スイス連邦を構成するカントン(州),およびその州都名。州人口は128万(2006)。州都の人口は34万(2000)。チューリヒ湖(面積88km2)の湖尻,リマトLimmat川をはさんで発展した町。ローマ時代には,リマト川左岸の氷堆石の小丘リンデンホーフに城塞が作られ,トゥリクムTuricumとよばれ,河川交通の監視所(関税徴収所)となっていたが,都市ではなかった。フランク王国の時代に入って,853年にルートウィヒ2世(ドイツ人王)は娘のためにフラウミュンスターFraumünster修道院をリマト川左岸に建立し,同時にリンデンホーフに新しく王城を建設した。彼は843年のベルダン条約によって獲得した南アレマニア地方の,交通地理的に見て重要な地域であったチューリヒに国王の支配拠点を築いたのである。リマト川右岸には国王領地の教会としてグロースミュンスターGrossmünsterも建立され,9世紀以降興隆を見る。チューリヒは王城,修道院,教会を核にして,それらに仕える人々や商人が集住することで都市へと発展した。史料上では929年に初めてキウィタスの表現があらわれ,10世紀には都市的形態をとったと考えられる。
チューリヒはビュンドナー峠を経てイタリアへ赴くアルプス北側の入口に位置したため,〈イタリア政策〉を行ったザクセン朝やザリエル朝の神聖ローマ帝国の諸皇帝は好んでチューリヒに滞在し,帝国議会を開催した。そのため,政治的にだけではなく,経済的にも栄えることになった。しかし,その後教皇と皇帝の争いが南ドイツ,スイスでも激しく繰り返され,1173年以降は南ドイツの雄邦ツェーリンゲンZähringen家がチューリヒの事実上の支配者となった。1218年同家が断絶すると,帝国都市に上昇し,急速に自治の確立をみた。1220年以降市参事会の存在が確認され,13世紀半ばに石造りの城壁も完成し,完全な中世都市の姿を現した。自治は当初騎士,大商人に担われていたが,経済の興隆とともに手工業者,小商人も市政参加を求めて,1336年にはツンフト闘争が展開した。これ以降チューリヒはツンフト(平民)都市の典型として〈民主的〉発展を見るが,この体制を守るために,1351年にスイス盟約者団に参加した。広大な農村領域支配に成功して,強力な都市国家となったチューリヒはたちまちスイス盟約者団の指導的地位を獲得した。しかし,外へ向かっての勢力拡大は他のスイス盟約者団のメンバーと衝突を生んだ。東スイスとライン川渓谷沿いの重要交通路への勢力拡大は,1436-50年の古チューリヒ戦争をひきおこし,その拡大は,シュウィーツとグラールスの二つのカントンによって阻止された。
16世紀には,ツウィングリによる宗教改革が行われ,チューリヒはスイスと南西ドイツ一帯の宗教的中心地となり,次のブリンガーの時代には東ヨーロッパ諸国,イギリスにも大きな影響を及ぼした。宗教改革期にロカルノ地方から,17世紀にはフランスから多数の宗教亡命者を迎え入れたが,技術を手に持ったこれらの亡命者は再びチューリヒに織物業を盛んにし,経済的繁栄をもたらした。この経済的発展を担った工場経営者は新しい社会層を形成してチューリヒを経済的・文化的なセンターとしたが,政治的には門閥的都市支配を行っていた。これに対して1713年ツンフトが反抗したが,多少の譲歩を勝ち得ただけで,体制は変わらなかった。しかし,フランス革命の影響による1798年の変革,七月革命の影響による1831年の改革によって民主化が完成した。
現在はスイス最大の経済都市であるばかりでなく,世界の金融市場の中心的位置を占めている。この発展の基礎を築いた人物としてはエッシャーAlfred Escher(1819-82)がいる。彼は19世紀チューリヒの政・財界の頂点に立っただけではなく,チューリヒ工科大学学長として職務を果たす一方,スイス銀行制度の基礎を築き,ヨーロッパ南北鉄道交通のかなめとなるザンクト・ゴットハルト峠の鉄道トンネル工事を完成へ導いた。〈鉄道王〉と言われる彼の銅像は,チューリヒ中央駅頭に立っている。そこを基点として始まるバーンホーフ通りはヨーロッパでも屈指の美しい商店街であるとともに,世界金融界の目が注がれるビジネス・センターともなっている。また,チューリヒ大学(1833創設),同工科大学(1855創設)など教育・文化施設も多い。
