者。マサチューセッツ大学で博士号を取得。コールズ・コミッションミシガン大学オックスフォード大学を経て、ペンシルベニア大学教授。その処女作『ケインズ革命The Keynesian Revolution(1947)で、ケインズ経済学の核心を明確にし、その普及に大きな影響を与えた。計量経済学の分野では、アメリカ経済を計量的連立方程式の体系で表し、ケインズ理論に基づく実証分析を『合衆国の経済変動1921―1941』Economic Fluctuations in the United States, 1921-1941(1950)として発表、この領域での先駆的業績となった。その後も計量モデル分析で指導的役割を果たし、アメリカについてのゴールドバーガーArthur Stanley Goldberger(1930―2009)との共同研究、ブルッキングス研究所四半期計量経済モデルの開発などは著名。イギリス、日本、その他についての計量モデルの分析も試みている。この分野の専門の著作のほか、計量経済学テキストの著作でも定評がある。1980年ノーベル経済学賞を、経済変動分析と経済政策の計量モデル作成の業績によって受賞した。また政府の経済政策に対する発言でも活躍する。1977年アメリカ経済学会会長。

[宮澤健一]

『篠原三代平・宮澤健一訳『ケインズ革命』新版(1965・有斐閣)』『河野博忠訳『計量経済学入門』(1968・東京創元新社)』『佐和隆光訳『経済予測の理論』(1973・筑摩書房)』『市村真一編『中国の計量経済学モデル』(2006・創文社)』


クライン(Oskar Klein)
くらいん
Oskar Klein
(1894―1977)

スウェーデンの物理学者。ストックホルム生まれ。1910年ころからストックホルムのノーベル研究所、アレニウスのもとで学ぶ。第一次世界大戦で兵役についた後、コペンハーゲンでボーアに学ぶ。1921年にストックホルム大学で博士号を取得し、1930年から1962年までストックホルム大学の教授を務めた。同大学ではクラインの名を冠した記念講座が毎年開かれている。ノーベル賞の選考委員を長く務めた。量子論の分野に数多くの貢献がある。ゴルドンWalter Goldon(1893―1939)とともに定式化した、スピン0の相対論的な自由粒子を表す場が満たす「クライン‐ゴルドン方程式」、仁科芳雄(にしなよしお)とともに導いた、自由電子に対するコンプトン散乱による電磁波の散乱断面積に関する「クライン‐仁科の式」、負の運動エネルギーをもつ電子に関するパラドックスで、のちにディラックの空孔理論に発展した「クラインのパラドックス」、カルツァTheodor Kaluza(1885―1954)が提唱し、クラインが修正した、重力と電磁気力を統一するために五次元以上の時空を仮定する「カルツァ‐クライン理論」などに名を残す。

[編集部 2023年7月19日]


クライン(Yves Klein)
くらいん
Yves Klein
(1928―1962)

フランスの画家。ニースに生まれ、東洋語学校に学ぶ。完全に単色の画面を1946年以来制作。各地を旅し、52~53年(昭和27~28)には日本に滞在した。50年最初の個展をロンドンで、パリでは55年に開催。単色、とくに深い紺碧(こんぺき)一色で画面を覆う。この色はI.K.B.(インターナショナル・クライン・ブルー)として名高い青で、無限定の宇宙を描こうとする。のちにこの青にバラ色や金が加わった。また白い壁だけを提示したパリのイリス・クレール画廊での「無の展覧会」(1958)や、最初のハプニング・ボディ・アートであった裸体のモデルを「生きた筆」とした作品、あるいはガスの火を用いた作品(パリ近代美術館)などの試みがある。

[中山公男]


クライン(Abraham Moses Klein)
くらいん
Abraham Moses Klein
(1909―1972)

