フリードリヒ・ウィルヘルム3世
フリードリヒ・ウィルヘルムさんせい
Friedrich Wilhelm III
[生]1770.8.3. ポツダム
[没]1840.6.7. ベルリン
プロシア王 (在位 1797~1840) 。フリードリヒ・ウィルヘルム2世の子。前王のような暗君でなかったが,優柔不断で,国政改革の急務を怠り,外交面でも,1805年ロシア,オーストリアの対仏同盟勧誘を避けながら翌年にはフランスに宣戦するなど一貫性を欠き,ついにイェナの敗戦で国家の崩壊を招いた。この敗戦を機に,K.シュタインの改革 (→プロシア改革 ) が行われたが,王はこの改革を理解せず,07年1月シュタインの提案を拒否し彼を罷免した。のちに再びシュタインを任用したが,王は依然として改革に消極的で,特にウィーン会議後はメッテルニヒに操縦され,ドイツの自由,統一運動の阻害者となった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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フリードリヒ・ウィルヘルム[3世]
Friedrich Wilhelm Ⅲ
生没年:1770-1840
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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フリードリヒ・ウィルヘルム3世
生年月日:1770年8月3日
プロシア王(在位1797〜1840)
1840年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のフリードリヒ・ウィルヘルム3世の言及
【プロイセン】より
… これ以後,プロイセン公国は,[ホーエンツォレルン家]のもとに,同君連合のかたちで,歴代のブランデンブルク選帝侯の支配をうけるが,プロイセンに対するポーランドの宗主権はなおも存続した。ようやく〈大選帝侯〉[フリードリヒ・ウィルヘルム](在位1640‐88)のとき,スウェーデン・ポーランド間の戦争(1655‐60)に乗じて,ブランデンブルクはポーランドからプロイセン公国における完全な主権を獲得し(1657),1660年のオリバOliva和約でこの主権はスウェーデン・ポーランド両国により承認された。 プロイセン公国でも,ブランデンブルクにおけると同様,16世紀以来[ユンカー](地方貴族)の農奴制的な直営地経営([グーツヘルシャフト])が発展していた。…
※「フリードリヒ・ウィルヘルム3世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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