ナスティオン(読み)なすてぃおん(その他表記)Abdul Haris Nasution

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ナスティオン」の意味・わかりやすい解説

ナスティオン
なすてぃおん
Abdul Haris Nasution
(1918―2000)

インドネシア軍人。北スマトラの民族集団バタック出身。オランダ植民地下の蘭印(らんいん)軍で士官候補生となる。1945~1949年の独立戦争期にシリワンギ師団長として卓越した軍政手腕を発揮。1950年陸軍参謀長。1952年、政党廃止を求める「十月十七日事件」を指導して解任。1955年ふたたび陸軍参謀長。1957~1959年の地方軍部のスマトラ反乱を鎮圧。1959年国防相、1962年国軍参謀長を歴任スカルノ体制下で台頭した共産党に対抗する軍部の中核を占める。1965年「九月三〇日事件」で暗殺を免れたが負傷、共産党弾圧の指揮をスハルト将軍にゆだねた。1966年、スハルト体制下の暫定国民協議会議長、1972年引退。1970年代後半から体制批判色を強め、1980年「グループ50」とよばれる体制批判運動に関与。敬虔(けいけん)なイスラム教徒で、国防に関する著作も多い。

[黒柳米司]

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改訂新版 世界大百科事典 「ナスティオン」の意味・わかりやすい解説

ナスティオン
Abdul Haris Nasution
生没年:1918-2000

スカルノ時代のインドネシア共和国軍の実力者。北スマトラ,タパヌリ地方のコタノパンに生まれた。バタク族出身。オランダ植民地時代に師範学校,高等学校を卒業,一時教職についたが,のち1940年にバンドンの士官学校に学び,蘭印軍東ジャワ管区に配置された。それ以降,一貫して職業軍人としての経歴を歩んだ。日本軍政中は,バンドン青年団長,バリサン・プロポール(前衛隊)の地区長をつとめた。独立後,バンドンに司令本部をもつシリワンギ師団第1管区長として対オランダ独立戦争(1945-49)で活躍した。50年にインドネシアが名実ともに独立して以降は,陸軍参謀長として西スマトラ反乱(1958)の鎮圧の総指揮をとり,この間,陸軍の装備の近代化と機構の集中化を積極的に推進する一方,軍の機能が単に国防にとどまるものでなく,国家建設の各方面にわたるという理念をうち出した。50年代末以降の〈指導された民主主義〉の時代には,陸軍大将,国軍参謀総長として,共産党と対抗する陸軍の最高実力者であった。九月三〇日事件でクーデタ派の襲撃うけ,からくも難を逃れた。その後は軍政界の第一線から身を引いている。
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百科事典マイペディア 「ナスティオン」の意味・わかりやすい解説

ナスティオン

インドネシアの軍人。独立後は陸軍参謀長,国防相,国家治安相,暫定国民協議会議長を歴任。1965年九月三〇日事件でスカルノの追放に力があった。

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367日誕生日大事典 「ナスティオン」の解説

ナスティオン

生年月日:1918年12月3日
インドネシアの軍人,政治家
2000年没

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世界大百科事典(旧版)内のナスティオンの言及

【九月三〇日事件】より

…同年9月30日22時,インドネシア共産党の率いる革命評議会の軍隊はジャカルタ郊外のハリム空軍基地に集結し,翌日深夜2時30分に7将軍連行作戦を展開した。連行隊は国防相ナスティオン大将,陸軍司令官兼参謀長ヤニ中将,防空司令官ハルヨノ少将,陸軍情報部長パルマン少将,参謀本部補佐官ストヨ准将,陸軍補給部長パンジャイタン准将,スプラプト准将宅を襲撃し,逃避したナスティオンを除く6将軍を殺害した。革命評議会は中央放送局,中央郵便局,電電公社などを占領し,同日早朝〈九月三〇日運動宣言〉を布告した。…

※「ナスティオン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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