カナダの詩人、法律家。ユダヤ系。処女詩集『ユダヤ人も持たざるや』(1940)と『詩集』(1944)でユダヤ人の豊かな、しかも苦渋に満ちた世界を歌い、長詩『ヒトラーリアッド(ヒトラーの歌)』(1944)でナチスの暴虐を激しく糾弾し、『ゆり椅子(いす)』(1948)でフランス系カナダの人と風物を穏やかに描いた。ただ一編の小説『第二の書』(1951)は、はるかに「第一の書」である旧約の世界と呼応し、イスラエル建国に至るまでのユダヤ民族の苦しい歩みを情熱の沈潜した詩的な文章で感動的に描き、20世紀カナダ文学最高の作品という定評がある。また優れたジョイス研究家でもあった。1950年代なかばに病を得て世間との交渉を絶った。

[平野敬一]


クライン(Franz Kline)
くらいん
Franz Kline
(1910―1962)

アメリカの画家。抽象表現主義に属する。ペンシルベニア州ウィルキス・ベールに生まれる。フィラデルフィアのジラード大学、ボストン大学で絵画を学ぶ。1937年より1年間ロンドンのヒースリーズ・アート・スクールに留学。30年代、40年代は肖像画、都市の景観を描く一方、後年の作風の基礎となる即興的表現の実験を行う。50年代、白と黒の線を画面に走らせる絵画によって自己の作風を確立する。このカリグラフィックな技法と表現力については東洋の書の影響が指摘されたが、クライン自身はこれを否定している。50年代の後半には白・黒の無彩色に赤・緑などの色彩が加わる作品を描いた。ニューヨークで没。

[藤枝晃雄]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クライン」の意味・わかりやすい解説

クライン
Klein, Lawrence R.

[生]1920.9.14. ネブラスカ,オマハ
[没]2013.10.20. ペンシルバニア,グラッドウィン
アメリカ合衆国の経済学者。フルネーム Lawrence Robert Klein。1942年カリフォルニア大学バークリー校を卒業後,マサチューセッツ工科大学でポール・サミュエルソンのもとに学び,1944年博士号を取得。シカゴ大学,全米経済研究所を経てミシガン大学,オックスフォード大学統計研究所に勤めた。1958年にペンシルバニア大学ウォートン校に移り,1968~91年ベンジャミン・フランクリン記念金融・経済学教授を務め,のちに名誉教授となる。マクロ経済モデルの創始者の一人で,第2次世界大戦終結時,多くの経済学者が終戦によっていっそうの景気後退が始まると予想するなか,戦時中に抑制されていた需要と帰還兵の購買力が景気を支えると正しく予測した。1980年,景気変動や経済政策を分析する経済予測モデル,クライン・モデルを考案し,その手法を開発した功績により,ノーベル経済学賞を受賞した。クライン・モデルを改良したウォートン計量経済予測モデルは,国・地域の国内総生産 GDP,輸出,投資,消費などの変動予測に広く用いられている(→マクロ・モデル)。さらに,先進国,計画経済諸国,途上国の膨大なデータを収集した「リンク・プロジェクト」は,国際貿易や資本移動を予測し,経済政策の効果を事前にはかろうとした。"Economic Fluctuations in the United States, 1921-1941"(1950),『計量経済学』A Textbook of Econometrics(1953),アーサー・S.ゴールドバーガーとの共著 "An Econometric Model of the United States, 1929-1952"(1955)など著書多数。

クライン
Klein, (Christian) Felix

[生]1849.11.25. ジュッセルドルフ
[没]1925.6.22. ゲッティンゲン
ドイツの数学者。ボン,ゲッティンゲン,ベルリンで学び,その後,エルランゲン大学の数学教授 (1872~75) ,ミュンヘン工科大学教授 (75~80) ,ライプチヒ大学教授 (80~86) ,ゲッティンゲン大学教授 (86~1913) を歴任。数学の諸分野に大きく貢献したが,特に,エルランゲン大学教授就任講演はのちに『エルランゲン目録』と呼ばれ,画期的な内容で,その後の幾何学の発展に大きな影響を与えた。数学史や数学教育にも強い関心をもち,行政面にも手腕があった。 1872年から専門誌"Mathematische Annalen"の監修者であり,数学百科全書の編集協力者でもあった。主著『正二十面体講義』 (1884) ,『保形関数論講義』 (2巻,97,1902) 。

