ドイツの政治家。プロイセン改革の指導者。ナッサウの帝国騎士の家柄に生まれ、ゲッティンゲン大学でイギリス自由主義の影響を受け、1780年以後のプロイセン官吏の経験から絶対主義への批判を強めた。1804年大臣となったが、固陋(ころう)な官房政治を批判してその改革を献言したため罷免された。隠棲(いんせい)中に『ナッサウ覚書』を起草し、国民と政府の協力による近代国家建設の理念を説き、1807年ティルジット条約後ふたたび首相に起用されると、その理念に従って農民解放、都市条例、国家機構の改革などを断行して「プロイセン改革」の口火を切ったが、オーストリアに対する対フランス戦参戦工作が露見してナポレオンに忌避され、1808年オーストリアに逃れた。のちロシアに赴いて同志とともにナポレオン打倒のため奔走し、1813年プロイセン・ロシア同盟を成立させてプロイセンを解放戦争に引き戻すことに成功した。ウィーン会議にはロシア政府顧問として出席し統一ドイツ実現のため活動したが、メッテルニヒに阻止された。以後政界から退いてドイツ歴史資料収集に取り組み、『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』(ドイツ中世史料集)の基礎を築いた。
[岡崎勝世]
『石川澄雄著『シュタインと市民社会』(1972・御茶の水書房)』
ドイツの社会学者、法学者。キール大学で法学を修めたのち、パリで社会運動、社会思想を研究。『現代フランスの社会主義と共産主義』Der Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreichs(1842)公刊後、キール大学教授(1846)、ウィーン大学教授(1855~1885)を歴任。彼はヘーゲルの国家論の影響下に、共同社会を社会と国家の二つの構成要素に区分した。そして、利益の原理に貫かれた社会では有産者と無産者との間の階級対立が不可避であるのに対し、自由な人格たる国家はこの社会次元の対立過程を社会政策によって緩和すると考えた。こうした立場は一に当時のプロイセンの王政を擁護するものとしてあったが、同時にドイツ行政学確立のための理論的支柱をなした。なお、彼の理論は1882年(明治15)旧憲法起草のため渡欧した伊藤博文(ひろぶみ)を通して、明治期の日本にも大きな影響を及ぼしている。主著に前掲書のほかに『1789年から現代までのフランス社会運動史』Die Geschichte der Sozialen Bewegung in Frankreich von 1789 bis auf unsere Tage3巻(1850)などがある。
[原直樹]
ドイツの演出家。ベルリンに生まれる。1960年なかばにミュンヘンで演出助手として演劇活動を開始し、60年代末に演劇の「民主的実践」を唱導した。劇団構成員全員の協力によって劇場と上演を運営する集団指導を劇づくりの基礎に置き、70年以後ベルリンの「シャウビューネ」を本拠地とした演出活動で注目を浴びた。72年のクライスト作『ホンブルク公子』をはじめ、その演出はつねに大きな反響をよんだ。映画やテレビでも活躍が目覚ましく、ボート・シュトラウスの『大と小』(1980)の演出で高い評価を受けた。1980年代に入って社会改革を主張するメッセージ性の鋭さを失ったかにみえるが、その反面、映画とテレビドラマにも活動の場を広げ、ヒューマニズムを基調とする円熟の境地に達した。1990年代にはザルツブルク祝祭劇(ザルツブルク演劇祭)の演劇部門の総監督としてラインハルトを彷彿(ほうふつ)させる演出によって評判になった。
[宮下啓三]
ドイツの指揮者。ドイツ西部のエルバーフェルト(現ウッパータール)に生まれる。ケルン音楽大学卒業後、東西ドイツ各地の歌劇場で経験を積む。ハンブルク国立歌劇場、マンハイム国民劇場を経て、1970~72年ウィーン国立歌劇場指揮者、73~77年ハンブルク国立歌劇場音楽総監督、80~85年スイス・ロマンド管弦楽団音楽監督、1984~96年バンベルク交響楽団首席指揮者を歴任。1962年からバイロイト音楽祭に登場、ワーグナー指揮者として高く評価された。73年(昭和48)初来日してNHK交響楽団に客演、75年同楽団の名誉指揮者に推された。ドイツの典型的な劇場指揮者で、とくにワーグナーに真価を発揮。コンサートではブルックナー、ベートーベンに重厚な味わいをみせた。
[岩井宏之]
『長谷恭男著『斜めから見たマエストロたち』(1990・同成社)』
ドイツの哲学者、社会学者、政治学者。ベルリン大学教授。E・ツェラーEduard Zeller(1814―1908)に師事し、カントの批判主義を批判的に摂取し、これと進化論的哲学との結合を試みた。この立場から、古代から現代に至る諸思想を社会状況との関連においてとらえる社会思想史的観点をとり、文化哲学の課題は社会問題であるとした。雑誌『哲学史論叢(ろんそう)』Archiv für Geschichte der Philosophieなどの編集者の一人でもある。
[小池英光 2015年2月17日]
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プロイセンの政治家。ナッサウの帝国騎士の出身。ゲッティンゲン大学で法学を修め,1780年プロイセンの官吏となる。1804年商工業担当大臣となったが,国王の側近政治を批判し,07年1月罷免された。しかし同年10月,ティルジットの和約直後,国家再建のため登用され,翌年11月まで事実上の首相としてプロイセン改革に着手する。在任中に十月勅令で農民の人格的自由,都市条例で市民の自治,行政改革で集権的内閣制度を実現したが,反フランス蜂起画策のかどでナポレオンの圧力で罷免され,内政改革はハルデンベルクに継承された。罷免後,オーストリア経由でロシアに赴き,1812年ツァーリの顧問となり,対フランス解放戦争に活躍した。その後のウィーン会議では彼のドイツ帝国構想はメッテルニヒにいれられず,政界第一線から退き,余生をドイツ中世史料集《モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ》の刊行事業に捧げた。