執筆者:森田 安一
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スイス最大の都市で、チューリヒ州の州都。人口34万0873(2001)、近郊の人口集中地区を含めると94万3400に達する(1999)。チューリヒ湖から流出するリマト川の谷にその中心部がある。市の発展は湖尻(こじり)を囲む一連の堆石(たいせき)(モレーン)の丘陵の配置と関連が深い。すでにローマ時代に、現在の市庁舎に近いリンデンホーフにリマト川をまたぐ橋の防御のために砦(とりで)がつくられたが、このリンデンホーフも堆石の丘である。現在の都市の形態は13世紀に築造された城壁の位置の影響を受けており、かつての堀跡がヒルシェングラーベン、ザイラーグラーベン、バーンホーフ通りなどの街路である。19世紀の前半には、都市発展の障害であったその外側の新しい最後の城壁も取り払われ、その跡はシャンツェングラーベン通りとして残っている。このときからチューリヒは閉じた都市から開けた近代的な都市へと変貌(へんぼう)し、1893年11村、1934年8村の二度にわたる周辺の町村編入により大都市となった。
この100年間にみられる旧市域内の建造物の変化には著しいものがある。住宅が商店、会社に場所を譲り、都心部の昼間人口は激減した。しかし旧市域には多くの歴史的建造物があり、グロースミュンスター寺院、フラウミュンスター寺院、ザンクト・ペーター教会などのほか、リマト川の岸にはいくつものツンフト(同職ギルド)会館があり、有史前から現代に至る歴史・文化遺産を集めたスイス国立博物館も一見の価値がある。チューリヒはスイスの首都ではないが(首都はベルン)、商工業の中心をなし、国際的にも金融・貿易・観光の中心的役割を果たしている。スイスの大銀行のほか、各国の銀行の支店が集まり、保険会社も多い。また、旧市域には繊維工業が立地し、副都心のエーリコンを中心とする第二の工業地区も形成されている。チューリヒ大学と連邦立理工科大学があり、3万余の学生が学ぶ。
チューリヒ州はチューリヒとウィンタートゥール両市を中心としたスイスの商工業の中核地域をなし、面積1729平方キロメートル、人口122万8600(2001)。州人口の約28%が州都であるチューリヒに居住する。
[前島郁雄]
929年に初めてキーウィタース(都市)という呼称が史料上に現れる。11世紀初頭には重要都市としてしばしば帝国議会も開催された。1218年帝国都市となり、市参事会の存在も1220年以降明確となる。1336年ツンフト闘争に勝利して、手工業者、小商人も市政参加が認められた。このツンフト体制を維持するために、1351年にスイス誓約同盟に参加し、またたくまにスイスの指導的地位を獲得した。それはチューリヒが広大な農村地域を支配し、強力な都市国家を形成していたからである。16世紀にはツウィングリによる宗教改革が行われ、スイスと西南ドイツ一帯の宗教的中心地になった。その後、手に技術をもった新教派の避難民(17世紀のユグノーを含む)を多数受け入れ、織物業を中心に経済的に発展した。この経済発展にのった大商人による門閥都市支配は、18世紀末のフランス革命の影響で民主化されるまで続いた。現在も金融業を中心とするスイス経済の中枢都市となっているのは、こうした経済発展の伝統を引くものである。
[森田安一]
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スイス北東部のチューリヒ湖に面したスイス最大の都市。起源はローマ人の築城にあり,13世紀以後神聖ローマ帝国下の自由都市。1519年ツヴィングリの宗教改革運動はこの地で始まった。
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