クライン
Klein, Yves

[生]1928.4.28. ニース
[没]1962.6.6. パリ
フランスの美術家。ニースの国立東洋語学校を卒業後,一時ジャズ音楽家となったがのち美術家を志す。両親も画家。 1958年より青一色の絵画を始め,彼は「単色の画面は色彩の非物質化を意図したものだ」と述べている。同年パリで画廊の内部を白一色に塗っただけの「からっぽ」と題する個展を開いて話題となる。 60年,女性のからだに青い絵具を塗ってカンバス上にプリントさせる『人体測量』を発表。その後,炎で画面を焼いた作品をはじめ,火の噴水の計画などを発表。フランスのヌーボー・レアリスムの一人とされていたが,現実よりもむしろ形而上の世界への関心で一貫していた。 1952~53年滞日し,講道館柔道の有段者でもあった。

クライン
Kline, Franz

[生]1910.5.23. ペンシルバニア,ウィルクスバレ
[没]1962.5.13. ニューヨーク,ニューヨーク
アメリカ合衆国の画家。フルネーム Franz Rowe Kline。白と黒の,カリグラフィーを彷彿させる絵画で知られる。ジャクソン・ポロック,ロバート・マザーウェルらと同世代で,1950年代のアメリカ抽象表現主義の画家の一人。1931~35年ボストン大学で絵画を学び,1950年最初の個展を開いた。1950年代末の一時期は色彩を用いた作品がある。

クライン
Klein,William

[生]1926.4.19. アメリカ合衆国,ニューヨーク,ニューヨーク
[没]2022.9.10. フランス,パリ
アメリカの写真家。ニューヨーク市立大学で社会学を学ぶ。 1945年から3年間ヨーロッパで兵役をつとめたあと,ソルボンヌ大学で文学を専攻。絵画に興味をいだきレジェに学んだ。 53年まで画家として活躍。次いで写真に関心を移し,54年からファッション写真を始めた。 56年『ニューヨーク』を刊行,以後『ローマ』,『モスクワ』,『東京』と都市をテーマにした作品集を出版した。 58年から映画に専念し,20本以上の映画を制作。 80年再び写真家として復帰した。

クライン
Klein, Melanie

[生]1882.3.30. ウィーン
[没]1960.9.24. ロンドン
オーストリアの女性精神分析家。児童の精神分析療法で業績を上げ,理論面でもクライン学派といわれるものを打立てた。これは精神分析の理論をそのまま児童にも適用できるというもので,修正を要するという A.フロイトと対立した。医師にはなれず,終生無学位のままであったが,1919年ブダペストの精神分析学会の会員に選ばれ,25年には招かれてロンドンに移り,イギリス精神分析学会に所属して活躍した。

クライン
Klein, Calvin

[生]1942.11.19. ニューヨーク
アメリカの服飾デザイナー。ニューヨーク州立ファッション工科大学卒業。 1962年にニューヨークのスーツとコートの既製服メーカーに入り,68年友人とともに独立。シンプルで控えめ,クラシックなデザインを特徴とする。最初はスーツとコートが注目されたが,78年からはメンズウエアにも進出。次第にスポーツウエアやジーンズのデザインも手がけ,デザイナーズ・ジーンズの先駆者とも言われる。 73年から 75年にかけて3年連続コティ賞受賞。

クライン
cline

トポクライン topocline,エコクライン ecoclineの総称。生物の分類学的な形質を考えるときの概念。画然とした不連続的な形質はないが,幅広い変異が存在し,しかし同じ群としてまとめて考えられる場合に,その形質の差が,地理的分布に従ってある傾斜をもっていればトポクラインといい,生態的条件の変化に従って傾斜しているときはエコクラインという。 J.ハクスリーの提唱 (1939) に基づく。

クライン
Klein, Georg Michael

[生]1776
[没]1820
ドイツの哲学者。シェリング哲学の後継者。ウュルツブルク大学教授。主著"Darstellung der philosophischen Religions-und Sittenlehre" (1818) 。

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