執筆者:末川 清
ドイツ・オーストリアの政治学者。シュレスウィヒの貴族の家庭に生まれたが,平民の母親の不遇をみて爵位を辞したという。キール,イェーナ大学で法学,哲学を学び,ベルリン大学の法学博士号を受けた後,パリに遊学して社会主義者と交流した。《現代フランスにおける社会主義と共産主義》(1842)はドイツにおける社会主義文献の先駆といわれる。1846年キール大学教授となるが,政治活動を理由に52年罷免された。55年よりウィーン大学教授。ヘーゲルと社会主義者の影響下で,階級闘争の市民社会を階級中立的な君主が抑制し,弱者である労働者階級を保護するという社会君主制論を唱えた。経済学,行政学,財政学など広範な分野に業績を残したドイツ語圏における社会科学の先駆者の一人。82年伊藤博文に憲法の基本原則を講じ,とくに過激自由主義の誤り,民族的伝統尊重の必要,君主権の重要性などを強調した。
執筆者:長尾 龍一
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1757~1831
ドイツの政治家でプロイセン改革の指導者。西ドイツ,ナッサウ生まれの帝国騎士で,ゲッティンゲン大学時代にイギリス自由主義の影響を受け,プロイセンに仕官後は鉱山行政,御料地管理などに活躍,1804年からは中央で大臣となったが,絶対主義批判のため罷免。ティルジット条約後の難局にあたって再び起用され,07年10月より翌年11月まで国政を指導,「十月勅令」「都市条令」で農民解放と地方自治近代化の口火を切った。反ナポレオン運動にかかわって追放されてのちはオーストリアからロシアに亡命,ナポレオン打倒に奔走した。19年ドイツ古史学協会を設立,ドイツ史料集『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』(MGH)の発刊に多大の貢献をした。
1815~90
ドイツの行政・財政・社会学者。キール大学教授(1846年),のちウィーン大学教授となる(55年)。憲法取り調べのため渡欧した伊藤博文(82年)をはじめ明治政府の要人に教えを与えた。工業社会における社会問題の重要性を認識,『現代フランスの社会主義と共産主義』(42年)によって知られる。
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1815.11.15~90.9.23
ドイツの公法・経済・行政学者。キール大学で学び,パリに留学。1855年ウィーン大学教授となり,政治学・経済学を講義。君主権の強い立憲制の立場をとった。82年(明治15)憲法調査に訪れた伊藤博文に,日本の国体を尊重した憲法の制定を助言。伊藤の憲法起草に大きな影響を与えた。以後,渡欧した山県有朋(やまがたありとも)・黒田清隆ら政府首脳にも助言を行った。
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スタインをも見よ。
出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報
…12世紀初め国王領から辺境伯(のち太公)バーベンベルク家の直轄都市となり,商業・交通上,領邦オーストリア第1の要地になったが,世紀後半にはウィーンに席を譲った。対岸のシュタインとは1250年以来共通の都市共同体を形成し,1305年にはともにウィーン都市法を継受,1849年いったん分離するが1939年広域のクレムス市として再統合された。1945‐55年にはソ連軍が進駐していた。…
…ドイツ中世史の史料集。略号MGh。プロイセンの宰相であったK.R.vom und zumシュタインが,政界引退後,ドイツ民族の統一を悲願とし,1819年ドイツ古史学協会Gesellschaft für ältere deutsche Geschichtskundeを創設,若くしてすぐれた歴史家ペルツGeorg Heinrich Pertz(1795‐1876)の協力で編集が開始され,ゲルマン民族に関する紀元500年から1500年までの主要史料を,可能な限り厳密な原典批判を加えて編纂・刊行した。…
…新領土統合の必要から,あるいはまたプロイセンのように,ナポレオンに敗れて存亡の危機にした国家再建の必要から,各国は,多かれ少なかれフランスの影響下に,新国家の建設にも匹敵する根本的な改革を行うことになった。その最も有名な例はシュタインとハルデンベルクの指導下に行われたプロイセン改革だが,他の国でも,多くは開明的官僚の指導で大々的な国制改革が行われており,バイエルンやバーデン,ビュルテンベルク等,今日の西ドイツの連邦州(ラント)に連なる中堅諸国も,この時代の改革を通じて新たに発足したといってよい。ナポレオンに対する解放戦争ののちウィーン会議で組織されたドイツ連邦は,このような諸国家の連邦である(図2)。…
※「シュタイン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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