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ブルクハルト ブルクハルトBurckhardt, Carl Jacob

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ブルクハルト
ブルクハルト
Burckhardt, Carl Jacob

[生]1891.9.10. バーゼル
[没]1974.3.4. ジュネーブ
スイスの歴史家,随筆家。外交官をつとめ各国に駐在,ベネチアホーフマンスタールと親交を結ぶ。 1932年ジュネーブ大学教授。 44~48年国際赤十字総裁。ヨーロッパの伝統に根ざした広い人文主義的精神の持主。

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ブルクハルト
ブルクハルト
Burckhardt, Jacob (Christopher)

[生]1818.5.25. バーゼル
[没]1897.8.8. バーゼル
スイスの歴史家,美術研究家。最初神学を学んだが,ベルリン大学で L.ランケに歴史学,F.クーグラーに美術史を学び,1846年より数回イタリアに旅行。古代ギリシアルネサンス期の文化,美術の権威となる。

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ブルクハルト
ブルクハルト
Burckhardt, Johann Ludwig

[生]1784.11.24. ローザンヌ
[没]1817.10.17. カイロ
スイスの東洋学者。初めドイツで学び,1806年イギリスに渡り,ロンドンケンブリッジで学ぶ。 09年シリアに行きアラビア語を習得し,イスラム教徒の生活を体験。 12年カイロに到着。ナイル川をさかのぼり,メッカに巡礼し,メジナスエズ経由で 15年6月カイロに戻る。

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デジタル大辞泉の解説

ブルクハルト(Jakob Burckhardt)

[1818~1897]スイスの歴史家・文化史家。ルネサンス文化の研究によって近代美術史学・文化史学の基礎を築いた。著「イタリア‐ルネサンスの文化」「世界史的考察」など。

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百科事典マイペディアの解説

ブルクハルト

スイスの歴史家,美術史家。ベルリン大学でランケらに学び,1858年―1893年バーゼル大学教授。一時ニーチェの同僚で大きな感化を与えた。神学から美術史・文化史研究に進み,《コンスタンティヌス大帝の時代》(1853年)の古代末期から関心をルネサンスに移し,《チチェローネ》(1855年),《イタリア・ルネサンスの文化》(1860年)を発表した。
→関連項目ウェルフリン

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世界大百科事典 第2版の解説

ブルクハルト【Jacob Burckhardt】

1818‐97
スイスの文化史家,美術史家。はじめ神学を研究したが,のち歴史学および美術史に転じ,とりわけベルリン大学のランケ,クーグラーに学んだ。バーゼル大学講師(1844),チューリヒ工業大学美術史教授(1855)を経て,1858‐93年バーゼル大学歴史学教授。この間,ランケの後任としてベルリン大学から招聘を受けたが,辞退して故郷バーゼルを離れなかった。ブルクハルトは,学問的な文化史および美術史の創始者である。

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大辞林 第三版の解説

ブルクハルト【Jakob Burckhardt】

1818~1897) スイスの美術史家・文化史家。美術史・文化史を体系的叙述の学問として確立。著「イタリア-ルネサンスの文化」「ギリシア文化史」など。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ブルクハルト
ぶるくはると
Jakob Burckhardt
(1818―1897)

スイスの歴史家、文化史家。バーゼルの新教派牧師の子に生まれ、最初神学を学んだ。1839年秋以降ベルリン大学で歴史学を学び、43年論文「カール・マルテル」Karl Martelで博士の学位をとった。ベルリン時代には歴史家ランケと美術史家クーグラーFranz Theodor Kugler(1808―58)の指導を受け、多大な影響を受けた。バーゼルに戻って教授資格をとり、45年バーゼル大員外教授。47年夏、師クーグラーの『美術史綱要』の増補改訂のためにベルリンに行き、その前後の時期に二度ローマに滞在。48年から55年までバーゼルで講義活動をし、そのなかから彼の最初の主要著作『コンスタンティヌス大帝時代』Die Zeit Konstantins des Groen(1853)が生まれた。美術史上の傑作といわれる『チチェローネ』(1855)は、1853年3月から約1年間イタリア各地を巡った経験を踏まえて、イタリアの美術作品の鑑賞手引書の役割を果たした。55年秋より新設されたチューリヒの連邦工業大学美術史講座に招かれ、文学者ゴットフリート・ケラーと親交を結んだ。58年から93年までバーゼル大学の正教授として活躍し、一大傑作『イタリア・ルネサンスの文化』(1860)を生んだ。この書によって、イタリアの地における近代世界の誕生を示し、個性的人間のうごめきと芸術作品としての国家を描いた。『イタリア・ルネサンスの歴史』Geschichte der Renaissance in Italien(1867)は建築芸術を対象に体系的叙述をなしたものであるが、これ以後97年に死ぬまで、彼は著書の発表をしなかった。82年にランケの後任としてベルリン大学に招かれたが、バーゼルにとどまった。死後、弟子たちにより多数の遺稿が発表された。代表的なものに『ギリシア文化史』(1898~1902)、『世界史的省察』(1905)などがある。彼は楽観的な進歩信仰を生む発展概念を退け、できごとの発展史的経過を重視せず、没時間的認識により静的な画像をとらえ、類型的なもの、反復するものを研究・叙述の中心に据えた。[森田安一]
『柴田治三郎訳『イタリア・ルネサンスの文化』上下(中公文庫) ▽藤田健治訳『世界史的諸考察』(1981・二玄社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内のブルクハルトの言及

【ニーチェ】より

…ニーチェの思想形成は,こうした19世紀ドイツ市民社会の知的状況に深く根ざしている。
[ショーペンハウアー,ワーグナー,ブルクハルトとの出会い]
 1864年ニーチェはボン大学に入り当初は母の希望もあって神学を学ぶが,すぐに古典文献学専攻に変わり,やがて師のリッチュルFriedrich Ritschl(1806‐76)の転任にともないライプチヒ大学に移る。ライプチヒで彼はショーペンハウアーの哲学を知り,ワーグナーの謦咳(けいがい)に接する。…

【普遍人】より

…多面的才能を兼ねそなえた人間。スイスの史家ブルクハルトが《イタリアにおけるルネサンス文化》(1860)のなかで,ルネサンスが生んだ万能の天才を〈普遍人uomo universale〉として特色づけて以来,広く使用されるようになった。普遍人は,特異な狭い領域にのみ才能を発揮する〈異才人uomo singolare〉と対比され,他方,狭くはないがその広さが特定の領域,たとえば学識や芸術にのみ限られる百科全書的知識人や万能芸術家とも区別される。…

【文化史】より

…1858年《ドイツ文化史雑誌》(現在の《文化史雑誌》の前身)が創刊されたが,その目的は,資料の収集とともに,文化史の方法の樹立にあった。 そのような意味での学問的な文化史の創始者は,ブルクハルトであり,その代表作《イタリア・ルネサンスの文化》(1860)は,文化史の古典と目されている。ブルクハルトの文化史の方法は,彼の美術史の方法と根本において一致する。…

※「ブルクハルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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