ウィーン会議後の1815年9月26日,ロシア皇帝アレクサンドル1世,オーストリア皇帝フランツ1世,プロイセン国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世がパリにおいて結んだ盟約。それはキリスト教を王制的政治秩序の基礎におき,統一的国民国家を志向するブルジョア的変革に権力的に対応するために,全ヨーロッパの王制に加盟を呼びかけたものであった。しかしそれを主導したアレクサンドル1世はセンチメンタルな宗教的夢想家で,フランツ1世もまた同時代人によって愚鈍の人とされており,彼らの盟約自体は拘束力も実効力もなく,条約としての体をなしてはいなかった。とはいえ次の年イギリス国王,ローマ教皇をのぞくほとんどすべてのヨーロッパ王侯がそれに参加し,神聖同盟の執行機関としてロシア,イギリス,オーストリア,プロイセンのあいだに〈四国同盟〉が成立し,1818年にはフランスも加わって五大国支配の〈ペンタルヒーPentarchie体制〉ができあがった(五国同盟)。加盟諸国の皇帝および王侯はそれぞれの宰相を加えて1818年秋アーヘン会議を開き,とくにドイツにおけるブルジョア的かつ民族的な反体制運動に対する弾圧措置を審議し,カールスバート決議をとおして〈デマゴーグ(扇動者)〉追及の警察網を強化した。さらに20年11月のトロッパウTroppau(現,オパバ)会議,21年1月のライバハLaibach(現,リュブリャナ)会議では,イタリアのブルジョア的変革に対する軍事干渉,ギリシアの民族解放闘争を抑圧するオスマン・トルコに対する間接的支援が決議された。神聖同盟最後の会議である22年のベローナ会議では,スペインのブルジョア革命弾圧の任がフランスにゆだねられた。しかしベローナではイギリスが離反し,またフランスの七月革命の新しい波を受けて神聖同盟の影響力は失われ,そのワルシャワ蜂起(1830)後のポーランド分割問題にあたって同盟が立て直されたものの,ヨーロッパにおけるその歴史的役割は終わった。
執筆者:良知 力
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1815年9月26日、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で結成された同盟。その趣旨は、キリスト教に基づく君主間の友愛と君主の臣民への慈愛によりヨーロッパの平和を維持しようという非現実的なものであったが、まずプロイセン、オーストリアの、ついでローマ教皇とイギリス、トルコを除くヨーロッパの全君主が参加した。メッテルニヒはこれを「無意味な声高いおしゃべり」としながらも四国同盟(のち五国同盟)とともにウィーン体制護持の機関とし、18年アーヘン会議でドイツ自由主義運動弾圧を、トロッパウとライバハの会議(1820、21)でイタリア革命運動へのオーストリアの武力干渉、ベローナ会議(1822)でスペイン革命運動へのフランスの武力干渉を決議させ、各国の自由主義、民族運動を弾圧していった。しかし、モンロー宣言と中南米諸国の独立により打撃を受け、ついでギリシア独立をめぐる諸国の利害の衝突により、1825年全ヨーロッパ的体制としての同盟は崩壊した。
[岡崎勝世]
ウィーン会議を契機として,1815年9月26日にロシア皇帝,オーストリア皇帝,プロイセン王の3人の間に結ばれた同盟。ロシア皇帝アレクサンドル1世の提議によるもので,キリスト教の正義と愛と平和の原則にもとづいて,3国の君主が互いに兄弟のごとく協力することを内容とする。したがって,これは元来抽象的・理想主義的な君主間の盟約であり,やがて,イギリス王,ローマ教皇,トルコ皇帝を除く,ヨーロッパのすべての君主が加入することになった。だが,この抽象的盟約のかげで,ウィーン体制を維持し,現状変革運動を抑圧するための反動政策がしだいに強化されたのである。
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