リエカ(読み)りえか(英語表記)Rijeka

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リエカ」の意味・わかりやすい解説

リエカ
りえか
Rijeka

クロアチア共和国西部の港湾都市。イタリア語名フィウーメFiume。人口14万4043(2001)。アドリア海北部のリエカ湾岸、レツィナRečina川河口部に位置する。名称はこの川に由来する。クロアチア最大の港湾都市で、造船業とその関連産業が主産業。ほかに石油化学、木材加工、食品などの工場がある。歴史上、オーストリアハンガリー帝国の重要な中継港の役割を果たしてきたが、第一次世界大戦後イタリアとユーゴスラビア王国との間で「フィウーメ問題」としてその帰属が争われた。第二次世界大戦後の1947年、レツィナ川左岸のスシャクSušakを合併して複合港湾都市となった。リエカ大学、高等商船学校、商科大学、海洋研究所、博物館がある。付近の海岸では、背後の石灰岩台地を流下してきた地下水が、海底でいくつもの淡水泉として湧出(ゆうしゅつ)している。神奈川県川崎市と姉妹都市。

[漆原和子]

歴史

ローマ時代からアドリア海の重要な港町であった。7世紀にクロアチア人が定住した。一時、クロアチア王国が支配するが、12世紀からはハンガリー王国、ついでベネチアの統治下に置かれた。1467年以後ハプスブルク帝国の領土に組み込まれたが、1717年に自由港を宣言。1867年オーストリアとハンガリー間にアウスグライヒ(和協)が成立すると、海港を望んでいたハンガリーの直接支配下に置かれた。第一次世界大戦後、ロンドン秘密条約を盾にとりイタリアが進攻。1919年には詩人ダンヌンツィオが指揮してイタリアが占領した。1920年11月のラパロ条約で占領が承認され、1924年のイタリア・ユーゴスラビア間のローマ協定により確認された。第二次世界大戦終結間近の1945年5月、ユーゴスラビア人民解放軍が解放。戦後は旧ユーゴスラビア領となったが、1991年、クロアチアが独立し、リエカはクロアチア領となった。

[柴 宜弘]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リエカ」の意味・わかりやすい解説

リエカ
Rijeka

イタリア語ではフューメ Fiume。クロアチア西部の港湾都市。アドリア海北東岸のクバルネル湾奥に位置し,旧市街は崖の上に,新市街は海岸線と崖下の間に狭く広がっている。第1次世界大戦までオーストリア=ハンガリー帝国領。その後はムッソリーニ率いるイタリアの領地となったりしたが,45年旧ユーゴスラビア領,91年クロアチア領となった。ローマ時代の凱旋門 (3世紀) を有する旧市街は,古代名をタルサティカといった。貿易港,海辺保養地,観光基地として有名。石油精製,製紙,ディーゼル機器などの工業が盛ん。人口 20万 5842 (1991推計) 。

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