スハルト(読み)すはると(英語表記)Suharto

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スハルト」の意味・わかりやすい解説

スハルト
すはると
Suharto
(1921―2008)

インドネシア軍人、政治家。中部ジャワのジョクジャカルタ出身。1940年帝国蘭印(らんいん)軍での基礎軍事訓練、1943年日本軍政下の義勇軍(ペタ)を経て、1945年独立インドネシアの国民保安隊(国軍前身入隊。1956年中部ジャワでディポネゴロ師団長代行、1963年陸軍戦略予備軍司令官に昇進。1965年の「九月三〇日事件」に際し負傷した国防相ナスティオンにかわり陸軍を臨時指揮、共産党に壊滅的打撃を与え事態を収拾した。1966年3月スカルノから事実上の全権移譲を受け、1967年大統領代行、1968年第2代大統領に就任。軍の力に立脚した秩序維持と日米欧など先進諸国との協調による経済開発を推進、急進民族主義的スカルノ体制との決別を強調して「新体制」と称した。カリスマ性には欠けるものの堅実な指導性には定評があり、ASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)内でも強大な発言力をもった。

 1990年代に入ると、健康不安説や家族がらみの不正蓄財うわさと相まって体制不安が懸念され始めた。1997年、タイの金融・財政破綻(はたん)が波及する形で表面化した経済危機を乗り切るため国際通貨基金IMF)から3300万ドルに及ぶ支援を受ける条件として、一族郎党が関与する独占企業の廃止や、非生産的な大プロジェクトの撤回を迫られた。1998年3月、7選を果たしたが、緊縮財政を理由とする石油の大幅値上げ反対に端を発する激しい国民的不満を触発し、5月21日、側近の副大統領ハビビに後事を託して大統領を辞することを余儀なくされた。イスラム勢力や学生を中心とする反スハルト勢力により、30年に及ぶ不正蓄財の調査を求めるデモが繰り広げられるなど、スハルトは退陣後のインドネシアにも大きな影を落とした。

[黒柳米司]

『ヘミッシュ・マクドナルド著、増子義孝・北村正之訳『スハルトのインドネシア――伝統と近代化のジレンマ』(1982・サイマル出版会)』『安中章夫・三平則夫編『現代インドネシアの政治と経済――スハルト政権の30年』(1995・アジア経済研究所)』『村井吉敬・佐伯奈津子・久保康之・間瀬朋子著『スハルト・ファミリーの蓄財』(1999・コモンズ)』『吉村文成著『スハルト「帝国」の崩壊』(1999・めこん)』『宮本謙介著『開発と労働――スハルト体制期のインドネシア』(2001・日本評論社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スハルト」の意味・わかりやすい解説

スハルト
Suharto

[生]1921.6.8. オランダ領東インド,ケムスアルガムルジャ
[没]2008.1.27. インドネシア,ジャカルタ
インドネシアの軍人,政治家。下級中学校,イスラム学校を卒業。 1940年オランダ領東インド軍に入隊。日本軍政下でペタ (祖国防衛義勇隊) に転じた。 1945年 10月人民保安隊 (のちの国軍) 副大隊長。 1947~49年インドネシア独立承認をめぐってオランダ軍と戦った。 1962年少将,1963年陸軍戦略予備軍司令官,1965年九・三〇事件をアブドル・ナスチオン将軍と協力して鎮圧。 10月陸軍大臣兼陸軍総司令官。 1966年3月スカルノ大統領から一部権限の移譲を受け,7月にはアンペラ (国民受難の声) 内閣の首相,国防治安大臣,陸相,陸軍総司令官を兼任。暫定国民協議会の任命により 1967年3月全権を奪われたスカルノに代わって大統領代理,1968年3月 28日大統領に就任した。以後,軍内外の政敵を排除しつつ 1973,1978,1983,1988,1993年と6選を果たし,不動の地歩を確立した。 1998年,7選を果たしたが同年5月辞任。 2000年8月,大統領在任中に巨額の不正蓄財を行なったとして起訴された。

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