改訂新版 世界大百科事典 「フィウメ占領」の意味・わかりやすい解説
フィウメ占領 (フィウメせんりょう)
第1次大戦後,フィウメFiume(ユーゴスラビアの都市リエカのイタリア名)の併合を求めるイタリアの主張に発して,ダンヌンツィオの率いる義勇軍が同市を1年余にわたって占領した事件。フィウメはアドリア海の港市でハンガリーの支配下にあったが,戦後の1918年11月に連合国軍隊の共同管理下に置かれた。これより先,フィウメ民族評議会はイタリアとの合併を宣言しており,イタリア政府(オルランド内閣)も19年1月から始まったパリ講和会議でフィウメのイタリアへの帰属を要求した。しかし,イタリアの要求は認められず,オルランド内閣は6月に総辞職した。イタリア国内ではナショナリストを先頭にフィウメ併合の声が高まり,後を継いだニッティ内閣も打開策に苦慮した。この間,フィウメに駐留するフランス軍とイタリア軍の間で衝突が起こり,フランス側に9人の死者が出た。このため連合諸国は合同委員会を設置し,フィウメ駐留イタリア軍の人員削減とフィウメ民族評議会の解散を決めた。
これに反発した行動派の詩人ダンヌンツィオは,約2500人の義勇兵を率いて9月12日フィウメ市に入り,市民の歓迎とフィウメ民族評議会の支持を受けて,同市の支配権の掌握を宣言した。イタリア,イギリス,フランスの各駐留軍が摩擦を避けてフィウメから撤退したため,ダンヌンツィオは障害なしに市の実権を握るのに成功した。ダンヌンツィオの行動には,アドリア海の良港の確保とバルカン進出の拠点づくりなど,経済的および軍事的動機も含まれていたが,最大の動機は,戦後の内外の状況に有効に対処しえない政治指導層を批判し,国家の改革を迫ることにあった。このためフィウメには,義勇兵やナショナリストと並んでサンディカリストの結集もみられるようになり,それぞれの思惑をもってローマ進軍の計画や反乱の構想が練られた。とくにサンディカリストのA.デ・アンブリスはダンヌンツィオの参謀役におさまって,フィウメ独立政府の統治方針を表した〈カルナーロ憲章〉の作成に尽力した。イタリア政府はフィウメ問題の解決に頭を痛めたが,20年6月に成立したジョリッティ内閣が11月にユーゴスラビアとラパロ条約を締結し,両国の国境問題に決着をつけるとともにフィウメを自由市とすることで合意に達した。イタリア軍はフィウメ解放のため,クリスマス・イブに攻撃を開始し(血のクリスマス事件),ダンヌンツィオはこれに抵抗を示したが,結局21年1月18日に同市を撤退した。独立自由市となったフィウメは,同年4月の選挙で自治派が多数を占め,フィウメ自治の方向が確認された。しかし,22年10月にムッソリーニ政府が成立すると再びイタリアの干渉が強まり,24年1月ユーゴスラビアとの新協定によってフィウメはイタリア領となることで終わった。第2次大戦後,ユーゴスラビアに帰属。
執筆者:北原 敦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報