パルミジャニーノ
Parmigianino
生没年:1503-40
イタリアのマニエリスムの画家。本名マッツォーラFrancesco Mazzola。パルマ生れ。父フィリッポFilippo Mazzola(?-1505)は,主としてベネチアで活動した画家。伯父のピエル・イライオおよびミケーレ・マッツォーラから画業を学ぶ。パルマの画家コレッジョの作品を研究,決定的な影響を受ける。1523年ローマに赴き,27年ローマ劫掠の折にドイツ軍の囚人となり,ボローニャに行き,31年パルマにもどった。代表作《聖母と聖ザカリア》(1530),《長い首の聖母》(1534)は,極度に洗練された美意識と人為的なフォルム(長い人体比例と〈蛇状人体〉)を示すマニエリスムの傑作であり,彼は優美様式の代表者としてバザーリに絶賛された。晩年は錬金術に没頭したと伝えられる。また,彼はイタリアにおいて最初に銅版腐食画(エッチング)を制作したとされ,版画史上においても重要である。
執筆者:若桑 みどり
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パルミジャニーノ
Parmigianino, Francesco
[生]1503.1.11. パルマ
[没]1540.8.24. カーサルマッジョーレ
イタリアの画家。本名 Francesco Mazzola。コレッジオに師事してその最良の後継者となった。 1523年ローマにおもむき,7年間滞在し,その間に多くの制作をするが,同地でまたラファエロやミケランジェロの影響を受けている。 30年,ボローニャでシャルル・カンの肖像画を描き,31年にはパルマに帰って,ここでも活発な活動をみせた。彼の聖母画は,首が長いので『首の長い聖母』 (1534~40,フィレンツェ,ウフィツィ美術館) などと呼ばれるが,マニエリスム特有のフォルムで,コレッジオ流の繊細な明暗法を生かしながら,光の効果を駆使して優雅で洗練された画風を繰広げた。マニエリスト第一世代の画家のうち,きわだった存在で,次代に大きな影響を与えた。
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「パルミジャニーノ」の意味・わかりやすい解説
パルミジャニーノ
イタリアのマニエリスムの画家。本名フランチェスコ・マッツォーラFrancesco Mazzola。パルマ生れ。父フィリッポFilippo Mazzola〔?-1505〕も画家。初期にはパルマ派の画家コレッジョの影響を受けた。長く引き延ばされ,また極度にひねられた人体のポーズなど,初期マニエリスムの典型的スタイルを示す洗練された作品を残した。代表作に,凸面鏡に映る姿を描いた特異な《自画像》(1524年,ウィーン,美術史美術館蔵),《長い首の聖母》(1534年,ウフィツィ美術館蔵)などがある。
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パルミジャニーノ
生年月日:1503年1月11日
イタリアの画家
1540年没
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世界大百科事典(旧版)内のパルミジャニーノの言及
【ヒンドゥー教】より
…(1)インドの国民的二大叙事詩《マハーバーラタ》(〈バラタ族の戦争を語る大史詩〉の意)と《ラーマーヤナ》(〈ラーマ王行伝〉の意) 前者は,伝説では仙人[ビヤーサ]に帰せられ,前10世紀ころ西北インドに起こったと推定されるバラタ族親族間の大戦争の記憶に基づき,約10万頌からなる(ホメロスの二つの叙事詩のおよそ8倍)長編である。後者はインド最初の詩人[バールミーキ]の作とされ,もと東インドに伝わった悲劇のラーマ王子の愛と戦争の物語に題材をとったと推定され,前者のおよそ4分の1の分量ではあるが,美文調文学の嚆矢とされるほどに文体は洗練されている。両叙事詩のインドの宗教,文化に与えて来た影響は量りしれないものがある。…
【ラーマーヤナ】より
…原文は古典サンスクリットで書かれ,7編2万4000詩節よりなる。〈最初の詩人(アーディ・カビādi‐kavi)〉と称される詩聖[バールミーキ]の作と伝えられているが,最終的に現存の形になったのは,おそらく3世紀ころであろうと推定される。 ガンガー(ガンジス)川の中流に位置するコーサラ国の首都アヨーディヤー(現,ウッタル・プラデーシュ州アウド)を統治するダシャラタDaśaratha王には3人の妃がいた。…
※「パルミジャニーノ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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