九月三〇日事件(読み)くがつさんじゅうにちじけん

改訂新版 世界大百科事典 「九月三〇日事件」の意味・わかりやすい解説

九月三〇日事件 (くがつさんじゅうにちじけん)

1965年インドネシアで起こったクーデタ未遂事件。同年9月30日22時,インドネシア共産党の率いる革命評議会の軍隊はジャカルタ郊外のハリム空軍基地に集結し,翌日深夜2時30分に7将軍連行作戦を展開した。連行隊は国防相ナスティオン大将,陸軍司令官兼参謀長ヤニ中将,防空司令官ハルヨノ少将,陸軍情報部長パルマン少将,参謀本部補佐官ストヨ准将,陸軍補給部長パンジャイタン准将,スプラプト准将宅を襲撃し,逃避したナスティオンを除く6将軍を殺害した。革命評議会は中央放送局,中央郵便局,電電公社などを占領し,同日早朝〈九月三〇日運動宣言〉を布告した。クーデタは一時成功したかにみえたが,陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将の機敏な指揮により政府軍は反乱軍を夕刻までに粉砕した。このクーデタの起因は明らかでなく,(1)同年6月に予定されていた第2回アジア・アフリカ会議流会以後,政界上層部の右傾化とスカルノ大統領の病気悪化説に焦慮した共産党が,蜂起するか軍部に圧殺されるかという二者択一を迫られ決起した,(2)スカルノの唱えるナサコム(民族主義,宗教,共産主義を一体化した統一戦線)体制に協力し人民革命によって政権を狙う共産勢力に危機感を抱いた将軍評議会が挑発した,(3)〈アメリカのCIA陰謀である将軍評議会〉が企てているクーデタに対し,革命評議会が〈スカルノを守る〉ためにしかけた〈先制攻撃〉である,などの諸説がある。さらに中国がクーデタに関与したともいわれる。これに加えてクーデタ最中のスカルノの奇怪な行動は,この事件をさらに複雑にしている。彼は当初クーデタに同調するような行動をとり,スハルト軍が反乱軍を制圧した後はクーデタに批判的態度を表明して保身を図った。このあいまいな行動は彼の失脚一因となった。クーデタ鎮圧に決定的役割を果たしたスハルトは68年3月大統領に就任,以後インドネシアは反共路線に転ずることになる。クーデタ関与の疑惑をもたれた中国とは国交を断絶し,90年8月まで国交は正常化しなかった。さらにこの事件後クーデタの報復として,容共・親共とみられた華僑を含む30万とも50万ともいわれる人々の虐殺が行われ,共産党は幹部のほとんどが処刑され,壊滅的打撃を受けた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「九月三〇日事件」の意味・わかりやすい解説

九月三〇日事件
くがつさんじゅうにちじけん

1965年10月1日未明、インドネシアの首都ジャカルタでウントン中佐ら「9月30日運動」を自称する左派勢力が引き起こしたクーデター未遂事件。同事件の性格については、(1)軍の内紛説、(2)インドネシア共産党の蜂起(ほうき)説、(3)軍のクーデター計画に対する共産党の予防クーデター説、などの解釈があるが、スカルノ大統領の役割、中国との関連などとともに謎(なぞ)に満ちている。ただ、事件の直接的背景は、50年代後半に成立した「指導民主主義」体制下の共産党対陸軍の緊張関係にあったことは明らかである。60年代初頭の西イリアン解放闘争、マレーシア粉砕闘争などの急進外交の展開と危機的経済状況が共産党を躍進させた反面、反共派陸軍の危機感を募らせ、一触即発の危機をはらみながらも、スカルノ大統領のカリスマ的権威のもとで両者はからくも均衡を保っていたにすぎなかった。「九月三〇日運動」自体はたちまち鎮圧され、(1)非共産圏最大の300万党員を誇ったインドネシア共産党は徹底的に弾圧され、(2)最大の支持勢力を失ったスカルノ大統領も権威を失墜し、(3)中国との国交が「凍結」されるなど、インドネシア内外政治の右旋回が進行し、東南アジアの政治地図の再編をもたらすところとなった。他方、イスラム派学生など反共勢力を利用しつつ事件鎮圧を指揮したスハルト将軍は、67年には大統領代行、68年大統領に昇格、強大な政治勢力としての陸軍に立脚した「新体制」を樹立するに至った。

[黒柳米司]

『大森実著『スカルノ最後の真相』(1967・新潮社)』『D・コンデ著、笠原佳雄訳『インドネシアの変貌――反革命の構造』(1966・弘文堂)』『インドネシア共産党中央委政治局、アジア・アフリカ人民連帯日本委員会訳・編『インドネシア革命――血の教訓』(1967・東方書店)』『田口三夫著『アジアを変えたクーデター インドネシア九・三〇事件と日本大使』(1984・時事通信社)』

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百科事典マイペディア 「九月三〇日事件」の意味・わかりやすい解説

九月三〇日事件【くがつさんじゅうにちじけん】

1965年9月30日インドネシアに起こったインドネシア共産党率いる革命評議会の軍隊によるクーデタ未遂事件。スカルノ大統領親衛隊ウントン中佐らは軍部の反革命派一掃を唱え,ヤニ陸軍司令官ら6名の将軍を殺害したが,スハルト将軍ら軍部に鎮圧された。軍部は進んで大規模な反攻に転じ,共産党員はじめ中国系住民を含む数十万の大量虐殺となり,ナサコム体制の崩壊,スカルノ失脚の契機となった。
→関連項目アイディットアリ・サストロアミジョヨインドネシアインドネシア共産党スバンドリオSOBSIナスティオン

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世界大百科事典(旧版)内の九月三〇日事件の言及

【インドネシア】より

… 政治勢力間の対決は65年9月ついに爆発した。九月三〇日事件を契機にこの事件の背後にあるとされた共産党勢力はスハルト少将を先頭とする陸軍により徹底的に鎮圧された。スハルトは67年にスカルノ退陣を迫る軍内強硬派,学生行動戦線(カミ)らに推されて大統領代行となり,翌68年3月には正式に第2代共和国大統領に就任した。…

※「九月三〇日事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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